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あやかしの海、硝子の揺り籠 〜結界術師の次男坊は、独自開発の『法具』と『小隊戦術』で平安異世界を圧倒する〜  作者: 鶯神楽
1部:3幕:教導寮四級童~三級童

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72話:水面の下

 数日が経っても、蓮の「なんでもない」は消えなかった。


 教導寮では何も変わらなかった。蓮は朝から声が高く、善次郎の水筒に文句を言い、凌の無茶な鍛錬の擦り傷を「あんた毎日こればっかりでしょ!」と叱りつけながら治す。中庭の大楠の下でいつもの時間が過ぎていく。蓮の笑顔は完璧だった。翡翠色の目が細くなり、頬が持ち上がり、声が弾む。欠けている部品はどこにもなかった。


 朔だけが知っていた。あの笑顔の、一つ下の層を。


 処置棟の廊下で壁に背を預けた蓮。何も浮かべていなかった顔。二拍で復帰した、精密すぎる笑みの鎧。帰り道で振り返らずに歩いていった背中。「なんでもない」をこぼした声。


 蓮が「踏み込んでほしい」と言えなかった声。


 あの日、朔は門の前で考えた。蓮の鎧を叩いても意味がない。蓮が鎧を外しても壊れないと信じられる何かが要る、と。そしてこの数日の間に——朔の思考は、別の道を見つけていた。


---


 教導寮が終わった午後。蓮はいつものように荷を肩にかけて中庭を横切った。


 「あたし浄身院行くね。篝ちゃんが待ってるし」


 凌が「おう」と返し、善次郎が顎を引いた。いつもの別れだった。蓮が里の道へ出ていく背中を、朔は大楠の根に座ったまま見送った。


 数えて十拍。


 朔は立ち上がった。凌がこちらを見た。


 「どこ行くんだ」


 「浄身院に用がある」


 凌は何も訊かなかった。善次郎も問わなかった。朔が門を出て里の道に足を向けたとき、背後から善次郎の低い声が届いた。


 「……行ってこい」


 聞こえるか聞こえないかの声だった。振り返らなかった。善次郎がどこまで察しているのか、朔には分からなかった。分からなかったが——足が軽くなった気がした。


---


 浄身院の処置棟は、いつもどおり香木の煙が漂っていた。薬草の青い匂いの底に、穢れを鎮めるための煙がゆっくりと沈んでいる。渡り廊下を抜けて処置棟の前に立ったとき、戸の向こうから蓮の声が聞こえた。


 班にいるときの蓮ではなかった。低く、抑え、正確な——癒し手の声。朔はこの声を知っていた。この前も同じ声を聞いた。聞いて、踏み込めなかった。


 今日は違った。


 戸を叩いた。


 「朔くん?」


 蓮が戸口に現れた。処置棟の薄暗い光を背に、白い浄衣の袖口を捲った姿が見えた。額に薄い汗が浮いている。蓮は一瞬きょとんとして、それからいつもの笑顔を作った。


 「どしたの、珍しいね。篝ちゃんなら薬草園の——」


 「蓮に用がある」


 笑顔が止まった。止まったのは一瞬で、すぐに復帰したが——その一瞬の揺れを、朔は見ていた。蓮が「あたし?」と訊いた。声の高さは変わらない。しかし、問い返す速度が普段より遅かった。


 「一つ、試してみたいことがある」


 蓮の翡翠色の目が朔を見た。笑顔は維持されていたが、目の奥に別のものが揺れていた。構えるような警戒ではない——もっと深いところで、何かが軋んでいた。


 朔は蓮の反応を待たず、続けた。


 「第二期の処置で、蓮の癒除術だけでは菌糸を引き剥がせないのは知ってる。菌糸が神経に絡みついて、浄化しても手を離せば戻る。でも——外側から菌糸の癒着を緩められたら、蓮の浄化がもっと深くまで届くんじゃないか」


 蓮の表情が変わった。笑みが一瞬消え、代わりに癒し手の顔が現れた。感情ではなく技術に反応する、蓮のもう一つの顔。


 「外側から……って、どうやって」


 「流脈術で体表に水膜を作る。菌糸は神経に食い込んでいるけど、菌糸と神経のあいだには僅かな隙間があるはずだ。水膜が外から菌糸の根元に滑り込んで癒着を緩めれば——蓮が内側から浄化する力の通り道ができる」


 言い切った。技術的な仮説。朔の中での結論はまだ出ていない。実際にやってみなければ分からない。だがこの数日間、朔はこの仮説だけを考え続けていた。蓮の「なんでもない」を受け取った夜から——蓮のために何ができるかを、朔は技術の言葉で探していた。


 蓮は黙っていた。処置棟の薄暗い戸口に立ったまま、朔の言葉を咀嚼している。癒し手としての蓮が、朔の仮説を内側で検証している——その静かな目が、朔には見えた。


 やがて蓮が口を開いた。


 「大丈夫。あたし一人でやれるよ」


 笑顔が戻っていた。いつもの蓮だった。だが朔は、その言葉を待っていた。


 「蓮が大丈夫かじゃない」


 蓮の目が僅かに見開かれた。


 「蓮が一人でやれるのは知ってる。でも——患者が少しでも楽になる方法があるなら、試すべきだ」


 蓮の笑顔を否定しなかった。蓮の強さを疑わなかった。ただ、蓮が一人で抱えなくていい理由を——蓮自身の言葉ではなく、患者のための論理で示した。


 蓮の唇が閉じた。


 一拍の沈黙が落ちた。処置棟の奥から、患者の寝息が微かに聞こえていた。香木の煙が二人のあいだを通り過ぎた。


 蓮が腕を下ろした。捲っていた袖口の皺を指先で撫でて——顔を上げた。笑みは消えていた。代わりに蓮の目に浮かんでいたのは、朔が初めて見る色だった。不安でも安堵でもない。鎧を外すかどうかを、自分で選ぼうとしている目。


 「……わかった。入って」


---


 処置室の中は暗かった。


 壁際の灯台に火が一つ。揺れる炎が天井の梁に影を投げている。横たわった患者が二人。外采使だった。布の端から覗く腕に、この前と同じ黒い紋様が浮かんでいた。菌糸の根が皮膚の下で広がり、脈打つように濃淡を変えている。穢れの第二期——根。神経に絡みつき、法力の経路を侵す段階。


 蓮が一人目の患者の傍に膝をついた。白い浄衣の裾が板張りの床に広がる。蓮の手が患者の腕に触れた。朔は患者の反対側に膝をつき、少し離れた位置から見た。


 「いつもどおりに処置して。僕は蓮の手が離れたあとの菌糸の戻り方を見てから始める」


 蓮が頷いた。指先に翡翠色の光が灯った。癒除術。温かく柔らかい法力が蓮の掌から患者の腕に沁み込んでいく。翡翠の光が黒い紋様を押し退けるように広がる。菌糸の影が薄くなった。患者の強張っていた指が、ゆっくりと開いた。


 蓮の手が離れた。


 菌糸が戻ってくる。紋様が再び浮き上がり、薄くなったはずの黒い線が元の色に戻っていく。三拍。四拍で完全に元に戻った。


 朔はその「戻り」を見ていた。菌糸が浮き上がってくる速度。どの方向から戻るのか。紋様が最初に濃くなる箇所——それが菌糸の根の最も深い部分だった。蓮の浄化が押し退けた穢れが、根の深い場所から引き戻されている。


 「蓮。もう一度やって——僕が水膜を張る」


 蓮が目を細めた。技術的な集中の目だった。頷いた。


 朔は両手を患者の腕の上に翳した。指先に法力を集中させる。流脈術——水行の陰。体内の水が外界と繋がる感覚。冷たく澄んだ清涼感が指先から手首へ遡り、指先の先に空気中の水分が集まった。


 薄い水膜が患者の腕の表面に広がった。藍色に揺らめく光が、蓮の翡翠色とは異なる層を作る。冷たい水の覆い。菌糸の根が伸びている紋様に沿って、水膜は皮膚の表面を撫でるように流れていった。


 「蓮——今」


 蓮の手が患者の腕に触れた。翡翠色の光が注がれる。内側から穢れを押し退ける蓮の癒除術。その光が黒い紋様に届いたとき——朔は水膜の法力の方向を変えた。菌糸と神経の癒着している箇所。蓮が内側から穢れを押す。朔が外側から水膜を菌糸の根元に滑り込ませる。


 二つの光が交わった。


 藍と翡翠が混じるのではなく、層をなして患者の腕を挟んだ。外から支え、内から清める。蓮の温かい法力が穢れを押し退け、朔の冷たい水膜がその隙間に入り込んで菌糸の根元を揺るがす。菌糸が——僅かに、浮いた。


 蓮が息を呑んだ。


 「……浮いてる。菌糸が、神経から浮いてる」


 癒し手の目が見ている。蓮の指先は法力を通じて患者の体内の変化を読み取っている。朔には見えないものが、蓮の掌には伝わっていた。


 朔は水膜の厚さを微調整した。薄すぎれば菌糸に届かない。厚すぎれば蓮の浄化を阻む。二つの法力のあいだに、適切な空白を保つ。流脈術の「静謐な集中」が、朔の指先を支えていた。水面のように波立たない精神状態。蓮の法力の温度が——対象への共感が——法力を通じて朔の手のひらにも微かに伝わっていた。蓮がどれほど真剣に目の前の命に向き合っているかが、言葉ではなく法力の拍動として伝わってくる。


 蓮が浄化を続けた。翡翠色の光が菌糸の根元に入り込み、朔の水膜が浮かせた隙間から穢れを外に押し流す。黒い紋様が——薄くなった。蓮の手が離れた。


 紋様が、戻らなかった。


 完全にではない。わずかに浮き上がろうとする菌糸の影がある。だが蓮が手を離してから五拍が過ぎても、紋様は元の濃さに戻らなかった。六拍。七拍。黒い線が薄いまま留まっている。


 蓮が朔を見た。翡翠色の目が、光を帯びていた。涙ではなかった。癒し手が初めて見た可能性の光だった。


 「朔くん——戻りが遅い」


 声が震えていた。技術的な報告の声であるはずなのに、震えを抑えきれていなかった。


 「うん」


 朔が短く応じた。完全な治療ではなかった。菌糸は消えていない。だが——処置時間が短くなり、蓮が手を離した後の「戻り」が遅くなった。患者が楽でいられる時間が延びた。それは蓮が一人で繰り返してきた処置では、決して到達できなかった場所だった。


 蓮がもう一人の患者のほうに向き直った。目の色が変わっていた。癒し手の矜持が——技術を確かめたいという衝動が——蓮の体を動かしていた。朔は何も言わず、蓮の隣に膝をついた。


 二人目の処置が始まった。


 今度は蓮のほうから呼吸を合わせてきた。「朔くん、今——」。蓮が浄化の合図を告げ、朔がそこに水膜を合わせる。二回目は一回目よりも滑らかだった。蓮の癒除術の温度と朔の流脈術の冷たさが、互いの領域を侵さずに一つの処置を形作る。水行の陰と陽。外の水と内の水が、患者の体の上で層をなした。


 処置が終わった。蓮の手が離れた。


 二人目も——戻りが遅かった。


---


 処置室を出て、廊下に立った。


 蓮が壁に背を預けた。この前と同じだった。壁に寄りかかり、息を整える蓮の横姿。だが前の日とは違うものが一つあった。蓮の隣に、朔がいた。


 蓮が天井を見ていた。呼吸が落ち着くのに時間がかかっている。法力の消耗ではなかった。処置中ずっと張り詰めていた集中が、解けようとしていた。


 蓮が笑顔を作ろうとした。口角が持ち上がりかけて——止まった。


 いつもなら二拍で戻る鎧が——嵌まらなかった。


 口元が震えた。翡翠色の目が天井の梁を見上げたまま、光が滲んだ。涙だった。蓮が流す涙を、朔は初めて見た。声は出なかった。蓮自身が溢れるものを止めようとしているのか、止まらなくて困惑しているのか。涙が頬を伝って顎の線に流れ、蓮の浄衣の襟に一滴落ちた。


 「なんで……泣いてるんだろ、あたし」


 蓮の声は掠れていた。自分でも分かっていない声だった。泣く理由を持っているはずなのに、泣くことを自分に許した覚えがないから——名前のつけられない涙だった。


 朔は蓮を見ていた。


 班の太陽が泣いている。仲間の傷を治し、空気を照らし、「大丈夫、なんとかなる」と笑い続けてきた蓮が、処置棟の廊下で声もなく涙を流している。朔は多くの言葉を持っていた。持っていたが、使うべき言葉は一つしかなかった。


 「蓮が言ってたじゃないか」


 蓮がこちらを向いた。涙で滲んだ翡翠色の目。かすかに首を傾げた。


 「泣いてもいいって」


 蓮の目が、丸くなった。


 「泣いてもいいんだよ——って蓮が言った。僕は覚えてる」


 蓮の口が開いて——閉じた。開いて、また閉じた。何かを言おうとして、言葉にならなかった。自分が仲間にかけてきた言葉を——自分に返された衝撃が、蓮の中を走っていた。


 涙が止まらなかった。


 声を上げて泣くのではなかった。蓮は壁に背を預けたまま、顔を俯けて、肩を震わせていた。断片的な言葉がこぼれた。


 「……治せないの。あたし、治せないのが……こわい」


 短い声だった。蓮は長い独白を語るような人間ではなかった。感情が言葉を押し出すのではなく、言葉にならない感情が短い断片としてこぼれ落ちる。


 「篝ちゃんの病のこと、ずっと近くで見てきた。……あたしの癒除術で治せるかもって思った時期もあって。でも篝ちゃんの穢れはあたしの手じゃ、どうにも……」


 呼吸が乱れた。蓮が上を向いて、息を整えようとした。涙が首筋に伝った。


 「第二期の人たちも同じだった。手を当てて、光を注いで、手を離したら戻る。何回繰り返しても——」


 声が途切れた。蓮が自分の掌を見下ろしていた。癒し手の手。人を治す手。その手に届かない命がある。


 朔は隣に立っていた。


 何も言わなかった。蓮の隣に立っているだけだった。蓮の言葉を遮らず、励まさず、ただそこにいた。


 蓮の涙が止まった。止まるまでに、どれだけの時間が過ぎたか分からなかった。香木の煙が廊下の奥から流れてきていた。処置棟の壁に陽が差さない。薄い闇の中で、蓮の呼吸だけが聞こえた。


 蓮が袖口で目を拭った。乱暴な仕草だった。蓮らしかった。


 「……ねぇ、朔くん」


 顔を上げた蓮の顔に、笑みはなかった。だが——崩れてもいなかった。鎧を外したままの、蓮の素顔だった。泣いた後の赤みが翡翠色の目の周りに残っていて、その目が朔を真っ直ぐに見ていた。


 「今の——二人でやったやつ。またやってくれる?」


 朔は頷いた。


 「もちろん」


 蓮が短く息を吐いた。吐いた息に、微かに笑いが混ざった。泣き笑いですらない——ただ力が抜けた音だった。ずっと一人で持っていたものを、隣の誰かに半分渡した後の、息の軽さ。


---


 処置棟を出た。


 渡り廊下を歩いていると、反対側から足音が聞こえた。重く、静かな足音。澄明だった。浄身院の長の白い浄衣が薄闇の奥から浮かび上がり、二人の前に立った。


 澄明の翡翠色の目が蓮を見た。蓮の目の赤みに気づいただろう。しかし何も問わなかった。視線が朔に移り、それから蓮に戻った。


 蓮が背筋を正した。


 「お父さん、あのね——朔くんがね、流脈術で菌糸の癒着を緩められるかもしれないって。一緒に処置してみたの。そうしたら——手を離しても、戻りが遅くなったの」


 蓮の声は癒し手の声だった。筋道立てて事実を伝える声。泣いた後の掠れが僅かに残っていたが、報告する蓮の顔は確かだった。


 澄明は黙って蓮の言葉を受け取った。


 「二度やって、二度とも。まだ一人ずつだけど、処置の時間も短くなったと思う」


 蓮が両手を握った。自分の手を見下ろして——小さく頷いた。


 澄明の視線が朔に向いた。


 「流脈術の水膜を、蓮の浄化と同時に」


 「はい。菌糸と神経の癒着を外から緩めて、蓮の癒除術が入り込む隙間を作る——挟撃のような形です」


 澄明が僅かに目を細めた。朔はその表情の底を読もうとしたが、読みきれなかった。浄身院の長として技術を評価しているのか、父として娘を見ているのか。どちらもあって、どちらも分かれていなかった。


 その背後から声がした。古参の癒し手の女が、処置棟から渡り廊下に出てきた。蓮の処置を見ていた——否、蓮の処置後の患者の状態を確認していたのだろう。


 「澄明様。先程の処置後の患者なのですが——菌糸の戻りが通常の半分以下です。処置の記録を取りましたが、この経過は稀です」


 古参の目が蓮に向いた。それから朔に向いた。


 「あの娘はもう、現役と変わりませんよ」


 蓮のことを言っていた。古参の声にはため息に似た響きがあった。


 「——本当に、外采寮に行かせるのですか」


 最後の問いは、澄明に向いていた。蓮の処置の練度を知っている者からの、偽りのない惜しみの言葉だった。


 澄明は答えなかった。ただ娘の顔を見ていた。蓮は照れくさそうに——だが慣れていないぎこちなさで——唇を結んだ。褒められることに慣れている蓮が、この言葉には素直に笑えなかった。笑えなかったのは、この場所で流した涙がまだ乾いていなかったからだった。


 澄明が朔に向き直った。


 「処置記録を浄身院の施術帳に残す。蓮の名で」


 短い一言だった。娘の名が、浄身院の正式な記録に残る。学生の手伝いとしてではなく、一人の癒し手として。


 澄明は何も付け足さなかった。浄身院の長の顔で踵を返し、処置棟の奥に戻っていった。


---


 浄身院を出て、里の道を二人で歩いた。


 夕暮れの陽が低かった。影が長く前方に伸びて、里の家々の屋根に橙の光が差している。道端の草は春の終わりから夏へ移ろうとしていた。萌黄を過ぎて青さを増した葉の先に、露のような光が残っている。


 蓮が隣を歩いている。蓮の歩幅はいつもより小さかった。足を急がせていない。朔も合わせて歩いていた。


 しばらく無言が続いた。里の南の水辺から居住区へ登る坂道を、並んで上る。蓮の袖口に薬草の匂いと、かすかに患者の処置室の香木の匂いが残っていた。


 土御門家の門が遠くに見え始めたとき、蓮が足を止めた。


 「……朔くん」


 朔は立ち止まった。蓮の顔を見た。


 蓮は笑っていなかった。笑っていなかったが——蓮の顔は穏やかだった。鎧を被っていない。被らなくても立っている。


 「……ありがと」


 声は静かだった。蓮の声はいつも弾んでいる。教導寮でも浄身院でも、蓮の声には跳ねるような調子があった。この声には跳ねがなかった。短く、低く、飾りのない声だった。


 朔は「うん」と返した。


 蓮が唇を結んだ。何かを考えて——決めたように、朔に向き直った。


 「でもね」


 翡翠色の目が朔を見上げた。泣いた痕はもう消えている。だが目の色が、少しだけ変わっていた。処置棟の廊下で涙を流す前の蓮は、翡翠色の目で世界を照らしていた。涙を流した後の蓮の翡翠は——照らすのではなく、映していた。目の前にいる相手を、ありのままに。


 「泣いたこと誰かに言ったら、治療代倍にするからね」


 蓮が笑った。


 いつもの花のように咲く笑みではなかった。声を立てず、頬が上がるだけの小さな笑み。善次郎に文句を言うときの大仰な明るさも、凌の怪我を叱るときの弾けた勢いもない。


 素顔に近い笑顔だった。


 朔は目を細めた。何かを返そうとして、返す言葉が見つからなかった。言葉が見つからないことが——悪くなかった。


 「じゃあね、朔くん」


 蓮が手を振った。この前の帰り道では手を振らなかった。「なんでもない」と言って、振り返らずに歩いていった。今日は振った。軽く、小さく。


 蓮が葛葉家の方角へ歩いていく。足音は軽かった。背中は小さくなかった。この前の夕暮れに見た背中よりも——少しだけ、真っ直ぐだった。


 朔は門の前に立ったまま、蓮の足音が消えるまで聞いていた。


 蓮の「ありがと」が耳に残っていた。あの声は——「なんでもない」を上書きした声だった。蓮が何日も前の夕暮れに、手を振らずに去りながら、本当は言いたかった一言。


 朔は門をくぐった。


 敷地結界の空気が頬に触れた。春の終わりの風が庭の草を揺らしている。渡廊下の板が足の裏に温かかった。


 朔は蓮の「なんでもない」から蓮の「ありがと」までの道のりを、反芻していた。「踏み込んでよかった」とは思わなかった。そう思うほど整理されていなかった。ただ——蓮の笑みが、今日の終わりのほうが軽かった気がする。


 それだけでよかった。


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