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あやかしの海、硝子の揺り籠 〜結界術師の次男坊は、独自開発の『法具』と『小隊戦術』で平安異世界を圧倒する〜  作者: 鶯神楽
1部:3幕:教導寮四級童~三級童

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64話:冷徹な慈愛

 総宰司の門は、思っていたより低かった。


 夜に前を通りかかるとき、灯りに照らされた門は重く、高く、近寄りがたいものに見えた。いつだったか——父と結界の際を歩いた帰り道、この前を通ったことがある。真夜中を過ぎても消えない灯りが門の向こうに見えて、朔は父に聞いた。あの灯りは、いつ消えるのですか。基は答えなかった。ただ足を速めた。


 今は朝だった。門柱に灯りはなく、朝日が横から差して柱の木目を浮かび上がらせている。土台の石に苔が生えていた。何年も、何十年も、ここに立ち続けた門だった。門の上の横木に彫られた文字——「総宰」の二文字が、朝日の影になって読めない。横から射す光のせいで、文字の凸面だけが白く光り、彫りの溝が暗い線になってかえって鮮明になった。


 門の前で、朔は足を止めた。


 右に基がいた。


 鎮護寮頭領の正装。白を基調とした浄衣の襟が朝日に輝いて、肩幅が広い。家で朝餉を囲んでいるときの父とは別の人間に見えた。背筋が定規で引いたように真っすぐだった。顔は前を向いている。門を見上げていたが、門の高さに気圧される目ではなかった。この門が何であるか、門の向こうに何があるかを知っている人間の目だった。


 左に玄外がいた。


 工房着ではなかった。煤も焦げ跡もない紺の直垂に袖を通して、無精髭すら剃ってある。朔は思わず二度見た。玄外の顎の線がこんなに鋭かったことを、初めて知った。だが装いが変わっても肩の張り方は変わらない。鍛冶仕事で鍛えた厚い体躯が、直垂の下で窮屈そうにしていた。


 朔の胸の中に守篝の図面がある。袖の中ではなく、筒に入れて抱えていた。三十回の試行で磨き上げた設計図と、法石の座が空のままの試作品。どちらも朔の両腕では少し大きかった。


 「——行くぞ」


 基ではなかった。玄外だった。ぼそりと、門を見ずに言った。


 基が歩き出した。門を——くぐった。


 朔は、自分がこの門の前を何度通り過ぎてきたかを思った。教導寮への通学路の途中。右に曲がれば教導寮。まっすぐ行けば総宰司。毎朝、まっすぐ行く道を右に折れて教導寮に向かった。何百回も右に曲がった道を、今日は——まっすぐ進む。


 基の背中に続いた。門の敷居をまたいだ瞬間、足の裏に伝わる石の質感が変わった。教導寮の門とは違う。もっと古い石だった。踏みしめると、何世代分もの足裏の重みで磨かれた石の表面が、滑らかに朔の足を受けた。


---


 通された部屋は、思っていたより狭かった。


 壁の一面に地図が掛かっている。里と外界の概略図。里を示す小さな白い領域が、灰色の「外」に囲まれている。里がいかに小さいかを、この地図は何も飾らずに見せていた。教導寮の座学で使う地図とは縮尺が違う。あれは里の中を詳しく描いた地図だった。この地図は、里の外がどれほど広いかを描いた地図だった。


 机の上に紙が積まれている。資源台帳だった。背表紙に「天蓋歴二一九年上期・穀倉報告」と書いてある。その下に「法石備蓄月報」の冊子が見えた。冊子の縁が折れているのは何度も繰り返し開いた跡だろう。この部屋で、誰かが毎日紙の山と向き合っている。里の備蓄がどれだけ残っているか、結界がいつまで持つか、外采使が持ち帰る法石がどれだけ必要か——そのすべてを数字で追い続けている。


 線香の残り香がした。誰かがここで長い時間を過ごしている証だった。


 三人は部屋の入口の手前で膝を折った。基が左に、玄外が右に。朔は二人の間に座った。筒を膝の前に置いた。


 待った。


 足音がした。


 障子が開いた。


 久我崎嶺壱は——静かだった。


 それが最初の印象だった。部屋に入ってきた男は、朔が想像していたどの「偉い人」とも違っていた。威圧するような大声もなく、高い位から見下ろす視線もなかった。ただ静かに部屋に入り、正面の座に腰を下ろした。所作に無駄がなかった。基の所作とは違う種類の無駄のなさだった。基は削ぎ落として残ったもので動いている。嶺壱は——最初から余分なものがなかった。


 顔を見た。


 凌の面影があった。


 頬骨の張り方、鼻筋の通り方、顎の角度——凌に似ていた。凌を二十年歳を取らせたらこうなるだろうか。だが目が違った。凌の目は火のようだった。感情がそのまま瞳の中で揺れている。嶺壱の目は——深かった。火ではなく、井戸の水面だった。底がどこにあるのか分からない。何が映っているのかも読み取れない。


 朔は一瞬、息を止めた。凌の父だと知っていた。基から聞いていた。凌が父を「親父」と呼ぶとき、声の響きに複雑なものが混ざることも知っていた。だが目の前にいるこの人は「凌の父」ではなかった。里のすべてを天秤にかけ続けている人だった。


 「土御門。聞いている」


 嶺壱の声は低かった。基に似た低さだったが、基の声にある重みとは違っていた。基の声は岩を押す声だった。嶺壱の声は水が流れる声だった。澄んでいて、冷たい。


 基が頭を下げた。


 「鎮護寮頭領・土御門基、内工座斎具所・多々良玄外、設計者・土御門朔。三名にて参上いたしました」


 基の声が変わっていた。家で聞く声ではなかった。鎮護寮の頭領として、公の場に立つ声だった。一語ずつ明瞭に区切る発声。朔は初めて父のこの声を間近で聞いた。


 基が経緯を述べた。篝の穢れ感応体質。守篝の構想と設計。四層構造の法力回路。家族と玄外の共同制作。三十回の試行。——そして、五位法石の限界と、三位・凶星の法石の必要性。


 嶺壱は最後まで口を挟まなかった。膝の上に手を置いたまま、微動もしなかった。基が話し終えたあとも、しばらく沈黙が続いた。


 それから、嶺壱の視線が動いた。


 基ではなく、玄外でもなく——朔を見た。


 「図面を見せてもらおう」


---


 朔は筒から図面を出した。


 手が震えていないことに自分で驚いた。膝の前に紙を広げた。四層構造の法力回路。中央に、法石の座。


 嶺壱は身を乗り出さなかった。座ったまま、図面に目を落とした。


 沈黙が長かった。


 嶺壱の目が紙の上を移動していた。法力回路の線を追っているのではなかった。回路の意味を読んでいるのでもなかった。肩書きを——読んでいた。「第一層・浄域膜:基・要」「第二層・穢れ浄化:瑞・蓮・篝」「第三層・穢れ遮断:朔」「第四層・小型化:朔・玄外」。七つの名前のそれぞれに目を止めて、何かを確認するように頷いた。それから、中央の座に視線を落とした。


 「三位の法石は里の結界維持の予備だ」


 声が部屋の壁に吸い込まれた。静かな声だった。怒ってはいない。責めてもいない。事実を述べている。


 「一つ減れば結界交換の周期が短くなる。知っているか」


 朔に向けた問いだった。


 「知っています」


 朔は答えた。基の息子として、そのことは理解していた。鎮護寮の業務の中で結界の要石がどのように管理されているか——父から直接聞いたことはなかったが、父の帰宅が遅い夜、疲れた背中から伝わるものの重さの内訳を、朔はおぼろげに推し量っていた。


 嶺壱の表情は変わらなかった。


 「五位の法石では三時間で砕ける。三位であれば何年持つ」


 別の問い。事実の確認に見えた。だが朔は——確認ではないと感じた。答えを知っていて聞いている。


 「半永久的に持ちます。三位・凶星の法石は常時起動の出力を受け止めても、内部構造が劣化しません」


 嶺壱の眉が微かに動いた。気のせいかと思うほど小さな動きだった。


 沈黙がまた降りた。


 基も玄外も口を開かなかった。二人とも、この問いが自分たちに向けられていないことを理解していた。嶺壱は設計者に——朔に聞いている。


 「——これは、娘のためだけのものか」


 声の温度が一段下がったように聞こえた。


 部屋の空気が張り詰めた。線香の残り香が動かない。障子の向こうで鳥が鳴いたが、その声が遠く聞こえた。


 朔は膝の上の手を見た。小さな手だった。図面は描ける。回路は編める。だが今この瞬間に必要なのは、技術ではなかった。


 「最初は——篝のためです」


 声が出るまでに一呼吸かかった。嘘をつくつもりはなかった。


 嶺壱の目が朔を見ていた。深い目だった。凌の目と似ているはずの輪郭の中に、まったく違う光があった。何かを待っている目だった。


 「でも——」


 朔は言葉を探した。探しているのではなかった。知っていることを、正しい順番で並べようとしていた。


 篝の穢れ吸収を緩和するために始めた法具が、設計を重ねるうちに変質していた。浄域膜の技術は篝だけに使うものではない。穢れの侵食を緩和する膜の構造は、外采使の防穢装備に応用できる。浄化層の吸引型設計は浄身院の治療機器に転用できる。設計の骨格は汎用化できた。篝のために作ったものが——篝だけのものではなくなっていた。


 「この法具の設計は、篝の体に合わせて作りました。でも——浄域膜の構造と、浄化層の仕組みは、守篝のためだけのものではありません」


 声が少しずつ安定した。


 「外采使が穢れの中で活動する際の防穢に。浄身院で穢れの第二期患者を治療する際の補助に。——構造を変えれば、里の皆を守れるものだと思っています」


 言い切ったあとに、沈黙が落ちた。


 朔は嶺壱の顔を見た。


 表情は変わらなかった。何も動いていなかった。


 ——いや。


 動いていないのではなかった。朔は気づいた。嶺壱が、この一連の問いの間、一度も否定しなかったことに。「できない」とも「許可しない」とも言わなかった。問いを重ねている。問いを——重ねることで、朔の言葉を引き出している。


 この人は最初から、否定するために問いを立てたのではない。


---


 嶺壱が立ち上がった。


 水が静かに持ち上がるような所作だった。音もなく、力みもない。


 部屋の奥——棚の前に立った。棚には冊子が詰まっていたが、その一角に木箱が置いてあった。嶺壱はそれを取り出した。両手で持った。机の上に置いた。


 蓋を開けた。


 木箱の中に——法石があった。


 握り拳ほどの大きさ。深い紫紺の表面が朝日を受けて、内側から脈動するように明滅していた。五位の法石とは比較にならない法力の密度が、石の表面から滲み出している。


 凶星の法石だった。


 朔はその石を見つめた。三十回の失敗が脳裏をよぎった。砕けた白い粉。木箱に積もった欠片。三時間で途切れた稼働時間。それらすべてを越えるものが、いま目の前にあった。


 「条件がある」


 嶺壱の声が降ってきた。


 朝の光の中で、嶺壱の目はまだ深かった。だがその深さの質が変わっていた。井戸の底に光が射したように——凍えるのではなく、澄んだ冷たさだった。


 「成果は里に還元せよ」


 一言だった。


 個人の法具で終わらせるな。この技術が里全体を守る力になることを証明しろ。——言葉はそれだけだった。


 朔は声を出そうとした。喉が詰まった。


 許可された。


 許可されたということを理解するまでに、三拍の間が要った。嶺壱が法石を差し出したのではなかった。条件を示した。条件があるということは——条件を満たせば許可するということだ。


 「……はい」


 声が震えた。八歳の声だった。分析が追いつかなかった。嶺壱が何を考えてこの決断を下したのか、朔の頭はまだ追いきれていなかった。ただ——許可された、という事実だけが胸の中で鳴っていた。


 基が深く頭を下げた。鎮護寮頭領としての礼だった。額が膝に近いほど深い。基の背中が大きかった。そこに二つのものが重なっていた。頭領として組織の長に頭を下げる所作と、息子のために頭を下げる父の姿と。


 玄外が一礼した。無言だった。基が頭を上げたとき、朔は玄外の口元を見た。唇の端が——僅かに持ち上がっていた。工房で「悪くない」と言うときの口元だった。声にはしなかった。政の場ではそれで十分だった。


 嶺壱が朔を見た。


 初めて——目元が、緩んだ。


 皺とも笑みともつかない、ほんの僅かな筋肉の変化だった。見逃してもおかしくないほど小さい。だがその変化の中に、朔は凌を見た。凌が笑うとき、目尻にまず皺が寄る。嶺壱も——同じだった。


 「土御門の坊」


 呟くような声だった。公式の場で使う声ではなかった。凌がこの父の前でどういう顔をするのか、朔は知らない。だがこの一言の声の温度に——この人が凌の父であるという事実が、不意に重なった。


---


 総宰司の門を出た。


 朝とは逆の方向に歩いている。来たときは門に向かって歩いた。今は門を背にして歩いていた。朔の手の中に木箱がある。凶星の法石の重みが、両腕に伝わっていた。法石の大きさのわりに重かった。法力の密度が質量に反映されている。三十個の五位法石を砕いた守篝の空の座に、この石が嵌まる。


 基が隣を歩いていた。


 「よくやった」とは言わなかった。「頑張ったな」とも。言葉がなかった。ただ歩いている。朔と歩幅を合わせて、並んで歩いている。昨日の居間の「いくぞ」の一言で始まったことが、沈黙のうちに終わろうとしていた。土御門家の父子の間で言葉は要らなかった。隣にいることが全てだった。


 玄外が口を開いた。


 「坊。明日工房に来い。石を嵌める」


 声がいつもの玄外に戻っていた。無造作で、短くて、用件だけ。総宰司の部屋で纏っていた緊張が、門を出た瞬間に抜けたのだろう。剃った顎を手で撫でて、居心地悪そうにしていた。


 朔は頷こうとして——ふと立ち止まった。


 振り返った。


 総宰司の門が、朝の光を浴びて立っていた。来たときと同じ門だった。変わったものは何もない。門柱の苔も、横木の彫り文字も、磨かれた敷居の石も。


 だが門の向こう——建物の奥に、障子が閉じた部屋がある。あの部屋で嶺壱は今も紙の山に向き合っているのだろう。穀倉報告と法石備蓄月報を開いて、里があと何年持つかを数え続けている。線香を焚いて、夜が来ても灯りを消さずに。


 あの灯りだ、と朔は思った。


 何年も前——基と結界の際を歩いた夜。真夜中を過ぎても消えなかった灯り。あの灯りの意味を、あの日は分からなかった。灯りの下にいる人が何をしているのか、「なぜ消えないのか」の答えを持っていなかった。


 今は知った。あの灯りの下で、久我崎嶺壱は里のすべてを天秤にかけ続けている。結界の寿命と法石の備蓄と外采使の帰還率と穀倉の残量を——毎夜、数字に落として、秤の上に載せている。その秤の上に、今日、守篝が載った。一つの凶星の法石を手放す代わりに、里の生存の選択肢がひとつ増える。


 だが朔が「篝のためです」と答えたとき、嶺壱の眉が動いた。あの一瞬の動きは——計算ではなかった。


 冷たい問いの底に、温かいものがあった。凶星の法石を一つ差し出す判断は、里の生存率の計算の上に成り立っていると同時に——一人の父が、別の父の子供を見ている目でもあった。


 凌がこの父にどう思われているのか、朔にはまだ分からない。だがこの人は——里のために冷たくなれる人であると同時に、その冷たさの底に、あの目元の緩みのような温度を持っている人だった。


 朔は前を向いた。


 基と玄外が数歩先で立ち止まっていた。朔が振り返ったのを待っていた。基は何も言わなかった。玄外は手持ち無沙汰に顎を撫でていた。


 朔は歩き出した。木箱を抱え直した。凶星の法石の脈動が、胸の前で微かに震えている。


 守篝の空の座に、石が嵌まる。明日。


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