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あやかしの海、硝子の揺り籠 〜結界術師の次男坊は、独自開発の『法具』と『小隊戦術』で平安異世界を圧倒する〜  作者: 鶯神楽
1部:3幕:教導寮四級童~三級童

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77話:穢と浄の覚え書き

 表門をくぐったとき、家の灯が一つだけ点いていた。


 居間の障子に薄い暖色が滲んでいる。冬の夕暮れは早く、教導寮を出て里の道を歩く間に空は紺碧から藍へ、藍から墨へと重ねるように暮れていった。朔は門脇で草履の土を落としながら、篝の気配を探った。


 ——いない。


 家の中に篝の気配がなかった。瑞が台所に立っている匂いだけが渡り廊下から届いている。篝は浄身院だろうと朔は思った。蓮と一緒に出かけて、まだ帰っていない。


 以前なら気にしていた。篝が家にいないということが、篝の体に何かが起きたのではないかという不安と直結していた頃がある。今はそうではなかった。篝が留守であるということは、篝が外にいるということだった。薬草園で根の手入れをしているのか、薬典庫で巻物の埃を払っているのか。蓮の横を歩き、澄明に挨拶をし、古参の癒し手と言葉を交わし——朔の知らない篝の時間が外にある。それを朔は信じていた。


 居間に入り、火鉢の前に座って手を温めた。冬の空気が指先から熱を奪っていく。


 帰り道、結界際のことを一度も考えなかった。ここ数日はそうだった。凌との結界際の応急補修は鎮護寮の補修組に引き継がれ、日常が戻っていた。教導寮で班の鍛錬を終え、善次郎と別れ、凌と分かれ道まで並んで歩き、帰る。ただそれだけの放課後。


 だが帰り道で考えなかっただけで、消えたわけではなかった。


 凌の法力を結界の溝に受け入れたとき。蒼白い光が金色の経路を這い、振動を含んだまま——溢れずに通った。あの感触がまだ指先のどこかに残っていた。結界は凌の法力を弾いたのではなかった。通した。溝の幅を広げて、揺れごと通した。


 ——あれは、何だったのか。


 朔はその問いを頭の中から追い出さなかった。ただ、追わなかった。答えがすぐに出る種類の問いではないと知っていた。感覚の残像をそのまま抱えたまま、火鉢の炭に息を一つ吹きかけた。


---


 玄関の引き戸が開く音がした。


 「こんばんはー」


 蓮の声。続いて草履を脱ぐ音がして——


 「さくにぃ!」


 篝の声だった。いつもの「ただいま、さくにぃ」とは違っていた。語尾が跳ねている。廊下を歩く足音が小走りに近い。篝が居間の障子を開け、朔の前に膝をついた。


 頬が紅かった。冬の外気に当たった赤みではなく、内側から滲む紅潮。篝の目が光っていた。何かを成し遂げた子供の目だった。


 「ねえ、さくにぃ。あのね、ようやく読めたの」


 朔は少し目を瞠った。篝が浄身院から帰ってきてこんな顔をするのは初めてだった。薬草園の仕事を終えて満ち足りた顔で帰ってくる日はある。でも今日は、満足ではなく興奮だった。


 「何が読めたの」


 「巻物」


 篝はそう言ってから、言葉が追いつかないように一度息を吸った。話の手順を考えている。篝は嬉しいことがあるとき、伝えたい順番を組み立ててから話し始める癖があった。


 「前にね、さくにぃに話したの覚えてる? 薬典庫の奥の棚に、誰にも読めない巻物があったの。ほとんどは虫に食われてたんだけど、一本だけまだ残っていて——表紙に『穢と浄の覚え書き』って書いてあるの」


 朔は頷いた。覚えている。篝が書庫整理の中で古い巻物を見つけたと話してくれたのは、何日か前のことだった。ただそのときは、古い記法で書かれていて読み取れないと言っていた。


 「あれね、ずっと読もうとしてたの。でもね、すごく難しかった」


 篝が両手で巻物を広げる仕草をした。丁寧に、壊さないように。


 「今の字と全然違うの。書き方も、言葉の使い方も。天蓋歴のずっと前の記法で——癒し手さんたちも読めなかったのは当然だと思う。お父様の書庫にあった古い文献と似た記法なんだけど、それでも分からない字がたくさんあって」


 篝の声が少しだけ落ち着いた。思い出しながら話す声になっていた。


 「毎日少しずつ読んでたの。一行ずつ、前後の文脈から意味を推し量って。お父様の書庫で読んだ文献の記憶と照らし合わせて、この字はたぶんこの意味だろうって。篝は外に出られないとき、ずっとあの書庫で古い記法を読んでいたから——他の人よりも、古い字の勘みたいなものがあるの」


 朔は篝の言葉を聞きながら、合点がいっていた。篝は幼い頃から土御門家の書庫に入り浸っていた。外に出られない日々の中で、篝にできたことの一つが読むことだった。古い記法、失われかけた用語——篝はそれを楽しむように読み解いてきた。積み上げた知識の蓄えが、今この巻物に向き合う力になっている。


 そしてもう一つ。癒し手たちには日々の務めがある。患者の世話があり、薬の調合があり、回診がある。古い巻物の解読に何日も費やせる者はいない。篝には、体が弱いゆえの静かな時間があった。薬草園の手入れを終えた後、薬典庫の片隅で巻物と向き合う長い午後。他の誰にもない時間が、篝にはあった。


 「それでね、今日ようやく最後まで読み通せたの」


 篝が朔の目を見た。光っている目のまま。


 穢と、浄。


 その二つの字が朔の耳に改めて届いたとき、何かが引っかかった。まだ形にならない引っかかり。


 「それで、何が書いてあったの」


 篝の目がさらに輝いた。伝えたいことの核心に入る顔だった。


 「二つあるの」


 篝は指を二本立てた。


 「一つ目はね。結界のこと」


 正確に伝えたいときの篝の声だった。興奮の中に、丁寧さが混じっている。


 「結界は穢れを弾いてるって、みんな思ってるでしょう。でもあの巻物には、弾いてるんじゃないって書いてあったの。結界は穢れの通る量を調節しているの。全部止めてるんじゃなくて、少しずつ通して——堰みたいなものなんだって」


 朔の呼吸が一拍止まった。


 ——弾くのではなく、通す量を制御している。


 篝の言葉が、何か遠いものに触れた。指先で触った程度の、微かな接触。


 「二つ目はね。浄化のこと」


 篝が続けた。


 「穢れを消すんじゃないの。受け入れて中和するの。外から弾くんじゃなくて——穢れを取り込んで、陽の法力で打ち消すっていう仕組み。上手く言えないんだけど……」


 篝が首を傾げた。言葉を探している顔。そして——ぽんと何かを思い出したように目を開いた。


 「篝ね、この部分を解読したとき、守篝のことを思い出したの」


 「守篝?」


 「うん。守篝の浄域膜も、穢れを弾いてるんじゃないでしょう。少しずつ受け入れて、消してるでしょう。……同じことが書いてあるの」


 朔は篝の顔を見ていた。


 篝は興奮の中にいたが、その言葉には不思議な確かさがあった。篝にとって古文献の記述は新しい知識ではなかった。八年間、穢れを体の中に感じ続けてきた篝には——言葉にならなかっただけで、ずっと知っていたことだった。何日もかけて一字一字解き明かした文字列が伝えていたのは、知識ではなく名前だった。篝の体感に名前がついた。


 ——弾くのではなく、受け入れて変換する。


 朔の意識の中で、凌の法力が溝を通ったときの感触が一瞬だけ甦った。あのとき結界は何かを「弾いた」のではなかった——。


 しかし朔はその先を追わなかった。共鳴はあった。微かな、遠い共鳴。しかしそれが何を意味するのかは、まだ分からない。


 「……そうなのか」


 短く返した。篝は満足そうに頷いた。兄が聞いてくれたことが嬉しいという顔だった。


---


 篝は続けて、解読に至るまでの経緯を話した。


 「最初にね、巻物を見つけたとき、篝が勝手に開いちゃったの。でも蓮ねぇが『ちゃんと許可をもらおう』って言って、澄明おじさまに聞いてくれたの」


 篝が蓮の口調を真似た。蓮の物怖じしない声と篝の柔らかい声では全く違うはずだが、篝はそのことを意識していない。


 「『篝ちゃんが深い棚の巻物を読めそうなんです。読んでいいですか』って。そうしたら澄明おじさまが——」


 篝がここで一度止まった。言葉を選んでいるというより、澄明の返答を正確に思い出そうとしている。


 「『あの棚の巻物は存在は知っているが、中身を読み解ける者がいなかった。読めるなら、頼む』って」


 朔は黙って聞いていた。


 「それからね、毎日少しずつ読んだの。お母様も最初は心配してたんだけど、『篝は土御門家の書庫で古い記法の文献を読んできたから』って澄明おじさまに説明してくれて。お母様がね、篝が解読した部分を見て驚いてたの。『篝、ここまで深い文献を読み解けるの』って」


 瑞の驚きが目に浮かんだ。篝が静かに積み上げてきたものの一端が、また一つ外に出た。薬草の知識は浄身院で認められた。古文献の読解力は、何日もかけた地道な解読の結果として、ようやく認められた。篝が体の弱さの中でひたすらに積み上げてきたものが、必要とされる場所で実を結んでいく。


 「澄明おじさまがね、今日読み終わったって報告したら言ってくれたの」


 篝の声が柔らかくなった。


 「『よくやった。他にも巻物がある。引き続き頼む』って」


 朔は篝を見た。篝の目は、もう興奮の色よりも穏やかな光に変わっていた。「よくやった」「引き続き頼む」——その言葉が篝にとって何を意味するか、朔には分かった。薬草の手伝いとは違う。篝にしかできないことだった。あの薬典庫の深い棚に眠る巻物を読み解ける者が、今、この里には篝しかいない。知識があっても時間がなければ解読はできない。時間があっても古い記法を知らなければ文字は文字のまま沈黙する。その両方を持つのが篝だった。


---


 居間の灯が火鉢の炭に映っている。


 冬の夕暮れは早い。障子の外はもう暗くなり始めていた。篝が「外に出たいな」と呟き、二人は縁側に出た。寒かったが、守篝が篝の体を穢れから遮っている限り、冬の外気だけで篝が縮こまることはなかった。


 並んで腰を下ろした。篝の足が縁の先に届かず、宙に浮いて揺れている。朔の足は縁を越えて草履の先が地面に触れていた。いつの間にか、座ったときの目線に少しだけ差がついていた。


 庭の向こうに、敷地結界の微かな脈動が見える。基が毎日維持している結界の法力が薄い金色に明滅して、冬の暗がりの中に輪郭を作っている。その脈動の向こうに星が一つ二つ覗いていた。


 「さくにぃ」


 篝が横を向いた。朔も篝を見た。


 「篝でも、役に立てた?」


 その問いの声は小さかった。興奮が引いた後に残った、篝の本当の声だった。巻物を見つけた嬉しさとは別の、もっと深いところから出てきた問い。


 朔は迷わなかった。


 「篝にしかできないことだよ」


 言葉が口を出た後で、朔は気づいた。同じ言葉だった。篝に守篝の協力を頼んだとき——篝の穢れの体感を言葉にしてほしいと頼んだとき——に言った言葉と。あのときは、朔が篝に頼んだ。篝の苦しみの形を教えてくれと。


 今回は違った。


 篝が自分で見つけてきた。誰にも頼まれず、薬典庫の奥で古い巻物を開き、何日もかけて一字一字を解き明かし、自分の体で意味を理解して——兄のところに持って帰ってきた。


 朔の視界の隅で、何かが繋がりかけた。


 篝が地面に描いた絵。雨に消えるとわかっていて、外の世界を描いて朔に見せてくれた幼い篝。朔が影写しで景色を篝に届けた日。そして——篝が古い知識を朔に渡した今日。篝が「見せたい」と思って差し出すものの質は変わった。地面の絵から、巻物の知識へ。しかし篝の気持ちの形は、何も変わっていなかった。


 朔に見せたい。それだけだった。


 変わったのは、篝がそれを外で見つけてこられるようになったことだ。


 「明日からね、次の巻物に取りかかるの。まだ他にも棚に残ってるんだって。蓮ねぇが一緒に行ってくれるの」


 篝が嬉しそうに言った。明日の予定を語る声。外にある自分の時間を語る声。


 「うん。気をつけてね」


 朔が返した。いつの間にか、朔が篝を送り出す言葉になっていた。篝が「行く」と言い、朔が「気をつけて」と返す。いつからこうなったのだろう。いつの間にか、篝は朔の送り出しを待つ側から、出かけていく側に立っていた。


 冬の風が庭木の梢を撫でた。敷地結界の脈動が一度だけ大きく揺れ、また穏やかな明滅に戻った。


 篝が朔の肩にもたれかかった。


 重みは軽かった。兄の肩に、妹の頭が預けられている。篝の呼吸がゆっくりと深くなっていく。浄身院で過ごした一日の疲れが、体をとろりと緩ませている。守篝が篝の体を穢れから守り、蓮が篝の傍に立ち、澄明が篝の力を認め——その全ての先で、篝は兄の肩で眠りに落ちようとしていた。


 朔は動かなかった。


 篝の髪の先が朔の首に触れている。冬の夜気が冷たいが、篝の体温が肩から伝わっていた。庭の暗がりの中で敷地結界だけが淡く光り、その光の脈が朔と篝の輪郭をぼんやりと照らしていた。


 篝の寝息が聞こえる。朔は空を見上げた。星がいくつか増えていた。


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