70話:篝の庭
冬の朝だった。表門の前に、蓮が息を切らせて走ってきた。白い吐息が先に届いて、体が追いついた。
「ごめん、篝ちゃん、ちょっと遅くなった!」
篝は門柱のそばで待っていた。瑞に結ってもらった髪が朝の風にわずかに靡いている。敷地の内側にきちんと立って、里の道に出ないまま——門のすぐ手前で、蓮を待っていたのだ。
朔は渡廊下から二人を見ていた。
篝が振り返った。朔に向けて、片手を上げた。
「さくにぃ、行ってきます」
声は軽かった。以前なら朔が「気をつけて」と返していた。今はもう返さなかった。篝が蓮と並んで歩き出すのを、渡廊下の柱に手をかけたまま見送った。
二つの背中が里の道に消えていく。
蓮が何かを喋っていた。篝が笑って何か返している。声は届かなかったが、篝の肩の動きが楽しそうだった。
護帯の配備が始まってからしばらくが過ぎていた。外采使の帰還時の穢れ曝露が軽くなったと、浄身院の癒し手たちが口にし始めたのは最近のことだった。朔の耳にも断片的に入ってきている。篝の脈動が、護帯を通じて里の空気を少しだけ変えている。篝はそのことを知らないし、知らなくていい。
朔は支度を終えて門を出た。教導寮への道を歩いた。冬の陽は低く、石段の表面に長い影が伸びている。
今日も篝のほうが先に出た。出かける先があるということ。行ってきますと言えること。振り返らず歩いていけること。
通学路の分かれ道で、凌が石垣に寄りかかって待っていた。
「おせぇな」
「うん。篝を見送ってた」
凌は何も訊かなかった。二人は並んで歩き出した。
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教導寮の休みの日だった。
朔は朝から浄身院に向かった。篝と蓮が先に行っている。朔が浄身院を訪ねるのは珍しかった。瑞に頼まれて篝の着替えを届ける用事があった——だが半分は口実で、朔自身が浄身院の篝を見てみたかった。
土御門家から浄身院までは里の中で最も長い距離だった。北西の高台から中央の居住区を横切り、南の水辺近くまで歩く。冬の朝の空気は硬く、地面に残った霜が陽を受けて融けかけている。途中の道で、護帯を巻いた外采使が浄身院のほうから歩いてくるのとすれ違った。帯の縁の刺繍糸が微かに色を帯びている。石に嵌まった法石が、朔には見えない速度で五行を巡っているはずだった。
浄身院は南に面した広い敷地にあった。本院の棟が幾つか連なり、その奥に薬草園が見える。渡り廊下が棟と棟をつなぎ、薬草の匂いが冬の空気に混ざって漂っていた。乾いた紙の匂いと土の匂いが重なる場所。
入口で朔を迎えたのは、葛葉澄明だった。蓮の父にして浄身院の長。穏やかな眼差しが蓮と同じ翡翠色をしていた。ただし蓮の瞳が光を跳ね返すなら、澄明の瞳はそれを静かに受け止める。
「朔くんか。篝ちゃんなら薬草園にいるよ」
「着替えを預かってきたのですが」
「ああ、ありがとう。——しかし助かっているよ、篝ちゃんには。薬草の名前をよく知っているし、何より手が丁寧だ。仕分けを頼むと、乾燥の具合まで自分で見分けている。うちの若い癒し手より余程正確でね」
澄明は笑った。蓮の明るさとは色が違うが、根は同じ温かさだった。里の医療の最高責任者が、篝の貢献を自然に認めている。
朔は着替えの包みを渡して、薬草園に向かった。
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渡り廊下を抜けると、薬草園が広がっていた。
南向きの陽を受けて、冬枯れの薬草畑が淡い色を帯びている。霜が融けた土の表面が湿っていて、踏めば柔らかい。低い垣根で区画が分けられ、乾燥棚がところどころに立っている。棚の上に吊るされた薬草が冬の風に揺れて、かすかに青い匂いを飛ばしていた。
篝を見つけた。
薬草園の一角にしゃがみ込んで、両手で何かの根を丁寧に土から掘り起こしていた。指先に泥がついている。隣に籠があり、掘り出した根がいくつか並べてある。大きさの順に——整然と。
瑞がそのすぐ傍に立っていた。しかし手を出していなかった。
「篝。その根の汚れ、爪で落とすより水で流したほうがいいわ。繊維を傷めるから」
「うん。でもお母様、この根はまだ土がついてるほうが乾かしやすいって、あの本に書いてあったよ」
瑞の手が止まった。
朔は渡り廊下の柱の影から二人を見ていた。瑞の表情が、母親のそれから別のものに移るのが見えた。娘を見守る目ではなく——手技を確かめる目。癒し手の先輩が後輩の手つきを見るときの目。
「……そう。確かに、そうね。どこでそれを読んだの?」
「お父様の書庫に、薬草の古い本があるの」
篝の声は淡々としていた。特別なことを言っているつもりがない声だった。朔は、篝が外に出られなかった日々の中で——部屋の中で何をしていたのかを、初めて具体的に知った。褥の上で本を読んでいた。薬草の名前を覚えた。根の扱い方を学んだ。体は動かせなくても、頭の中では手が動いていた。
瑞はしばらく黙って篝の手を見ていた。泥のついた細い指が根を持ち上げ、繊維の状態を確かめるように撫でている。瑞はあの目をしていた——朔が何かを作り終えたとき、母が見せるのと同じ、驚きと認識が混ざった目。
朔は声をかけずに、もう少し見ていた。
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昼前に、薬草園の仕事が一区切りついた。
朔は渡り廊下の奥——処置棟へ続く廊下のそばで、篝がすれ違う人々とどう交わるかを見ていた。古参の癒し手が篝に声をかけた。黒子のような女で、瑞より年嵩に見える。
「篝ちゃん、今日もありがとうね。あの根、助かったわ」
「ううん。——あの、奥のほうにいた方、さっきより楽そうに見えたんだけど」
篝が処置棟のほうを指した。
癒し手が足を止めた。
「……よく気がつくわね。穢れが引いている時間帯だからよ」
「穢れが引いてるの、わかるの?」
篝は不思議そうな顔をした。自分が何を言ったのか、分かっていない顔だった。
「わかる……というか、感じるの。波みたいに、寄ったり引いたりしてるでしょう。今はちょうど引いてるときだから、あの人も少し楽なんだと思って」
癒し手の目が変わった。朔にはその変化が読めた。専門家が素人の発言に驚くときの、疑いと興味が交差する目。
「波。——篝ちゃん、それ、どうして分かるの?」
篝が首を傾げた。
「ずっと、そうだから」
生まれてからずっと穢れの中に浸されてきた体が、穢れの振る舞いを呼吸のように知っている。篝にとってはそれが当たり前だった。穢れに脈動があることを、ほかの誰も肌で感じられない——そのことを篝はまだ理解していなかった。
癒し手は篝の顔をまじまじと見つめてから、ゆっくり頷いた。
篝の目が少し丸くなった。自分の当たり前が、当たり前ではなかったと知ったときの顔だった。
朔は柱の影から動かなかった。
護帯のときは、朔を通じて篝の「病」が「力」に変わった。今は違った。朔を介さず、篝自身の声で、篝の感覚が直に認められている。
朔の手を離れた場所で、篝がもう一歩を踏んでいた。
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午後。
薬草園のはずれの木陰で、蓮と篝が並んで座っていた。乾燥棚の下に腰を下ろして、午前の仕分けの残りの草を籠に分けている。冬の陽が低く差し込んで、二人の影が長く伸びていた。
「蓮ちゃん。篝ね、ここに来てると、お手伝いできてる気がするの」
篝の声は静かだった。弾むでもなく、沈むでもない。事実を確かめるように、言葉にしてみた声だった。
蓮が籠の中の草を一本引き上げて、葉の状態を確かめた。
「当たり前でしょ。篝ちゃん、薬草のことあたしより詳しいし。根の見分けだって、さっき瑞叔母さまが驚いてたよ」
「……お母様、驚くの?」
篝が手元の草を裏返した。葉脈を指でなぞっている。
「篝、ずっと思ってたの。身体が動かないから、本を読むくらいしかできないって。でもここに来たら、本で読んだことが使えるんだなって」
蓮は篝を見た。黙って見ていた。蓮はいつも誰かの前で笑っている。仲間を励まし、傷を治し、空気を明るくする太陽のような存在だった。だが今、蓮は笑っていなかった。笑う必要がなかった。篝の言葉をそのまま受け取るだけの、静かな顔をしていた。
「……篝ちゃん」
蓮の声が少し低くなった。
「あたしね、前からずっと思ってたけど、篝ちゃんはすごいよ。本当に」
篝が蓮を見上げた。蓮は自分の手のひらを見ていた。癒し手の手。薬草をすり潰す手。傷を塞ぐ手。
「あたし、手を動かすことしかできないから。書物を読んで、頭の中で薬草を全部覚えて、根の状態まで見分けるなんて——篝ちゃんにしかできないこと」
蓮が言い切った。太陽のような明るさではなく、従姉としての静かな確信だった。
篝は何も返さなかった。籠の中の草をもう一本取り上げて、丁寧に向きを揃えた。指先が震えているようにも、笑っているようにも見えた。
朔は薬草園の入口に立ったまま、その声を聞いていた。二人の会話に入る気はなかった。入る必要がなかった。篝の居場所は、朔の隣ではないところにも、もう在った。
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日が傾く頃、三人で土御門家に帰った。
蓮を門の前で見送った。蓮は「また来るね、篝ちゃん!」と手を振って、葛葉家のほうへ駆けていった。冬の夕暮れの道を、蓮の声が遠ざかっていく。
篝は母屋に入ると、居間の文机の前に座った。浄身院から持ち帰った薬草の覚え書きを広げている。瑞が台所で夕餉の支度を始めた音が、渡り廊下の向こうからかすかに聞こえる。
朔は篝の向かいに座った。篝が今日の浄身院の話をするかと思ったが、篝は自分の覚え書きに集中していた。筆を持ち、薬草の名前の横に効能を書き添えている。
しばらく無言が続いた。障子の外で夕暮れの光が傾いて、部屋の中に橙の筋が差し込んだ。
篝が顔を上げた。
「さくにぃ。ここ、読める?」
覚え書きの端に、篝とは違う筆跡の文字がいくつか書かれていた。崩し字で、古い言い回しだった。
「……これは篝が書いたの?」
「ううん。浄身院の薬典庫にね、小さなお部屋があるの。棚に古い巻物がいっぱいあって。蓮ちゃんが澄明おじさまに『読んでいいですか』って聞いてくれたの。棚の手前のはお薬の記録で、奥のほうにもっと古いのがあって」
篝の指が覚え書きの崩し字をなぞった。
「お父様の書庫にある古い本と、同じくらい古い書き方なの。でも内容が違うの。お父様の書庫のは結界とか法具のことが多いけど、浄身院の奥のは——穢れのこととか、浄化のこととか。お薬に近い話が書いてあるみたい」
朔は篝の指先を見ていた。崩し字を追う指の動きに迷いがない。読み慣れた字をなぞる指だった。土御門家の書庫で何年もかけて読み込んだ古い文献の記法を、篝は体で覚えていた。
「まだ少ししか見てないけど、面白いの。今度、ちゃんと読みたいなって」
篝はそう言って、覚え書きを裏返した。裏面にも何かを書き込もうとして、筆を口元に持っていった。唇に墨がわずかについた。気づいていなかった。
朔は手を伸ばして、篝の唇の横の墨を親指で拭った。
「……ついてた」
篝は目を瞬いて、それから笑った。小さな笑みだった。
「さくにぃ、今日ね——」
篝が言葉を探していた。何かを伝えたくて、まだ名前をつけられないものを口にしようとしていた。
「篝にも、居場所ができたみたい」
声は小さかった。確信ではなく——確かめるような響きだった。居場所という言葉を口にした自分に、少し驚いているような。
朔は覚え書きを篝に返して、文机から離れた。縁側に出て、冬の庭に目をやった。枯れ草の間に薬草園から持ち帰った苗がひとつ、篝が先週植えたものが、小さな葉を出していた。
「……よかったね」
短く返した。
嬉しさがあった。篝の世界が広がっている。朔の手が届かない場所にも、篝を受け入れる庭がある。その嬉しさの奥に、微かに肌寒いものが混ざった——けれどそれは寂しさとは違った。信じてよいものの手触りだった。兄妹の道は少しずつ分かれ始めている。分かれていくことが——正しかった。
朔が里のために護帯を作った。篝は自分の場所で、静かに根を張り始めた。
縁側の向こうで、冬の空が藤色に暮れていく。薬草園の匂いが篝の袖口に残っていて、夕暮れの冷たい空気に混ざって朔のそばまで届いた。瑞の匂いに似ていた。だが同じではなかった。篝だけの匂いだった。
篝が覚え書きに向き直る気配がした。筆の音が小さく響いた。部屋の中で、篝の一日がまだ続いている。




