53話 : 朔の目
影写しの完成から、しばらく時が過ぎていた。
放課後の教導寮。朔は渡廊下の柱に背を預けて、袖の中にある影写しの筒に指を触れていた。筒型の霊木は手に馴染んで、もう体の一部のように感じる。大楠を撮った最初の一枚は、自室の文箱の底に仕舞ってある。あれは——完成の記念だった。
今日は違う。
今日から撮るものは、篝のためのものだ。
影写しが完成したとき、最初に浮かんだのは篝の顔だった。これを見せたら、きっと喜ぶ。色はない。墨色の濃淡だけで描かれた景色。でも——消えない。雨が降っても、風が吹いても、和紙の上に焼きついた景色は消えない。
昔、篝が地面に描いた絵は、雨で消えた。
でもこれは消えない。
だから——何を撮るか。
朔は筒を袖から出して、教導寮の敷地を見渡した。午後の光が五行修練庭の向こうの木立を照らしている。正門の先には通学路が延びて、その先に里の屋根が連なっている。どこを撮っても、篝の知らない景色だった。篝は教導寮に来たことがない。五行修練庭も、大楠も、通学路の辻も——朔が毎日歩いて、毎日見ているものを、篝は一度も見たことがない。
筒を構えた。正門の向こうの青い空を覗き込んだ。
——やめた。
下ろした。
何でもいいわけではなかった。篝が見たことのない景色ならどこでもいい、というわけではない。壮大な景色を見せたいわけでも、珍しいものを見せたいわけでもない。
篝が欲しがっているのは——朔が見ている世界だ。
篝に「五つの庭があるんだよ」と話したとき、篝は目を輝かせた。「大きな木があるんだよ、青い花が咲くの」と話したとき、篝は「いいなぁ」と言った。篝が聞きたいのは壮大な物語ではなかった。朔が毎日見ているもの、毎日触れているもの、毎日そこにあるもの——朔の日常そのものだった。
篝に聞いて選ぶこともできた。「何が見たい?」と聞けば、篝は嬉しそうに考えて答えてくれるだろう。でもそれでは違う気がした。
篝に見せたいものは、朔が選ぶべきだ。
「僕が篝に見せたい景色」を選ぶ。それが影写しの意味だと思った。
朔は筒を袖に戻して、大楠の方へ歩き出した。
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一枚目は、大楠だった。
影写しが完成した日に撮った最初の一枚も大楠だった。でもあれは工房からの帰り道に、試し撮りのつもりで教導寮の敷地の入口から全景を望む角度で撮ったものだった。幹の太さ、枝の広がり、青い花の霞——木そのものの壮大さを捉えた一枚。
今回は違った。
朔は木の根元に座った。いつもの場所だった。背中を太い幹に預けて、脚を伸ばして——膝の上に何も乗せずに。数日前に郁と過ごしたのもここだった。凌が隣にどかっと座るのもここだ。善次郎が無言で立っていることもある。蓮が「ここがうちの席だね」と笑ったのもここだった。
座った高さから、見上げた。
根は太い。地面を割って広がり、苔がついて、雨の日には小さな水溜まりができる。その根の谷間に腰を下ろすと、幹の表面がすぐそばにある。ざらざらした樹皮の手触り。顔を上げると、枝が頭の上で放射状に広がっている。枝越しの空は、青い花に覆われて淡く霞んでいた。
篝が来たら、ここに座るだろう。朔のすぐ隣に。そうしたら篝は何を見るだろう。この根の広がりを見て、「根っこが見えるんだ」と言うだろうか。この枝越しの空を見上げて、目を細めるだろうか。
朔は影写しの筒を構えた。視線を座った高さに合わせた。
根の太さ。苔の質感。枝越しの空に浮かぶ青い花弁。いつもの場所から見上げた——篝がここに座ったら見える景色。
法力を込めた。筒の中の法力膜が光を集め、霊木の凸面が像を一点に絞り込む。定着処理の手順は体が覚えている。玄外との何十回の失敗で染みついた呼吸。「今」——そう胸の中で呟いて、法力を定着紙に焼きつけた。
和紙を引き出した。
墨色の濃淡が、紙の上に広がっていた。太い根。幹のざらざらした表面。枝が放射状に伸びて、その隙間から空が見えている。青い花が紙の上では淡い灰色になっていた。色はない。でも——この木の、ここに座ったときにだけ見える景色が、確かにそこにあった。
朔は紙を見つめた。
自分がいつも見ている木。それが紙の上に残っている。
——これが、僕の場所だ。
口に出さなかった。胸の中で、静かにそう思った。
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二枚目は、翌日の朝だった。
朝の五行修練庭。誰もいない。日下部訓導も同期もまだ来ていない、朝礼前の静かな時間。空気は春の柔らかさを帯びていたが、地面にはまだ夜の冷気が残っている。
朔が立っているのは、礎場だった。
五行修練庭は五つの区画に分かれている。礎場は土行の区画で、結界術を鍛える場所だ。二年次の春、ここに初めて立ったとき、「法力を地に送れ」の課題に足の裏から法力を注いだら、琥珀色の光と低い共鳴音とともに結界の壁が立ち上がった。日下部訓導が足を止めて朔を振り返った——あの日のことを、足の裏が覚えている。
二年間、毎日のように通った場所だった。
篝にはこの場所の話を何度もした。「五つの庭があるんだよ」「僕は礎場が得意で、でも苗圃は全然だめなんだ」。篝は笑った。「不思議だね。さくにぃにも苦手なことがあるんだ」。言葉では何度も伝えた。でも篝は、この場所の地面を踏んだことがない。
朝の光が礎場に差し込んでいた。低い角度の光が地面に長い影を落として、鍛錬で踏み固められた土の表面に細かな陰影を作っている。ところどころに結界術の残滓——術を展開するたびに法力が土に染み込んで、かすかに色が変わった小さな斑点が散らばっていた。朔だけが立つ場所にだけ残る、三年間の足跡。
朔は足元を見下ろした。
この景色を撮ろう。
五行修練庭の全景でもなく、結界術の華やかな展開でもない。ただ——礎場の地面。朔が毎日立つ場所の、足元の景色。
ここに毎日いるということ。それだけを、残したかった。
筒を下に向けて、法力を込めた。足元の地面。踏み固められた土の表面。長い朝の影。法力の斑紋。
定着。
和紙に焼きついた像は、一見すると何の変哲もない地面だった。でも——朔がここに立って、ここから礎場を見ると、いつもこう見える。そういう一枚だった。
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三枚目は、また別の日だった。
放課後。朔は内工座の方へ歩いていた。影写しの筒を袖に入れて、いつもの道を辿っている。教導寮の正門を出て、里の大通りを南に下り、市場の脇を抜けて、細い路地を東に折れる。石畳が途切れて、土の道に変わる。鍛冶の音がかすかに聞こえ始める。重い、規則的な音。鉄を打つ音。空気が少しだけ熱を帯びて、煤の匂いが鼻に触れる。
内工座の工房が見えた。
大きな庇が通りに張り出している。暖簾が半分だけめくれていて、中の暗がりに炉の赤い光がぼんやり見えた。入口の横には素材の霊木が何本も立てかけられている。節が太くて、表面が滑らかに磨かれたものもあれば、まだ皮のついた荒い原木もある。霊木の上端には札がかかっていて、素材の種類と等級が玄外の太い筆跡で殴り書きされていた。
この場所を撮ろうと思った。
父に連れられて初めて来た場所だった。壊れた結界補助具を持って一人で訪ねて、玄外に「坊、名は」と聞かれた場所。失敗作の法具を恥ずかしそうに差し出して、「で?」と返された場所。暗箱を抱えて飛び込んで、「俺がやろう」と言ってもらった場所。水たまりの中の答えを握りしめて駆け込んだ場所。「悪くない」と言われた場所。
三年間の全部が、ここに詰まっている。
筒を構えて、工房の入口を覗き込みながら構図を探った。大きな庇の下の暗がり。暖簾のめくれた隙間から見える炉の光。立てかけられた霊木。——影写しでは白黒の濃淡になるが、朔の目にはあの赤い炉の火の色が見えている。
そのとき、中から声がした。
「……坊、何やってる」
玄外だった。暖簾の隙間から半身を出して、目を細めて朔を見ていた。煤のついた手で暖簾を押さえている。いつもの無精髭、いつもの作業衣。
朔は少し頭を下げた。
「……すみません。ここを撮らせてください」
玄外は一瞬だけ朔を見て、暖簾を戻しかけた手を止めた。何も聞かなかった。なぜ工房を撮るのかも、誰に見せるのかも。
「勝手にしろ」
そう言って、奥に戻っていった。暖簾の向こうで炉の風を送る音が再開した。
朔は筒を構え直した。工房の入口。大きな庇。暖簾の隙間。霊木。——人のいない工房の佇まいを撮った。奥に人の気配がある。鍛冶の音がかすかに聞こえる。でも画の中には人はいない。それでいいと思った。
法力を込めて、定着した。
筒から紙を抜いた。黒の階調で浮かび上がった工房の入口は、静かで、少し暗くて、でもどこか温かかった。炉の赤い光は紙の上では灰色の明かりになっている。色がないのに——この一枚を見ると、あの声が聞こえる気がした。
「勝手にしろ」と言いながら、撮影を止めなかった声が。
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四枚目は、数日後の早朝だった。
朝靄が薄く漂う里の通学路。まだ日が低く、家々の屋根の向こうから光が差し始めたばかりの時間だった。空の大半は東雲の薄い紫で、その上に晴れた空の藍が透けている。道の表面に朝露が光っていた。
朔は通学路の分かれ道に立っていた。
教導寮の手前の辻。北西からの道と、中央からの道が合流する場所。里の石垣に囲まれた狭い三つ辻で、道の片側に背の低い生け垣がある。生け垣の上を朝の光が斜めに差して、影が道の半分を覆っていた。
ここは凌が毎朝合流する場所だった。
一年次の冬の庭で出会って以来、凌はこの辻で朔に合わせてくるようになった。最初は何も言わずに並んで、何も言わずに教導寮まで歩いた。二年次になると、朔が辻の手前に来ると凌がもう立っていることが増えた。三年次の今では——朔がここに来ると、北西の道の向こうから凌の足音が聞こえてきて、黙って並ぶ。それが朔の「日常の始まり」だった。
この道を撮りたかった。
人のいない道を撮ろうとしていた。篝に見せたいのは凌の姿ではなくて、朔が凌を待つこの場所の空気だった。朝の光が石畳の上を滑って、生け垣の影が長く伸びて、まだ誰もいない道がまっすぐに教導寮の方へ続いている。その静けさ。何かが始まる前の——始まることを知っている朝の光。
筒を構えた。
——足音が聞こえた。
北西の道の向こうから。石畳を踏む規則的な音。朝靄の中を、濃紺の短い髪が見えた。
凌だった。いつも通りの歩幅。少し前のめりの姿勢。袖を捲り上げて、腕を振りながら歩いてくる。赤銅色の目が朝の光の中で鋭く光っている。
筒を構えたままの朔を見て、凌の歩みが一瞬緩んだ。
「……何してんだ」
低い声だった。怪訝でも不快でもない。凌の「何してんだ」は、いつもそのまま——何をしているのだと聞いている。それ以上の意味はない。
朔は筒を下ろしかけて、止めた。
「……撮りたいものがあった」
「ここを?」
「……うん。ここを」
凌は朔の目と筒を交互に見た。何を撮っているのか、なぜこの場所なのか——聞こうとすれば聞けたはずだ。でも凌はそれ以上聞かなかった。あの冬の庭から、凌はずっとそうだった。朔のやっていることの理由を深く聞かない。分からないことがあっても、朔がいつか自分から話すのを待っている。
凌がいつも通りの歩幅で近づいてきて、朔の隣に立った。北西の道から来た凌の足が、分かれ道の石畳を踏んだ。
朔は——撮るべきだった道を、まだ撮っていなかった。
人のいない道を撮りたかったのか。凌が来てからの道を撮りたかったのか。自分でもわからなかった。ただ——人のいない朝の道と、凌の影がある朝の道は、同じ道でも全く違って見えた。
朔は筒を構え直した。
撮った。
凌の影がある道を。
朝の光が斜めに差して、石畳の上に二つの影が伸びている。一つは朔の影。もう一つは凌の影。並んで立っている二人の影が、まっすぐに教導寮の方へ延びていた。生け垣の影が道の端を覆い、東雲の光が石畳の半分を淡く照らしている。その中に——二人分の足跡が、影の形で焼きついた。
法力を定着させた。
紙の上に——朝の道があった。石畳。生け垣。斜めの光。そして——二つの影。ただの朝の道だった。でもそこに——人がいた。
凌は何も言わなかった。紙を覗き込もうとせず、朔が筒を下ろすのを待っていた。朔が筒を袖に戻すと、凌はいつも通り並んで歩き出した。
二人は黙って教導寮に向かった。朝の通学路。三年間の鋳型のように正確な足取りで。
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その日の夜。
朔は帰宅してから、自室の灯の下で四枚の和紙を並べた。
大楠の根元。礎場の足元。工房の入口。そして——凌の影がある朝の道。
四枚を見つめた。
壮大な景色は、一枚もなかった。選んだのは全部、朔が毎日いる場所ばかりだった。
どれも、篝に話したことのある場所だった。朔が篝に語った言葉の先に、この景色がある。
——全部、僕の足元にあるものだ。
意識して選んだつもりだった。けれど選び終えてみると、遠くを撮ろうとは一度も思わなかったことに気づいた。篝が見たかったのは、外の世界の広さではなく——朔の目を通した日常そのものだった。
四枚目にだけ、人の影があった。
なぜそうしたのか、朔は自分に聞いてみた。答えが出なかった。ただ——凌のいない朝の道は、朔の朝ではなかった。日常の中に凌がいること。それが理由の全部だった。
まだ言葉にはならなかった。でも朔の中で、何かが確かに動いていた。景色を残すことから——この人たちと過ごす日々を残すことへ。影写しは光を閉じ込める法具だった。でも朔がこの四枚に閉じ込めたのは——光ではなかった。
四枚の和紙を丁寧に重ねた。角を揃えて、薄紙で包んで、袖の中にしまった。明日——篝に渡そう。
——これを見たら、篝は——どんな顔をするだろう。
窓の外は春の夜だった。月が薄く雲にかかって、庭の木々の輪郭が柔らかくぼやけている。
その顔を思い浮かべたら、口元がゆるんだ。袖の中の四枚に、そっと指先を触れた。春の夜風が、障子の隙間からかすかに吹き込んでいた。




