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あやかしの海、硝子の揺り籠 〜結界術師の次男坊は、独自開発の『法具』と『小隊戦術』で平安異世界を圧倒する〜  作者: 鶯神楽
1部:2幕:教導寮七級童~五級童

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54話 : 消えない景色

 翌朝。


 目が覚めたとき、最初に感じたのは袖の中の和紙の重みだった。四枚の和紙は薄い紙で包んで、昨夜のうちに枕元に置いておいた。寝返りを打つたびに指先が触れて、その度に浅い眠りに戻った。


 朝の光が障子を透かして褥を横切っていた。敷地結界のかすかな土の匂いが、春の温みとともに部屋の中に漂っている。


 今日だ、と思った。


 起き上がって衣を整え、和紙の包みを袖に入れた。軽いのに、手のひらに重さを感じる。三年間の全部が、この四枚の中にある。


---


 廊下を歩いて、篝の部屋の前に来た。


 障子の向こうから声が聞こえた。


 「さくにぃ、おはよう!」


 語尾が跳ねていた。体調の良い日だ。篝の声は体調の波にそのまま乗る。悪い日は声が沈んで、普通の日は穏やかで、良い日は——こうして語尾が跳ねて、まるで鈴が鳴るように明るくなる。


 朔は障子に手をかけた。


 「おはよう、篝」


 障子を開けると、篝は褥の上に起き上がって朔を待っていた。漆黒の長い髪が寝起きの癖で少しうねって、肩から背中にかけて散らばっている。瑞がまだ梳いていない朝の髪。淡い花柄の小袖の衿からのぞく細い首が白くて、頬にはかすかに血の色が差していた。目が澄んでいる。好奇心に満ちた、外の世界を覗き込むような目。


 今日は良い日だ。


 庭先にも出られるだろう。


 「篝、今日は庭に出られそう?」


 篝は首を傾げた。「うん。お天気いいもんね」。窓の外を見て、目を細めた。春の朝日が南の窓から差し込んで、障子越しの柔らかい光が褥の端を横切っている。


 袖の中の四枚の和紙が、急に重く感じられた。


 今日だ。


---


 庭先。


 春の光が降り注いでいた。


 敷地結界の内側は外気よりほんの少し温かくて、篝にとっては冬の明け方でも耐えられる程度の穏やかさが保たれている。だが春のこの時間帯は結界の恩恵を感じさせないほどに自然な暖かさだった。庭の木々が新芽を広げて、地面には冬の間に散った枯葉の上に若草が顔を出し始めている。鳥の声が高い。空は薄い絹のように澄んでいた。


 篝が縁側に腰を下ろした。足を庭の方に投げ出して、両手を後ろについて、朝の空を見上げている。風が吹くたびに背中の髪が揺れた。瑞に梳いてもらった後のまっすぐな黒髪は、朝日の中でかすかに青みを帯びて光っている。


 朔は篝の隣に座った。


 少し離れて座ろうとして、やめた。篝のすぐ隣に。肩が触れるくらいの距離に。


 「篝」


 「ん?」


 篝が朔の方を向いた。何でもない朝の顔。「さくにぃ、何?」


 朔は袖の中に手を入れた。四枚の和紙の包みに指が触れた。薄い和紙の下に、感光紙の微かな凹凸がある。和紙を掌に乗せて、袖から出した。


 「篝、見せたいものがある」


 篝の目が朔の手元に落ちた。朔の掌の上にある、薄い和紙の包み。篝はまだそれが何か分からない。「なに、それ」


 朔は包みを開いた。四枚の感光紙を重ねたまま、最初の一枚を上にして篝に差し出した。


 篝の手が伸びた。白い指先が紙に触れた。表面をそっと撫でて——「……絵?」


 朔は首を横に振った。


 「絵じゃないよ。僕が見た景色だよ」


---


 一枚目。


 篝は朔の手から受け取った一枚目を、朝の光の中に翳した。


 墨色の濃淡が和紙の上に広がっていた。太い根が画面の下半分を占めて、大地を割り広げるように伸びている。苔の質感。樹皮のざらざらした表面がすぐ近くに見える。視線を上に辿ると、幹の表面が続いて、やがて枝が放射状に広がる。枝の隙間から空が見えた。空の中に——花らしいものが淡い灰色で霞んでいた。


 色はない。白と黒と、その間に広がる無数の灰色だけ。


 篝の目が大きくなった。


 「……これ、木?」


 「大楠だよ」。朔は静かに言った。「根っこのところから、座って見上げた景色」


 篝の指が和紙の上を滑った。根の太さを撫でるように。枝越しの空を辿るように。「……大きい」。声が少しだけ揺れた。「ここに——さくにぃがいつも座ってるところ?」


 「うん」


 篝がずっと聞いていた話の先に、この景色がある。「大きな木があるんだよ」「根っこに座ると気持ちいいんだ」「みんなで集まるんだよ」——言葉で何度も伝えた。でも言葉では届かなかったものが、今この一枚の中にあった。


 篝は和紙を両手で持ち直した。丁寧に。壊れるものを扱うように。


---


 二枚目。


 朔が二枚目を差し出した。篝が受け取って、一枚目の上に重ねずに横に並べた。


 地面だった。


 踏み固められた土の表面が画面の大半を占めていた。朝の光が低い角度で差し込んで、地面に長い影を落としている。ところどころに何かの痕跡——法力が土に染み込んで色が変わった小さな斑紋のようなものが散らばっていた。


 「ここが……さくにぃが毎日いるところ?」


 「五行修練庭の礎場の足元。僕が毎日立つ場所」


 篝の目が少しだけ細くなった。朔が何度も話していた「五つの庭」。礎場で結界を張る話。苗圃では何もできない話。——言葉で何度も聞いた場所の、足元の景色。


 篝は気づき始めていた。一枚目は確かに大きな木だったが、全景ではなく根元から見上げた視点だった。二枚目は足元の地面だ。広い風景を見せようとしていない。何でもない、小さな場所。


---


 三枚目。


 朔が三枚目を差し出した。


 建物の入口だった。大きな庇が画面の上端を覆い、暖簾が半分めくれて内部の暗がりが見えている。入口の横に何かが立てかけられている——節の太い木材のようなもの。暗がりの奥に、かすかな明かりの痕跡があった。灰色の明暗だけだが、どこか温かい。


 篝は三枚目を受け取って、一枚目と二枚目の横に並べた。そして——黙った。


 しばらく、何も言わなかった。


 三枚を順番に見ていた。大楠の根元。足元の地面。建物の入口。三枚とも——朔が毎日見ている、何でもない場所ばかりだった。遠い山の稜線でも、空に広がる結界の光でもなく、朔の足元と、朔が毎日通う場所の入口。


 篝の唇が微かに震えた。


---


 四枚目。


 「もう一枚あるよ」


 朔が最後の一枚を差し出した。


 道だった。石畳の通学路。朝の光が斜めに差して、道の片側に生け垣の影が長く伸びている。石畳の表面に朝露の光がかすかに映り込んでいた。東雲の空気が画面全体を柔らかく包んでいる。


 そして——影があった。


 道の上に、二つの影が伸びていた。一つは細くまっすぐな影。もう一つは、少し前のめりの、凌の歩き方が分かる影。並んで立っている二人の影が、石畳の上をまっすぐに延びていた。


 篝の手が震えた。


 四枚。全部見た。大楠の根元。鍛錬場の足元。工房の入口。朝の道。——朔が毎日見ている世界ばかりだった。


 そして四枚目に——人の影が。


 篝の視線が四枚の間を何度も行き来した。


 影写しは白黒の濃淡で描かれている。色がない。


 蓮が持ってきてくれた押し花帖は、色がついたまま消えずに残った。


 でもこれは——色がない。白と黒と灰色だけ。なのに、この四枚には——あの花よりも、朔がいた。朔の足元が、朔の空が、朔のそばに立つ人の影が。


 篝の目から涙が零れた。


---


 篝は四枚の和紙を胸に抱きしめた。


 そのまま朔の胸に顔を埋めた。


 泣いていた。声を押し殺して、肩を震わせて、四枚の和紙を胸と朔の胸の間に挟んだまま泣いていた。涙が朔の衿を濡らした。朔の小袖から土御門家の敷地結界のかすかな土の匂いがして、その匂いの中に篝は顔を押しつけた。


 嬉しかった。外の景色が——朔が毎日見ている景色が、消えない形でここにある。あの大楠の根元が、鍛錬場の足元が、工房の入口が。篝が何度も聞いた場所の景色が、和紙の上に残っている。もう消えない。雨が降っても、風が吹いても。


 申し訳なかった。朔にここまでさせてしまった。影写しが何であるか、篝にはすぐに分かった。朔が何度も「鉄を打つおじさんのところに通っている」と話していたこと。帰り道の袖に煤がついていたこと。何十回も失敗したこと。——朔がこれを作るために、どれだけの時間と努力を費やしたか。その全部が、篝のためだった。


 もどかしかった。篝はまだ外に出られない。この和紙の上に映った場所に、篝は行くことができない。大楠の根元にも、五行修練庭にも、工房の前にも——あの朝の道にも。


 でも——安心した。四枚目に人の影がある。朔の隣に誰かがいる。朔は一人ではない。朔の毎日の中に、人がいる。


 全部だった。嬉しさも申し訳なさも、もどかしさも安心も、全部が一緒にこみ上げて、篝は何も言えなかった。ただ朔の胸の中で、涙を流し続けた。


 朔は何も言わなかった。


 篝の頭を撫でていた。声をかけるのではなく、そばにいることを選んだ。黒い髪を掌で撫でて、篝の震える肩が落ち着くのを待っていた。


 春の庭に光が降り注いでいた。新芽が風に揺れて、鳥が高く鳴いていた。敷地結界の温かさが二人を包んでいた。そのなかで篝は泣き続けた。


 小一時間が経った。


---


 篝が顔を上げた。


 目が赤かった。鼻の頭も赤くて、頬に涙の筋が何本も光っていた。唇を少し震わせて、鼻をすすって——


 「……さくにぃ」


 「うん」


 「……最後の一枚。影があるの、誰?」


 朔は微笑んだ。


 「凌だよ」


 篝は四枚目の和紙をもう一度見た。石畳の上に伸びた二つの影。一つは朔の影。もう一つは、少し前のめりの歩き方の——凌の影。


 「……さくにぃの毎日に、お友達がいるんだね」


 その言葉を、篝は前にも言ったことがあった。一年次の休校前に朔が大楠の下で見つけた花を持ち帰ったとき。朔の話に繰り返し出てくる名前に気づいて、「お友達がいるんだね」と言った。あのときは言葉だけだった。


 今は——目で見える。


 和紙の上の二つの影が、それを証明していた。


 篝は四枚の和紙を胸に抱きしめた。ぎゅっと。壊れないように、でも離さないように。


 「……ありがとう。篝の宝物にする」


 宝物。受け取るだけでなく、篝はそう宣言した。泣くだけではなかった。能動的に「宝物」と名づけた。


 朔は微笑んだ。昨夜の褥の中で思ったこと——「篝が喜んでくれるといいな」。その答えが、ここにあった。


---


 後日。


 内工座の工房は、この日もいつもと変わらなかった。


 斎具所の作業場に、鉄を打つ規則的な音が響いている。炉の赤い光が天井に映って揺れている。玄外はいつもの作業衣で、いつもの無精髭で、霊木の表面を削っていた。煤のついた手で鉋を操る指先は、無骨に見えて正確だった。


 足音がした。重い、ゆったりとした足音。


 玄外は顔を上げなかった。その足音の主を知っていたからだ。


 多々良鋼一。討物所の頭領。玄外の父。


 鋼一が斎具所の暖簾をくぐるのは珍しかった。討物所と斎具所は同じ内工座の中にあるが、互いの工房に立ち入ることはほとんどない。鋼一は武具を打ち、玄外は法具を作る。技術の領域が違う。思想も、道も。


 鋼一は何も言わずに作業台の脇に立った。偉丈夫の体躯が暖簾の隙間から差す光を遮って、工房の中に大きな影を落とした。


 作業台の上に、影写しの筒が置いてあった。その隣に、定着済みの感光紙が一枚——試作品の一つだろう——和紙の面を上にして置かれていた。


 「……坊主が来ていたな。教導寮の」


 鋼一の声は低く、玄外によく似ていた。ただし鋼一の方が遥かに重い。鍛冶場で何十年も鉄を打ち続けた男の声だった。


 「あぁ」


 玄外は手を止めなかった。鉋を動かしながら答えた。


 鋼一が感光紙を手に取った。灯りに翳して、和紙の表面をじっと見つめた。墨色の濃淡で焼きついた景色——大楠の全景だろうか、それとも工房の入口だろうか。鋼一の目が紙の上を動いた。鍛冶の最高峰として、素材の性質を見抜く目がある。和紙が通常の和紙ではないことに一瞬で気づいた。法力が染み込んで、性質が変わっている。光を焼きつけるために作られた紙。


 「……これは、おまえが焼いた紙か」


 玄外はようやく手を止めた。鉋を作業台に置いて、親の方を見た。


 「地錬術で性質を変えた和紙だ。坊の燭明術で光を焼きつける。定着は俺がやった」


 鋼一は紙を静かに戻した。しばらく黙って、筒を見た。霊木を削り出した筒型の法具。筒の表面に法力回路が刻まれている。繊細で正確な線。これは玄外の手ではない。法力回路を刻んだのは——あの坊主の方だろう。


 「……おまえと、七歳の童が作ったのか」


 「共同開発だ。坊がいなければ、俺一人では着想に至らなかった」


 鋼一は玄外を見た。息子が他人の功を認める言葉を口にするのは珍しかった。いや——珍しいのではなく、初めて聞いたかもしれない。


 鋼一は何も言わずに工房を出て行った。暖簾をくぐり、外の光の中に大きな背中が消えていく。


 出口で一瞬だけ足を止めた。背中を向けたまま。


 「……悪くない」


 玄外が顔を上げた。


 鉋を持つ手は止まったままだった。父の背中はもう外の光の中にあって、鋼一の顔は見えなかった。でも——その声は聞こえた。


 「悪くない」と、父が言った。


 あの言葉は——玄外が朔に言った言葉だった。影写しが完成したあの日、最初の一枚を灯りに翳して、「悪くない」と。それが朔にとって最大級の褒め言葉だと分かったとき、朔は「全部です」と答えた。


 今——父がその言葉を、玄外に返した。


 玄外は初めて知った。「悪くない」は自分だけの言葉ではなかった。多々良の家の、鍛冶の血筋の言葉だった。武具を「実用の本道」と信じる父が、法具を「活かすための器」と選んだ息子の仕事を——その言葉で認めた。


 玄外は鉋を取り直した。何も言わず、霊木の表面を削り始めた。


 手が震えていたのは——誰にも見えなかった。


---


 鋼一は内工座の長として、影写しの技術を報告に上げた。


 報告書には一行の付記があった。「天蓋歴百七十二年の蔵空の器再現失敗以降、内工座において新たな機能を備えた法具が生まれたのは、本件が初めてである」。四十六年。内工座が既存法具の維持と修繕に徹し、新たな法具の開発を断念してからの歳月だった。


 報告書は複数の宛先に送られた。そのうちの一通が、教導寮長・厳島朋世の手元に届いた。


 「内工座・斎具所の多々良玄外と、教導寮五級童・土御門朔による共同開発。映像を和紙に定着させる法具。名称——影写し」


 厳島は報告書を読み終えると、机の引き出しから一つの冊子を取り出した。適性評価書。教導寮の生徒一人ひとりの術式適性と修練の記録をまとめた文書。厳島は土御門朔の項を開いた。


 三年次末の初穂。結界術の最高適性。燭明術の精密制御。錬器術。流脈術。——四行適性の異例さ。


 厳島はかつて外采使だった。結界の外で怪異と渡り合い、灰輪を走破し、迷霧圏の端に足を踏み入れたこともある。元外采使として、「景色を和紙に焼きつけて持ち帰れる法具」の意味を厳島は即座に理解した。


 遠征先の地形を記録して持ち帰れる。怪異の姿を図録化できる。灰輪の変化を定期的に撮影して比較できる。外采使が自らの記憶と手描きの略図だけで報告していた情報を、正確に、消えない形で——。


 篝のために作られた法具は、里の組織でも価値あるものだった。


---


 夜。


 土御門家の主人の部屋に灯が点いていた。


 基は卓の前に座っていた。浄衣を脱いで直垂を簡略化した寛いだ装いで、目の前に広げた報告書を読んでいた。厳島寮長からの報告書。影写しの技術仕様。開発者の名——多々良玄外、土御門朔。


 自分の息子の名だった。


 基は報告書を読み進めた。読む目が変わった。最初は父の目だった。息子が法具を開発したことへの驚き。だが数行読み進めたところで——鎮護寮頭領の目に変わった。


 結界の劣化箇所を定期的に撮影し、変化を記録する。穢れの分布を定点観測して経年変化を追う。目で見て判断するしかなかったものが、記録として残せる。


 結界維持にも使える。


 基は報告書をしばらく見つめていた。灯の光が紙面を照らして、影写しの三文字が浮かび上がっている。


 視線を上げた。


 廊下の向こうに、篝の部屋の明かりが灯っているのが見えた。障子越しの柔らかい光。この時間にまだ灯を消していない篝。影写しの四枚を、まだ見返しているのかもしれない。あるいは枕元に並べて眺めているのか。


 基はそれを知らない。息子が篝のために法具を作ったことを。報告書の向こうにある物語——朔がなぜこの法具を作ったのか、何年かけてこの技術に辿り着いたのか——は、報告書には書かれていない。


 ただ——朔が選んだ道が、自分が思っていたより遥かに広いことを、基は報告書の文字の向こうに見た。結界術を教えた。だが朔は結界を維持するだけでなく、結界の向こうの景色を持ち帰る術を生み出していた。


 基は報告書を閉じずに卓の上に置いた。立ち上がり、廊下に出た。


 「要」


 奥の部屋から返事があった。間があって、足音が近づいてきた。要が直垂の襟を緩めた格好で現れた。


 基は何も言わずに報告書を差し出した。


 要は受け取った。父が無言で文書を渡すことは珍しくない。要は廊下の柱に肩を預けて、灯の明かりで報告書を読み始めた。


 目が開発者の名——土御門朔——に止まった。


 要は黙って読み進めた。技術仕様。応用の可能性。内工座の評価。——数行で全体を把握した。


 「……篝のためか。——外の風景を持って帰れるなら、外采使が喉から手が出るだろうな」


 要の声は淡々としていた。合理的で、分析的で──朔とは違う種類の知性で状況を見ている声だった。弟が篝のために作ったものが、結果として里のために役立つ。要の中にあるのは嫉妬ではなかった。弟が自分とは別の道を歩いていることへの、静かな敬意だった。


 基は何も応えなかった。


 要は報告書を父に返した。片手を軽く上げて、廊下の奥に去っていった。


---


 同じ夜。


 総宰司の奥院。紙の山と線香の煙に包まれた執務室に、久我崎嶺壱が座っていた。


 卓の上に積まれた報告書の束。配給台帳。人口推移表。結界の定期観測報告。——毎夜繰り返される、里の命を数字に換算する作業の途中だった。


 嶺壱の手が一通の報告書で止まった。


 内工座からの技術報告。通常であれば目を通すだけで済む定型の文書だった。だが——開発者の欄に、見慣れない組み合わせがあった。


 多々良玄外。教導寮五級童・土御門朔。


 七歳の童の名が、内工座の共同開発者として記されていた。


 嶺壱は報告書を読み進めた。映像を和紙に定着させる法具。影写し。——技術の詳細よりも先に、嶺壱の頭の中では一つの数字が動いていた。外采使の生存率。記憶と略図に頼っていた情報が正確な記録に変われば、その数字が変わる。


 嶺壱は報告書を卓の上に置いた。線香の煙が紙面の上を横切っていく。


 土御門朔。基の次男。三年次の初穂。


 嶺壱はその名を覚えた。嶺壱が名を覚えるということは、総宰司の帳簿の中にその名が刻まれるということだった。配給量でも人口統計でもない、別の帳簿に。


 灯を消さずに、嶺壱は次の報告書に手を伸ばした。深夜の執務室の灯りは、今夜も消えなかった。


---


 翌朝。


 篝の部屋の窓際に、一枚の和紙が飾られていた。


 大楠の一枚目。根元から見上げた景色。太い根の広がり。枝越しの空に浮かぶ花の灰色の影。春の朝日が窓から差し込んで、和紙の表面を淡く照らしていた。


 色はない。白と黒と灰色だけの世界。でもその中に——この根の太さを、この枝越しの空を、朔が毎日見ていたという事実が焼きついている。消えない。


---


 同じ朝。


 朔は通学路を歩いていた。


 春の光が石畳を照らして、道の上に長い影を落としている。空気はまだ冬の名残を含んでいたが、肌に触れる風には春の柔らかさが混じっていた。


 分かれ道に差しかかった。北西の道の向こうから足音が聞こえてきた。規則的で、少し前のめりの歩幅。濃紺の髪が朝靄の向こうに見えた。


 凌だった。


 凌はいつも通りの顔で歩いてきて、いつも通り朔の隣に並んだ。何も言わなかった。朔も何も言わなかった。二人は黙って並んで、教導寮の方へ歩き始めた。石畳の上に二つの影が伸びた。いつもの朝。何も変わらない、いつもの朝だった。


 朔は歩きながら思った。


 篝の部屋に四枚の景色がある。消えない景色が、あの部屋にある。大楠の根元と、礎場の足元と、工房の入口と——凌がいるこの道。


 朔が毎日見る世界が、あの窓辺に並んでいる。


---


 篝の部屋。


 窓辺の和紙の上の大楠が、春の朝の光を浴びていた。


 色のない根が、色のない空に向かって伸びている。枝の隙間から差し込む光が和紙の表面を柔らかく照らして、墨色の濃淡が暖かく浮かび上がっていた。


 消えない。


 この景色は、もう消えない。


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