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あやかしの海、硝子の揺り籠 〜結界術師の次男坊は、独自開発の『法具』と『小隊戦術』で平安異世界を圧倒する〜  作者: 鶯神楽
1部:3幕:教導寮四級童~三級童

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62話:三十回目の失敗

 工房の隅にある木箱が重くなっていた。


 砕けた法石の欠片が底に溜まっている。白い粉になったものもあれば、鋭い断面を残して二つに割れたものもある。大きさはどれも親指の先ほど。五位・悪鬼の法石——外采使が命がけで持ち帰り、内工座の精製を経て回路に組み込まれるはずだった石だ。それが三十個の破片となって、作業台の足元の木箱に収められている。


 朔は手元の記録帳に「三十回目」と書き込んだ。


 隣の欄に結果を記す。「稼働三時間七分。法石内部の法力回路に微細亀裂。二時間四十分に振動を確認。三時間七分、亀裂が全面に拡がり崩壊」。


 筆を置いた。記録帳を閉じる前に、頁をめくって過去の記録を遡った。


 初期の試験は、法石の寿命よりも手前で止まっていた。法石が壊れる前に、別の問題が先に立った。


 最初の壁は浄域膜の大きさだった。人体全体を覆う大きさの膜を展開すると、法力出力が跳ね上がる。父の敷地結界は家屋全体を包む広域結界だが、あれは地中に埋めた要石と建物の柱に法力を長年かけて染み込ませた「固定結界」だ。守篝は身につけて携行する法具だ——つまり膜の基点も篝と一緒に動く。広ければ広いほど、移動するたびに膜を維持する出力が増大する。


 基の一言が壁を崩した。「面で覆うな。肌に沿わせろ」。篝の体表に密着する薄い膜なら、覆う面積は最小で済む。出力は十分の一以下に落ちた。


 二つ目の壁は浄化と結界の法力干渉だった。浄化層と結界層を同時に動かすと、二つの法力が互いに打ち消し合って効率が急落した。回路図の上では問題なく見えた。だが実際に稼働させると、浄化に使った法力が結界の構造を歪め、結界の法力が浄化の流れを乱した。


 この壁は長かった。瑞と蓮が浄化回路を何度も描き直し、朔が結界の構造を変更し、それでも干渉は消えなかった。消えたのは、篝の一言だった。「さくにぃ、ここだけ温かくならないの」——試作を身につけた篝が、右の肩甲骨の下だけ浄化の温感がないと指摘した。朔が図面を確認すると、その位置は浄化回路と結界回路の交差点で、二つの法力がぶつかって相殺していた。交差点を避けるように回路の配置を変えると、干渉は消えた。


 しかし二つの壁が消えるたびに、三つ目の壁が姿を現した。回路効率が上がり、四層すべてが正しく機能するようになるほど、法具全体が要求する持続出力が明らかになった。そしてその出力に、法石が耐えられなかった。


 記録帳の最初の頁——九回目の試験で法石が初めて砕けたときの数値を見た。稼働時間四十五分。その頃はまだ浄域膜が大きく、回路効率が悪く、法石への負荷が高かった。膜を縮め、干渉を消し、効率を上げるたびに稼働時間は延びた。四十五分が一時間になり、一時間半になり、二時間になった。


 今日は三時間七分。


 三十回分の改善が、三時間という数字に凝縮されている。確かに進んでいた。進んでいたが——守篝は「三時間だけ動く法具」ではない。篝の穢れ吸収は常に起こっている。朝も昼も夜も。眠っている間も。法具を止めた瞬間から、篝の体は穢れを吸い始める。


 常時起動。それ以外に意味はなかった。


---


 玄外が炉の前から立ち上がった。


 工房の空気が熱い。炉の口から赤い光が漏れて、作業台の上の工具に反射している。玄外の顎の無精髭に汗が光っていた。法石の欠片を挟んだ鉗子を台の上に置いて、朔の記録帳を覗き込む。


 「三時間か」


 「前回より二十七分延びました」


 「ああ。回路の改良は効いている」


 玄外は作業台の上から試作の守篝を手に取った。銀色の薄い首飾り。中央の座に、新しい法石を嵌め直す前の空洞がぽっかりと開いている。法石を失った守篝は、精巧な死骸のように見えた。回路は生きている。四つの層はすべて正しく機能する。欠けているのは心臓だけだった。


 朔は座から落ちた法石の欠片を拾い上げた。指で挟むと、白い粉が皮膚に残った。石の内部構造が崩壊するとき、表面から微細な粉が吹く。炉の熱で焼けたような匂いが指先にまとわりついた。


 「玄外さん。出力をもう一段下げたら——」


 「試したろう」


 試した。出力を下げれば法石は長持ちする。だが下げた分だけ浄域膜が薄くなり、穢れの遮断率が落ちる。篝の穢れ吸収量を下回った瞬間に、法具は意味を失う。必要な出力と法石の耐久性が、構造的に噛み合わない。


 「回路を二系統に分けて出力を交互にかける方式は」


 「試した。二十四回目。出力が途切れる瞬間に膜が消える。穢れは一瞬でも入る」


 玄外が鼻で息を抜いた。答えを知っていて聞いている。朔も分かっている。回路をどう変えても、法力をどう配分しても、行き着く場所は同じだった。


 「坊」


 玄外が守篝の空洞を指で叩いた。乾いた金属の音が工房に響いた。


 「これは回路の問題じゃねぇ。石が持たねぇんだ」


 五位以下の法石では、常時起動の出力に耐え続けることができない。結晶構造の密度が足りず、五位では三時間が限界だった。


 朔は黙っていた。玄外の言葉は正しかった。回路を磨き上げた三十回の試行が証明したのは、回路の問題ではないということだった。


 三位以上の法石なら——結晶構造の密度が桁違いに高い上位の法石なら——この出力に耐え続けられる。朔はそれを計算で知っていた。玄外も知っていた。


 だが三位以上の法石が何を意味するか。それも二人とも知っていた。


 里の戦略備蓄品。結界の要石の交換、外采寮の主力武器の修繕、鎮護寮の緊急時の結界再構築——里全体の安全を支える石。個人の法具に充てられるものではない。


 朔は法石の欠片を木箱に戻した。白い粉が箱の底に散った。


---


 土御門家の居間に、夕暮れの光が差し込んでいた。


 障子を半分開けた窓から西日が入って、卓の上に広げた図面の端だけを照らしている。墨で描かれた回路図の線が夕日に透けて、紙の裏側の書き込みが薄く浮き上がっていた。


 朔は図面を囲む家族の顔を見た。


 基は図面の前に座って背筋を伸ばしている。右手を膝の上に置き、左手で図面の端を押さえていた。目は数値を追っている。法石の稼働時間、崩壊までの経過、出力と耐久性の相関。数字の裏にあるものを、基は読み取っているだろう。鎮護寮の備蓄庫に何個の三位法石があり、それぞれがどの用途に割り当てられているか——そのすべてを管理する立場にある。


 要は基の隣に座っていた。腕を組んで目を閉じている。眉間の皺が深い。何かを言いかけて、やめた形跡があった。要は無駄な言葉を吐かない。口を開かないのは、今の自分に言える言葉がないからだと朔は知っていた。


 瑞が口を開いた。


 「浄化回路の干渉は消えたのね」


 声が穏やかだった。事実の確認だった。朔は頷いた。


 「はい。篝の指摘で回路の配置を変えてから、干渉は完全に消えました。結界と浄化が同時に機能して——技術的には、守篝は動いています」


 技術的には動いている。その言葉が居間の空気を重くした。動いているのに完成しない。完成しない理由が、この場にいる誰の手にも余るものだった。


 蓮が眉を寄せた。膝の上で指を組み合わせている。さっきからずっと何か考えている顔をしていた。


 「ねえ、法石を複数使って出力を分散するのは? 一個の石にかかる負荷を減らせば——」


 「やった」


 朔は答えた。声が平坦だった。自分でも気づいていた。


 「法石三個を並列にしたけど、一個あたりの出力は下がっても常時起動に必要な総出力は変わらない。石の寿命が少し延びるだけで、結局どの石も同時に限界を迎える。耐久性の上限は変わらなかった」


 蓮の表情が曇った。指が膝の上で止まった。蓮にとっても、浄化回路の改良に何日も費やした末のこの壁は重かった。蓮が持ってきた薬草、蓮が引き直した浄化経路——それらはすべて正しく機能していた。蓮の仕事に落ち度はない。誰の仕事にも落ち度はなかった。


 基が図面から目を上げた。朔を見た。


 長い沈黙だった。誰も口を開かなかった。


 窓から入る西日が傾いて、図面の照らされた部分が狭くなっていた。紙の上の七つの筆跡——入れ替わりの日々で重なった七色の墨の跡が、夕暮れの影にゆっくりと呑まれていく。


 朔は図面の端に手をかけた。指が紙の縁を摘んだ。巻こうとする動きだった。


 巻いてしまおうか、と思った。


 ここまでか、とは思わなかった。そう思うには、図面の上に載った重さが多すぎた。父の書き込みが、兄の石片が、母の知見が、蓮の薬草が、篝の言葉が。自分だけの図面ならたたんで棚に戻せた。だがみんなの手で描かれた図面を自分の一存でたたむことは、全員に「ここまでだ」と告げることだった。


 指が紙の上で止まった。


 巻けなかった。


---


 篝の部屋の前に立った。障子の向こうに灯りが見えた。


 「……さくにぃ?」


 朔は障子を開けた。篝は膝の上に紙を広げていた。穢れの記録だろう。筆が止まったまま、朔の顔を見ている。何か気づいた目をしていた。


 「入っていい?」


 「うん」


 朔は篝の向かいに座った。膝を折って、正座。いつもの位置だった。


 「今日の結果を報告しに来た」


 篝が頷いた。膝の上の紙を脇に置いて、朔に向き直った。


 「三時間七分、動いた。前回より延びた。回路の改良は効いてる」


 事実だけを言った。


 篝はしばらく何も言わなかった。朔の言葉を聞いていた。聞いていて、言葉の間にあるものも聞いていた。


 「でも——足りなかったんでしょ」


 朔は答えなかった。答えないことが答えだった。


 篝の目が朔の顔を見ていた。追及する目ではなかった。問い詰める目でもなかった。見ている、というだけの目だった。朔がどういう顔をしているかを、静かに確認している。


 「さくにぃ、今日は疲れた顔してる」


 朔は目を伏せた。


 「……うん。少し」


 篝は何も聞かなかった。「大丈夫?」とも「どうしたの?」とも言わなかった。


 代わりに、手を伸ばした。


 篝の指が、朔の膝の上に置かれた手に触れた。小さな手が、朔の拳にそっと重なった。指先が冷たかった。夏の夜でも、篝の指先はいつも少し冷える。穢れが末端に散っているときの温度だった。


 朔はその手を握り返した。


 篝は何も言わなかった。朔も何も言わなかった。


 部屋の中は静かだった。灯りの芯が小さく揺れて、二人の影が壁に伸びている。窓の外で虫が鳴いている。


 篝が何も言わないのは、知っているからだった。壁の前で立ち止まっている朔に、今かけるべき言葉が何かを篝は分かっていた。「頑張って」は要らない。「やめてもいいよ」はもっと要らない。篝がただ守られる側だったときならそう言っただろう。でも篝は今、この法具を一緒に作っている人間だった。作る側にいる人間が壁にぶつかったとき、外からかける言葉はない。ただ隣にいて、同じ壁を見ることだけが、できることだった。


 朔は篝の手の温かさに目を閉じた。冷たいはずの指先が、握り返すと少しだけ温かくなる。篝の体温が伝わっているのか、自分の体温が篝に移っているのか、分からなかった。


 しばらくそうしていた。虫の声が遠く近くを往復して、灯りの芯がまた一度揺れた。


 朔は目を開けた。


 「明日も報告しに来るよ」


 篝が頷いた。


 「待ってる」


 朔は篝の手を離して立ち上がった。障子に手をかけて、振り返った。篝は膝の上の紙を拾い上げていた。もう筆を取っている。穢れの記録の続きを書くのだろう。法石が砕けても、篝の体の中で穢れは止まらない。篝が記録を続けるのは、明日も守篝を作るためだった。


 朔は障子を閉じた。


 渡廊下を歩いて、自分の部屋に戻った。机の上に図面が広げたまま残っている。居間で巻きかけて、巻けなかった図面。


 朔は椅子に座った。図面の上に手を置いた。みんなの筆跡が指先の下にあった。


 巻けなかった。


 図面は広げたままだった。明日の朝、ここにまた誰かの字が増えているかどうかは分からない。だが図面は、まだ広がっている。


 木箱の中で砕けた三十個の法石が、記録帳の中で三十行の数字になっている。一つ一つが、少しずつ長く持った証だった。四十五分が三時間になるまでに、みんなの手がどれだけの線を引いたか。回路図の上に残った跡が、失敗の記録であると同時に、前に進んだ記録でもあった。


 だがその先に、回路では越えられない壁がある。


 褥は敷かなかった。朔は机に突っ伏して、そのまま目を閉じた。額の下に図面の紙があった。紙越しに、七つの筆圧を感じているような気がした。


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