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あやかしの海、硝子の揺り籠 〜結界術師の次男坊は、独自開発の『法具』と『小隊戦術』で平安異世界を圧倒する〜  作者: 鶯神楽
1部:3幕:教導寮四級童~三級童

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63話:届かない素材

 歩幅が合わない朝だった。


 教導寮への道を凌と並んで歩いているはずなのに、朔の足が半歩遅れた。凌が振り返りかけて、やめた。振り返らないのが凌の気遣いだった。


 空は高かった。夏の朝の空気は水気をふくんでいて、遠くの山稜が薄い靄に沈んでいる。通学路の石段を上がるたびに、足の裏から伝わる石の温度が昨日より少し高い。季節が動いている。守篝の図面の上では、季節は止まっていた。


 「なあ」


 教導寮の門が見えたところで、凌が足を止めた。


 「今日、焔壇使うか」


 「——いい。今日は先に内工座に行く」


 凌は何も言わなかった。「そうか」とも「分かった」とも。ただ歩き出して、門をくぐった。凌の背中が校庭の朝日に溶けていく。


 朔は門の前で一瞬立ち止まった。それから、教導寮には入らず、里の道を内工座に向かって歩いた。


---


 工房の引き戸を開けると、炉に火が入っていなかった。


 玄外はいつもなら朝の一番に炉を起こす。薄暗い工房の中に、炭の匂いではなく昨夜の冷えた灰の匂いが漂っていた。朔は立ち止まった。玄外の姿はなかった。


 作業台の上に、守篝が置いてある。銀色の薄い首飾り——中央の座は空のまま。昨日と同じだった。三十個の法石を呑み込んで、そのすべてを砕いた空洞が、朝の薄明かりのなかでむなしく広がっていた。


 朔はその前に座った。


 袖の中から図面を出した。昨夜、机に突っ伏して眠ったときに下敷きにしていた紙。皺がついている。額の汗の跡が薄く残っていた。広げると、七つの筆跡が目に入る。基の角張った文字。要の殴り書き。瑞の丁寧な楷書。蓮の丸い字。篝の慎重な一画。玄外の焼き痕。朔の字。


 全員の手で描いた図面。技術的には完成している。


 朔は図面の右下——法力出力の計算欄に目を落とした。何度も見た数字だった。三位・凶星の法石を使用した場合の想定出力。持続時間は「半永久」と書いてある。五位との比較で赤い線を引いた棒が、三時間で途切れている。五位と三位の間に太い二重線を引いてある。朔自身が引いた線だった。越えられない線。


 壁の手前までは来ていた。回路は磨き上げた。四層すべてが正しく稼働する。浄域膜は篝の体表に沿い、浄化層は穢れを吸い込んで消し、結界層と遮断層が篝を包む。七人の手が組み上げた設計は、一つの欠落を除いてすべて完了していた。


 法石。


 三位・凶星の法石は、里の戦略備蓄品だった。結界の要石の交換、外采寮の主力武器の修繕、鎮護寮の緊急結界——里を支える基盤。それを一個、個人の法具に充てることの意味は、記録帳の余白に書くまでもなかった。


 朔は静かに息を吐いた。


 図面の端を指で摘んだ。昨夜、居間で巻きかけて巻けなかった動作。今は一人だった。巻いて棚に戻せば、この図面は終わる。設計者が止めれば、他の六人もそれに従うだろう。


 だが——篝は何も言わないだろう。微笑んで、「さくにぃ、お疲れさま」と言うだろう。そしてその夜も穢れの記録を書き続けるだろう。守篝がなくても、「待ってるね」と言い続けるだろう。


 それが一番重かった。


 指を離した。図面は広がったまま、朝の薄い光の中で白く浮いていた。


---


 足音がした。


 引き戸が開く音。重い革靴が工房の板を踏む感触。灰の匂いの中に、外の空気が混ざった。


 朔は振り返らなかった。振り返らなくても分かった。


 玄外は何も言わずに工房の奥に入った。上着を脱いで壁の釘にかけ、炉の前に屈んだ。火打石の乾いた音が三度鳴って、四度目で火が移った。炭に息を吹きかける低い音。炉の口から赤い光がゆっくりと広がって、工房の闇が後退した。


 平常通りの所作だった。いつもと同じ手順で炉に火を入れ、鉗子を定位置に置き、水桶の水を確認した。そのすべてが終わったあとで、玄外は朔のいる作業台に歩いてきた。


 朔の手元を見た。広がったままの図面。空洞を晒した守篝の試作。朔の目の下の隈。


 沈黙が長かった。


 いつもなら——「茶でも飲め」が来る場面だった。法石が砕けた日も、回路が焼き切れた日も、玄外はまず茶を淹れた。茶を飲んでいる間に朔が考えを整理し、玄外が炉の前で鉄を叩く。そういう呼吸でこの工房は回ってきた。


 今朝、玄外は茶を淹れなかった。


 「坊」


 玄外の声が低かった。炉の火を背にして、顔の半分が暗い。


 「三位がなければ、守篝は完成しません」


 朔が先に口を開いた。自分の声が思ったより平坦だった。何度も頭の中で繰り返した言葉を、初めて声にした。


 「五位では三時間が限界です。並列しても、交互にしても、出力を落としても、同じです。回路で越えられる限界は越えました。あとは——石だけです」


 図面の上の赤い線を指で叩いた。五位と三位の間の二重線。


 玄外は黙っていた。


 工房の空気が重い。炉の火が安定して、赤い光が作業台の上を照らしている。守篝の銀色の表面に、炉の光が写り込んでいた。空の座だけが暗い穴になって、光を吸い込んでいる。


 「坊」


 玄外がもう一度呼んだ。今度は声の質が違っていた。


 「技術で越えられるものは、全部越えた」


 言葉が短かった。玄外の言葉はいつも短い。だがこの言葉には、三十回の試行のすべてが入っていた。朔が設計し、玄外が精製し、家族が回路を磨き上げた三十回。一つの失敗が次の改善を生み、四十五分が三時間になるまでの道のりを、玄外は隣で見てきた。


 「お前の仕事は終わっている」


 朔は顔を上げた。


 玄外の目は炉の火を映していた。赤い光が虹彩の奥にある。


 「できることをやり切った奴が、できないことを嘆いてどうする」


 声が硬かった。叱責ではなかった。むしろ——噛み砕くように、一語ずつ吐き出していた。


 「足りねぇのは石だ。石は作れねぇ。——なら、持っている奴に頭を下げるしかねぇだろう」


 持っている奴。


 朔の思考が止まった。止まって、一拍のあとに回り始めた。三位・凶星の法石の管理——備蓄庫を管轄するのは鎮護寮ではない。最終的な配分と使用許可の権限は——


 総宰司。


 久我崎嶺壱。総宰司を率い、里のすべてを統べる長。


 朔は玄外を見た。玄外は炉に目を戻していた。背を向けて、鉗子を手に取って、何かの素材を炉の中で転がし始めた。会話は終わったという背中だった。


 だが朔は動けなかった。技術の壁ではなく、その先にある壁——八歳の自分が、里の最高権力の前に立つという途方もない隔たりが、足を鈍くしていた。


---


 教導寮の午後の授業を終えて、朔は帰路についた。


 通学路の石段を下りながら、考えていた。玄外の言葉が頭の中で巡っている。「持っている奴に頭を下げる」。言葉にすれば単純なことだった。だが単純なことほど重い。


 三位の法石は、里の命脈を繋ぐ備蓄品だった。その一つを、一人の少女のために使いたいと言う。個人の願い。父・基は鎮護寮の頭領だ。備蓄庫の中身を誰よりも知っている人間だ。その息子が、父の管轄下にある戦略資源を求める。


 朔は自分の手を見た。小さかった。図面は描ける。回路は編める。法石を精製する技術は玄外にある。だが総宰司の扉を開くのは、指先ではなく——覚悟だった。


 土御門家の門をくぐった。


 敷地結界の空気が身体を通った。靴を脱いで渡廊下に上がると、居間の障子が開いていた。


 基が座っていた。


 帰宅しているのは珍しくない。だが今日は早い。まだ陽が高い。鎮護寮の業務を切り上げて戻ってきたのだろう。基はいつもの位置——居間の西の座に胡坐をかき、卓の前で何かを読んでいた。朔が入ってきたのを見て、頁から目を上げた。それだけだった。


 朔は居間に入った。二歩、三歩で卓の前に辿り着く。


 袖から図面を出した。皺のついた紙を、卓の上に広げた。七つの筆跡がそこにある。


 基の目が図面に落ちた。朔の手元を見ている。図面の端を指が摘んでいることに気づいただろう。昨夜、居間で巻きかけたときと同じ指の位置だった。あのとき基は何も言わなかった。今も——まだ言わなかった。


 しばらく、どちらも口を開かなかった。


 朝の工房の沈黙とは違っていた。工房では、朔が言葉を吐き出すまで玄外が待った。ここでは空気が少し違う。居間には西日が斜めに入って、卓の上の図面の端だけを照らしている。夕方の光ではない。午後の光だった。


 朔が口を開いた。


 「三位の法石がなければ、守篝は完成しません」


 声が枯れていた。朝、玄外に同じことを言ったときよりも——声に厚みがなかった。家族の前では虚勢が剥がれるのだと、初めて知った。


 基は黙っていた。


 「五位では三時間しかもちません。回路はもう限界まで削りました。出力を落とせば穢れが通る。並列にしても耐久性は変わらない。試す方法はすべて試して——玄外さんと、三十回」


 数字を並べているうちに、声が平坦に戻った。事実を報告する声。教導寮の報告と同じ調子。


 「でも凶星の法石は里の戦略備蓄品です。個人の願いで——」


 朔は言いかけて、止まった。


 指が図面の端を摘んだまま、動かなかった。たたもうとしている手だった。この図面を巻いて、「ここまでです」と頭を下げれば終わる。父は鎮護寮頭領だ。戦略備蓄品の重さを、他の誰よりも知っている。息子の請願を退ける正当な理由は、いくらでもあるだろう。


 基が立ち上がった。


 静かだった。胡坐の姿勢から一息で立つ動作に、無駄がなかった。鎮護寮で結界の前に立つ者の身のこなしだった。


 朔の前に来た。——朔の手の上に、基の手が乗った。


 図面を摘んだ指の上から、大きな掌が覆いかぶさった。基の掌は硬くて温かかった。結界術を長年行使してきた手だ。指の腹に法力の痕跡が紋様のように刻まれていて、その凹凸が朔の皮膚に触れた。


 「いくぞ」


 一言だった。


 朔の思考が止まった。


 「……え」


 「総宰司に行く」


 基は朔の手を離した。まっすぐに立ったまま、朔を見下ろしている。この家の主の目だった。同時に——父の目だった。


 「私は鎮護寮頭領だ。凶星の法石が里の備蓄品であることは、誰よりも知っている」


 声が低い。一語ずつ区切るように話す、基の癖。重い話をするときの声だった。


 「だが——お前が作ったものは、里のためになる」


 基の目が図面に落ちた。七つの筆跡。基の字もそこにある。角張った楷書で、接続部の法力漏れの計算が書き込まれている。自分の字を見ているのだろう。自分がこの図面に手を貸したという事実を、今一度確認している。


 「私はそれが分かる。——だから、行く」


 朔は基の顔を見た。


 そこに二つのものがあった。父の目と、頭領の目が、同じ瞳の中で重なっている。個人の願い——娘を守りたいという想い。そして職務上の判断——この法具が里のためになるという読み。基はその二つを分けていなかった。矛盾なく重ねていた。娘のために作った法具が里を守れるものだという確信の上に、鎮護寮頭領としての進言を載せている。


 父として、そして頭領として。


 朔の指が図面から離れた。巻く必要がなくなった。


---


 翌朝、朔は内工座に向かった。


 工房に入ると、玄外はもう炉の前にいた。火の色がいつもと違う——白橙に近い高温で、何かの素材を熱している最中だった。朔が入ってきても顔を上げなかった。


 「玄外さん」


 「何だ」


 「父が——総宰司に行くと」


 炉の前の手が止まった。鉗子が空中で静止して、一拍。


 玄外は鉗子を炉の縁に置いた。立ち上がって、作業台の上の守篝の試作を一瞥した。空の座がそのまま残っている。


 短い間があった。


 「坊。俺も行く」


 朔は瞬いた。


 「……え? でも玄外さんは斎具所の」


 「自分が作った法具の素材を、他人に頼ませるほど面の皮は厚くねぇ」


 玄外は上着の釘に手を伸ばしかけて、やめた。今すぐ行くわけではなかった。だが——行くと決めた者の背筋だった。


 総宰司は玄外の領分ではなかった。炉と法力回路のあいだに生きる技術者が、政治の場に足を踏み入れる。それでも朔と並んで壁の前に立つと決めた所作だった。


 「基殿には俺から話す」


 玄外は炉に目を戻した。鉗子を握り直して、熱した素材を引き出した。手つきはもういつもの玄外に戻っていた。静かで、確実で、揺るがない。


 三人。


 基——鎮護寮頭領。玄外——斎具所の技術者。朔——設計者。


 朔は作業台に座った。図面を広げて、守篝の空の座を見た。空洞のなかに、まだ何もない。だが——何もないのは「まだ」だった。


---


 夕暮れ前に帰宅した。


 渡廊下を歩いて篝の部屋の前に来たとき、中から声が聞こえた。篝が何か口ずさんでいる。穢れの記録を声に出して確認する癖——ではなかった。もっと軽い声だった。蓮から教わった薬草の名前を歌うように唱えている。体調の良い日の声だった。


 障子を叩いた。


 「さくにぃ?」


 「うん」


 障子を開けた。篝は文机の前にいた。穢れの記録はもう書き終えたらしく、脇に積んである。膝の上に押し花帖を広げて、新しい花を挟んでいた。蓮が届けたものだろう。黄色い花弁が和紙の上に薄く透けている。


 朔は向かいに座った。


 篝が朔の顔を見た。じっと見ていた。


 「さくにぃ、今日は違う顔してる」


 朔は少し驚いた。昨日は「疲れた顔してる」と言われた。今日——自分がどういう顔をしているか、分からなかった。


 「そう?」


 「うん。昨日と違う。——なんか、目がね」


 篝は言いかけて、首を傾げた。言葉を探している顔。それから小さく笑って、探すのをやめた。言葉にしなくても分かっているという顔だった。


 「明日、大事な人に会いに行くよ」


 朔はそう言った。大事な人、という言い方が正しいかどうかは分からなかった。だが総宰官を「偉い人」と言うのは違った。里のすべてを背負っている人だと、朔は漠然と理解していた。会いに行くのは——頼みに行くのだ。篝のために頭を下げに行く。


 篝は詳しく聞かなかった。どこに行くのか、誰に会うのか、何を頼むのか。一つも聞かなかった。


 朔の目を見て——静かに、微笑んだ。


 押し花帖を膝の上で閉じて、両手で抱えた。黄色い花弁が和紙の間に挟まれたまま、篝の小さな胸の前に収まった。


 「いってらっしゃい」


 篝の声は穏やかだった。


 入学の前の日の朝、篝が言った「がんばってね」とは違う響きだった。あれは送り出す声だった。これは——信じている声だった。朔が何をしに行くか知らなくても、朔がそう決めたなら、それでいいと思っている声。


 朔は頷いた。篝の部屋を出て、障子を閉めた。


 渡廊下の板が足の下で軋んだ。夕暮れの光が庭から渡廊下に差し込んで、篝の部屋と朔の部屋のあいだの廊下を橙色に染めていた。


 明日、総宰司へ行く。


 父と、玄外さんと、三人で。


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