71話:太陽の翳り
春が深い。
教導寮の中庭を横切ると、大楠の下に木漏れ日が散っていた。朝の湿り気を含んだ風が枝の隙間を抜けて、地面にまだら模様を落としている。新緑の匂い。根元に並んだ四つの水筒が、影の中で光を弾いていた。
「だーかーらー、善次郎くんが水筒持ってきてくれるの助かるけど、毎回中身がぬるいの!」
蓮の声が中庭に響いた。善次郎は大楠の幹に背を預けて腕を組んだまま、何も答えなかった。ただ僅かに口元が動いた。反論ではない。善次郎が蓮に何か言い返すことは滅多にない。
凌が水筒の蓋を開けて一口飲み、そのまま蓮の手を掴んで引き寄せた。
「うるせぇな。ぬるくていいんだよ。冷てぇより腹に来ねぇだろ」
「凌まで善次郎くんの味方する!」
蓮が凌の手を振り払って、善次郎に向き直った。善次郎が微かに首を傾げた。傾げただけで、蓮は「はいはい、もういい!」と両手を上げた。
朔は大楠の根に腰を下ろし、二人のやりとりを聞いていた。いつもの朝だった。善次郎が水筒を四つ用意し、蓮が中身の温度に文句を言い、凌がどちらの肩も持たず、結果的に善次郎側に立つ。四人で過ごす昼前の時間は、この一年で揺るがない形を持つようになっていた。
蓮が朔の隣に座った。朔に身を寄せるように、ではなく——根のくぼみに自然に収まる形で。
「朔くんは? 今日の午後、何してるの」
「兄上の結界巡回に同行する予定だったけど、兄上の都合がつかなくなったから、午後は空いてる」
「じゃあ暇だね」
蓮が笑った。いつもの笑みだった。頬が持ち上がり、翡翠色の目が細くなる。くせのない黒髪が首の後ろで一つに結われていて、袖口に——薬草の匂いだろう——かすかに青い香りが残っている。
ただ。
朔の目が一瞬だけ、蓮の顔に止まった。
蓮は笑っていた。目も口も笑っている——はずだった。けれど朔が見たのは、翡翠色の目の奥の、ほんの僅かな翳りだった。目が細くなることで隠れる何か。光が入らない場所。
蓮が立ち上がった。
「あたし、浄身院行くね。午後からお手伝い」
善次郎が顎で頷いた。凌が「おう」と短く返した。蓮は荷を肩にかけ、中庭を横切って里の道へ出ていった。小走りの足音が遠ざかる。背中はいつも通り真っ直ぐだった。
朔は蓮の背中を見送りながら、さっきの翡翠色の翳りを反芻した。気のせいかもしれなかった。蓮はいつも忙しく、浄身院で処置を手伝い、篝と薬草の名前を確かめ、帰ってくると班の空気を整える。疲れているだけかもしれなかった。
分析が巡って、その結論で止まった。疲れているだけだ、と。
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教導寮の休みの日だった。
朔は朝から浄身院に向かった。目的は篝の顔を見に行くこと——だが、足が向いたのは薬草園よりも奥だった。数日前の、蓮の目の翳り。あの一瞬は分析の結論で塗り潰したはずだった。だが休みの朝に目が覚めたとき、その結論が剥がれていた。
浄身院の敷地に入ると、本院から処置棟へ抜ける渡り廊下が南に伸びていた。薬草園は西にある。篝は今頃あちらにいるだろう。蓮がいつも篝を連れていく。
渡り廊下を歩いた。左手に薬草園、右手に処置棟。棟は渡り廊下で本院に繋がっているが、空気が違った。薬草の匂いが薄れ、代わりに香木の煙が漂ってくる。穢れの残り香を抑えるために焚き続けている浄めの煙だった。
処置棟の前に立ったとき、戸が微かに開いていた。
中に入るつもりはなかった。処置棟は穢れの第二期患者を治療する場所であり、許可なく立ち入ることはできない。だが戸の隙間から——声が漏れていた。
蓮の声だった。
「大丈夫です、まだやれます」
低く、落ち着いた声だった。班にいるときの蓮の声ではなかった。凌と善次郎の口喧嘩を治療代で脅して止めるときの、あの弾けた明るさがない。代わりに——浄身院の癒し手としての声があった。正確で、静かで、迷いがない。
戸の隙間から見えたのは、処置室の一角だった。
横たわった人がいる。外采使だろう。体格が良く、だが布に覆われた上半身は力を失くしていた。布の端から覗く腕に、黒い紋様が浮いている。菌糸が皮膚の下で伸び、地図のような模様を描いて脈打っている。穢れの第二期——根。神経に絡みついた菌糸が法力の経路を侵し、体の内側から人を書き換えていく段階。
蓮がその腕の上に手を置いていた。
指先から翡翠色の光が滲んでいた。癒除術の法力だった。淡い光が患者の腕を包み込み、黒い紋様に沁み入っていく。蓮の手元が光を帯びるたびに、紋様が薄くなる。呼吸が整う。患者の強張っていた指がゆっくりと開いた。
蓮の手つきは正確だった。法力の注ぎ方に淀みがない。古参の癒し手と比べても遜色のない——いや、九歳でこの精度に達していること自体が異常だった。蓮の癒除術が古参を凌ぐ練度に成長していることは、浄身院の中では知られ始めていた。澄明がここ数月で蓮の処置を第二期患者にまで広げたのは、人手不足のためではない。蓮の手が、そこに届くようになったからだった。
紋様が薄くなった。患者の顔に安堵が広がった。
蓮の手が離れた。
三拍、四拍。
黒い紋様が、戻ってきた。蓮の手が離れた箇所から、菌糸が再び浮き上がり、薄くなったはずの模様が元の色を取り戻していく。患者の指が再び強張った。
蓮が、もう一度手を当てた。
翡翠色の光が注がれる。紋様が薄くなる。呼吸が落ち着く。蓮の手が離れる。——紋様が戻る。
菌糸が神経に根を張っている。法力で穢れを押し退けることはできる。だが引き抜くことはできない。引き抜けば神経ごと壊れる。抑えることはできても、治すことはできない。
蓮がもう一人の患者のもとに移った。同じだった。手を当てて、光を注ぎ、紋様を薄くし、手を離し、紋様が戻る。手を当てて、光を注ぎ——同じ所作が、繰り返されていた。
朔は戸の隙間から目を逸らせなかった。
蓮の横顔が見えた。手つきは変わらない。法力の精度も変わらない。けれど——蓮の顔から、笑みが消えていた。
蓮はいつも笑っている。班にいるとき、篝と薬草を仕分けているとき、凌の怪我を治しているとき——どんな場面でも蓮の顔には笑みがあった。怒っているときですら口元に笑みの形が残る。それが蓮だった。班の太陽。笑うことで周囲を照らし続ける、蓮という人間の在り方そのものだった。
その笑みが、ない。
蓮の顔に浮かんでいるのは——何もなかった。笑顔でも、泣き顔でも、怒りでも、諦めでもない。何も浮かべていない、素のままの顔。朔が初めて見る蓮の顔だった。
処置が終わった。蓮が立ち上がり、処置室から廊下に出た。朔は咄嗟に柱の影に身を引いた。
蓮は廊下に出ると、壁に背を預けた。右手の甲で額を拭った。息を整えている。法力の消耗ではなかった。蓮ほどの練度であれば、第二期の処置補助は法力を搾り切る作業ではない。遠い場所から引き戻してくるように、長く息を吸い、吐いた。
蓮が顔を上げた。
無表情だった。
翡翠色の目が天井の梁を見ていた。何も映していなかった。いつもなら周囲の空気を読み取り、誰かの体調を見抜き、次に何をすべきかを瞬時に判断する——あの蓮の目が、何も捉えていなかった。
朔の胸の奥で、思考が空転した。何と名づけていいか分からなかった。蓮が泣いているなら声をかけられる。蓮が怒っているなら理由を聞ける。だが蓮の顔には何もなかった。何もないことの意味を、朔は処理できなかった。
蓮が気配に気づいた。
視線が柱の影を捉えた。一拍——蓮の顔に、笑顔が戻った。
「あ、朔くん。今日来てたの? 篝ちゃんなら薬草園にいるよ」
その復帰は、あまりにも正確だった。
壁に背を預けてから笑顔が戻るまで、数えるなら二拍。それだけで蓮は「いつもの蓮」を完全に再構成した。声の高さ、目の細め方、口の開き方——欠けている要素は何一つなかった。五年の時間をかけて磨き上げた鎧のように、精密に嵌め込まれた笑顔だった。
「……うん。篝の様子を見に来た」
朔は言った。そのまま「蓮は?」と訊きかけて、止めた。
訊けば蓮は「大丈夫だよ」と笑うだろう。「大丈夫」——蓮の口癖だ。「大丈夫、なんとかなる」「大丈夫、任せて」。蓮の「大丈夫」を引き出すことが正しいのか。蓮にもう一度あの鎧を被らせて、笑顔のまま送り出すことが——正しいのか。
朔は踏み込まなかった。
「じゃあ、薬草園のほうに行くよ」
「うん! 篝ちゃんに、今日採ったばっかりの甘草の根を見せてあげてって言ってみて。あの子きっと喜ぶから」
蓮が右手を軽く振った。朔は頷いて、渡り廊下を薬草園のほうへ歩き出した。
背を向けた瞬間、廊下の奥から別の足音が聞こえた。重く、静かな足音。朔が振り返ると、処置棟の奥から歩いてきたのは澄明だった。浄身院の長。蓮の父。白い浄衣の袖口に消毒の匂いが染み込んでいる。
澄明は朔を見た。蓮がいた場所を一度見て、それから朔に目を戻した。
短い沈黙があった。澄明の穏やかな翡翠色の目に、普段とは違う光が宿っていた。蓮と同じ翡翠の色。蓮の目が感情をそのまま映すなら、澄明の目はそれを受け止めて沈める。
「あの子は、上手くなりすぎた」
低い声だった。朔に向けた言葉だったのか、それとも独り言だったのか——判断がつかなかった。
上手くなりすぎた。上手くなったから、第二期に触れられるようになった。触れられるようになったから、「治せない」が見えるようになった。
澄明の目が処置棟の戸に向いた。父の顔と、浄身院の長の顔が同じ輪郭の上に重なっている。娘の成長を誇りに思っているのだろう。それと同時に——その先に苦しみがあることを、知っているのだろう。
澄明は何も付け足さなかった。朔に軽く頷いて、処置棟の中に入っていった。
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夕暮れだった。
浄身院の敷地を出て、里の道を二人で歩いていた。篝は瑞が先に迎えに来て帰宅していた。蓮と朔が並んで歩くのは久しぶりだった。入学前の幼い頃は従姉弟でよく並んで歩いたが、班が結成されてからは凌と善次郎を含めた四人で歩くことが多くなっていた。
蓮は「いつもの蓮」に戻っていた。
「今日の訓練って何やったの? 休みだからないか。あ、朔くん午後暇だって言ってたもんね。凌と善次郎くんは何してたかな、あの二人放っとくとすぐ無茶するし」
蓮が喋っている。弾んだ声が夕暮れの道に響いた。朔は相槌を打った。
「善次郎は家で薙刀の手入れをしてたと思う。凌は——たぶん走ってる」
「走ってるって、また一人で? 結界際まで行くんでしょ、あの子。帰ってきたら足の裏が擦り切れてるの。あたしが治すのに」
蓮が呆れたように笑った。いつもの蓮だった。
道は居住区を通り、北西の丘に向かって緩やかに登っていく。夕暮れの陽が低く差し込んで、二人の影が長く前方に伸びていた。道端の草が春の終わりの色を帯びて、萌黄から深い緑に変わりかけている。
土御門家の門が見えてきた。
蓮は葛葉家のほうへ行く。分かれ道の手前で、蓮が足を止めた。
「じゃあね、朔くん。おやすみ」
振り返った蓮は笑っていた。
朔は知っていた。あの処置棟の廊下で、蓮は微笑んでいなかった。
「おやすみ」
朔が返した。蓮が手を振って——数歩歩いて、不意に足を止めた。
振り返らなかった。
「……ねえ、朔くん」
朔は蓮の背中を見ていた。日中の蓮の背中は真っ直ぐだった。班にいるとき、薬草園にいるとき、処置を終えて笑顔を被り直したとき——蓮の背骨は揺らがなかった。
今、蓮の背中は小さかった。班にいるときより、ずっと小さく見えた。
「うん」
朔が応えた。
沈黙が落ちた。夕暮れの道に風が吹いた。草の匂いが頬をかすめた。蓮の結われた髪の先が揺れて、首筋に掛かった。
「……なんでもない。おやすみ」
蓮は手を振らなかった。そのまま葛葉家のほうへ歩き出した。足音は軽かった。いつもと同じ速さで、迷いのない歩幅で——けれど手を振らずに去っていく蓮の背中を、朔は初めて見ていた。
蓮の背中が、夕暮れの道の先で小さくなっていく。
朔は門の前に立ったまま、動かなかった。
あの日のことを思い出していた。二年次の末、序列発表の帰り道。凌が初穂を獲ったとき、蓮は笑って拍手した。本心からだった。ただ——手のひらが赤かった。朔はそれを見て「叩きすぎたんじゃないかな」と言った。蓮は一瞬だけ笑えない顔になって、すぐに「叩きすぎたかな!」と笑い飛ばした。
あのとき朔は何も言わなかった。蓮が笑い飛ばしたから、それでいいと思った。蓮の悔しさは蓮のものだった。蓮が自分で折り合いをつけたなら、踏み込む必要はなかった。
今回は違う。
蓮が笑い飛ばせるような話ではなかった。あの日の蓮の悔しさは、競い合いの中の感情だった。努力すれば届く場所にあるものだった。今日の蓮の前にある壁は——努力では超えられない。癒除術をどれだけ磨いても、第二期の菌糸は引き抜けない。手を当てて光を注ぎ、手を離せば戻る。その繰り返しの中で、蓮の「大丈夫、なんとかなる」が通用しない世界がある。
蓮に「大丈夫?」と訊けば、蓮は笑顔で「大丈夫」と答えるだろう。蓮の鎧は精密だった。二拍で笑顔を再構成できるほどに鍛え上げられていた。
その鎧の下にいる蓮に、どう手を伸ばせばいいのか。朔の分析は答えを出さなかった。
土御門家の門をくぐった。
蓮の「なんでもない」の声が、門をくぐった後も耳の奥に残っていた。あの声は——蓮が朔に「踏み込んでほしい」と言えなかった声だ。言えなかったのは蓮の弱さではない。笑顔で場を照らし続けてきた蓮には、助けを求める語彙がなかった。
朔の足が止まった。渡廊下の板が足の裏に冷たかった。
蓮を放っておくことはできない。けれど今日の自分が踏み込んでも、蓮の鎧を叩くだけだ。蓮の笑顔を剥がすことが正しいのではない。蓮が鎧を外しても壊れないと信じられる何かが——要る。
春の夕暮れの空が、群青に沈んでいく。結界の向こうで風が鳴っていた。渡廊下の柱に手をかけたまま、朔は蓮の「なんでもない」を抱えて立っていた。




