52話 : 鳴弦の名前
春が来ていた。
教導寮の大楠は、冬の間に固く閉じていた蕾を一斉にほどき始めていた。青い花が枝という枝から溢れている。花弁の一枚一枚が午後の陽を受けて薄く透き通り、見上げると空に淡い青の霞がかかっていた。
朔は大楠の根元に座っていた。
背中を太い幹に預けて、膝の上に何も乗せずに座っている。ただ春の風に吹かれていた。風が枝の間を抜けるたび、青い花弁がはらはらと舞い落ちて、直衣の袖や膝の上に積もった。
放課後の教導寮は静かだった。凌はすでに帰った。鍛錬場で一振りだけ木刀を振って、それ以上何もせずに門を出ていった。善次郎も蓮も、今日は寄り道をしなかった。初穂の序列が決まり、年度末の慌ただしさも済んで、新年度までの束の間の穏やかな空白が教導寮に降りていた。
根元の土は冬よりも柔らかかった。指で押すと少しだけ沈む。土の中にも春が来ているのだと、掌で感じた。
風が止んだ。
大楠の高い枝のどこかで、甲高い声がひとつ鳴った。「キィ」と短く、澄んだ声だった。
鳴弦だった。
灰銀色の翼が青い花の間から覗いた。小さな鷹の体が枝を降りてくる——高い枝から、低い枝へ。低い枝から、さらにその下の、朔の頭の横の枝へ。翼をたたみ、首を傾げ、琥珀色の目で朔を見下ろした。
朔は手を伸ばさなかった。鳴弦がくるのを待っているわけでもなかった。ただそこにいた。
鳴弦が枝を蹴った。
ふわりと降りて——朔の膝のすぐ横の地面に、音もなく着地した。体をたたんで座り込むように落ち着く。翼を畳んだまま、小さく「キィ」と鳴いた。それきり静かになった。
入学の日、鳴弦は大楠の枝の上にいた。高い場所から、朔のそばの低い枝に降りてきたのが最初だった。それから二年の間に、低い枝から肩へ、肩から腕へと、少しずつ距離が縮まっていった。今日は——朔と同じ地面にいた。鳴弦なりの信頼の示し方だった。ここにいていいと、体で言っている。
朔は鳴弦の灰銀色の羽根を見下ろして、小さく口元を緩めた。胸元の金の斑紋が春の光を受けて淡く光っている。静かだった。何もかもが凪いでいた。
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「……朔くん」
声が聞こえた。
顔を上げると、大楠の下の木陰の端に郁が立っていた。小柄な体を少し丸めて、くすんだ茶色の髪が春の風に揺れている。左肩には何もいない——鳴弦が朔のそばにいるからだった。
郁は小さく頭を下げた。以前なら「ご、ごめんなさい、鳴弦が勝手に……」と慌てただろう。今は違った。鳴弦が朔のそばに降りることは、もう日常の一部になっていた。郁がそれに慌てなくなったのは——三年次の春あたりからだった。鳴弦が朔のところに行く。それは郁にとって、もう怖いことではなくなっていた。
「座っていい?」
郁がおずおずと聞いた。朔が頷くと、郁は大楠の根元の、朔から少しだけ離れた場所に腰を下ろした。一年前の秋、初めて大楠の下に来たときは渡廊下から見ているだけだった。蓮に手招きされて、おずおずと近づいてきた。今日は自分の足で歩いてきて、自分の声で「座っていい?」と聞いた。その距離は——縮まっている。少しずつ、確かに。
春の風が二人の間を通り抜けた。青い花弁が一枚、郁の膝の上に落ちた。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
鳴弦が朔の膝の横で羽を休めている。翼をたたんで、目を細く閉じて——眠っているように見えた。郁がその姿をじっと見つめていた。琥珀色の目が——郁と同じ色の目が、静かに細められている。
郁が少し笑った。
「鳴弦、朔くんのそばだと……いつもそうだね。僕のそばでもそんなに穏やかにならないのに」
声が小さかった。けれど以前のように途切れがちではなかった。言いたいことを、最後まで声にしていた。
朔は鳴弦を見下ろした。整った羽の下で、小さな胸がゆっくり上下している。
「不思議だね」
それだけだった。朔はそれ以上何も言わなかった。なぜ鳴弦が自分に懐くのか分析しようともしなかった。仕組みや理屈に落とし込むことが得意な朔が、鳴弦についてだけは、ただ「不思議だ」と受け止めていた。
郁がしばらく黙った。膝の上の花弁を指先でそっと触った。
「……たぶん、朔くんが何も求めないからだと思う」
朔が郁の方を見た。
「鳴弦は、欲しがる人のそばでは落ち着けないの。近づいてほしいとか、止まってほしいとか——そういうのが分かると、翼が固くなる。でも朔くんは……鳴弦が来ても来なくても、同じだから」
郁の声は静かだった。鳴弦と長い年月を過ごしてきた者だけが持つ、揺るぎない観察の結果だった。
朔は目を伏せた。
「……来ても来なくても同じ、か」
鳴弦が薄く目を開けた。琥珀色の目が朔を見上げた。「キィ」と小さく鳴いた。柔らかな声だった。郁が苦笑した。
「でも——来てるけどね。いつも」
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風が変わった。午後の光が傾き始めていた。大楠の影が長く伸びて、二人のいるところを斜めに覆った。影の中に花の匂いが漂っていた。
朔は鳴弦を見つめていた。灰銀色の羽。胸元の金の斑紋。左の足首には何もついていない——鳴弦の素のままの足だった。
ふと、聞いてみたいことがあった。考えてみれば、二年前に鳴弦の名前をきれいだと言ったのに、その由来を聞いたことがなかった。
「郁は鳴弦にどうしてこの名前をつけたの?」
郁が顔を上げた。琥珀色の目が揺れた。少し恥ずかしそうに視線を落として、膝の上の花弁を指先でいじった。
「……鳴弦っていうのは」
郁の声が少しだけ強張った。大切なものを人に見せるときの、あの躊躇いだった。
「弓の弦を鳴らして邪を祓う儀式のことなの。……母さんが教えてくれた。昔の宮中で、弓に矢を番えずに弦だけを引いて——弦の音で、悪いものを追い払うんだって」
朔は黙って聞いていた。鳴弦が地面の上で小さく体を動かした。尾羽が朔の小指に触れた。
郁がさらに続けた。声が少しだけ柔らかくなった。記憶の奥にある、暖かい場所に触れているような声だった。
「この子が来た日——僕はまだ小さくて、夜が怖かった。暗い部屋で一人で泣いてたら、窓の外から、鷹の鳴き声が聞こえたの」
郁の目が遠くなった。
「甲高い声。一声だけ。——それを聞いたら、急に怖くなくなった。朝が来たみたいに。母さんが言った。『その鳴き声はね、鳴弦の儀と同じだよ。邪を祓って、あなたを守ってくれたんだ』って」
大楠の枝が風に揺れた。青い花弁が二つ、三つ、音もなく落ちた。
郁が鳴弦を見た。小さな鷹は郁の声に反応して顔を上げていた。琥珀色の目が郁を見つめている。郁の目と、同じ色の目で。
「だから鳴弦にした。僕を守ってくれる声——声なき者の代わりに鳴る弦」
朔はしばらく何も言わなかった。大楠の幹に背中を預けたまま、郁の言葉を胸の中で受け止めていた。
声なき者の代わりに鳴る弦。——声を出すことが怖かった少年が、自分の代わりに鳴いてくれた存在につけた名前だった。
朔は静かに口を開いた。
「——いい名前だね」
二年前の春、引率の途中で——朔は鳴弦の名前を初めて聞いたとき、「きれいな名前だね」と言った。名前の響きに惹かれた、印象の賛辞だった。
今日の「いい名前だね」は違った。鳴弦の名に込められた意味を知った上で、その名を選んだ郁の想いごと受け止めた言葉だった。響きではなく、意味を。
郁が小さく笑った。頬がわずかに赤くなった。
「……二年前にも、同じようなこと言ってくれたよね。あのとき、嬉しかった」
朔は少し驚いた。
「覚えてるの?」
郁の手が止まった。膝の上の花弁から指を離して、真っ直ぐに朔を見た。伏し目がちな郁が、このとき確かに朔の目を見ていた。
「忘れるわけないよ。……僕が名前を恥ずかしいと思った日に、朔くんが鳴弦の名前をきれいだって言ってくれたんだもん」
名乗りの儀のことだった。声が小さくてやり直しになった日。同期の視線が突き刺さって、郁が消えてしまいたかった日。鳴弦が肩の上で「キィ」と鳴いて場を静めてくれた、あの日。
——その日に、朔が言ったのだ。「鳴弦というんだね。きれいな名前だね」と。
あの一言を、郁は二年間ずっと覚えていた。
朔は何も返さなかった。言葉を探したが、見つからなかった。鳴弦が小さく首を傾げて、二人を交互に見た。琥珀色の目が、春の光の中で静かに光っていた。
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夕暮れが近づいていた。
大楠の影がさらに長く伸びて、教導寮の渡廊下にまで届いていた。青い花が夕陽に染まり始めて、ほんのりと紫を帯びている。昼の青と違う色だった。同じ花が、光が変わるだけで別のものに見えた。
二人は大楠の下を立った。鳴弦が地面から羽ばたいて、郁の左肩に戻った。いつもの定位置。鳴弦が肩に止まると、郁の左肩が無意識にわずかに後ろに引かれた。鷹が止まりやすいように——長い年月で体に染みついた所作だった。
帰り支度を済ませ、正門を出た。
春の帰り道は日が長い。冬の帰路は足元から闇が這い上がってきたが、今は西の空がまだ明るかった。夕陽が山の稜線に触れかけて、空が広かった。
通学路を並んで歩いた。郁は朔の半歩後ろにいた。以前ならもっと離れていた。大楠の下に初めて来た日は少し離れた場所に座り、声をかけるのにも躊躇いがあった。合同訓練で一緒に動くようになって、大楠の下で会話を重ねて——今は半歩だった。並んでいるとも言えるし、まだ後ろにいるとも言える距離。
道は教導寮の正門から南に伸びて、里の大通りに出る。大通りを少し歩くと、郁の家に向かう小路のところで分かれ道になる。朔はまっすぐ東に進み、郁は右に折れる。大通りの石畳を踏む二人分の足音と、鳴弦の小さな息遣いだけが聞こえていた。
分かれ道が見えた。
郁の足が止まった。
朔が半歩先で振り返った。郁は何か言おうとしていた。唇が動いて、止まって、また動いた。
「朔くん」
郁の声は小さかった。けれど途切れなかった。
「……鳴弦が朔くんのそばにいたとき、朔くん……迷惑じゃない?」
朔が目を瞬いた。「迷惑?」
郁が視線を落とした。鳴弦が左肩の上で小さく首を傾げた。
「だって、鳴弦は僕の式なのに、いつも朔くんのところに……」
声が尻すぼみになりかけた。二年前なら「ごめんなさい」で終わっていただろう。でも今の郁は、謝罪の前に「聞きたいこと」を口にしていた。答えが欲しかった。迷惑なのか、そうでないのか——郁にとっては、どちらの答えも怖かった。
朔は少し考えた。風が大通りの石畳の上を吹き抜けた。
「鳴弦が来てくれると、嬉しいよ」
分析でも論理でもなかった。朔にしては珍しく——感情の言葉だった。影写しを完成させた秋から、初穂を獲った初春を経て——朔の口から出てくる言葉が、少しだけ変わっていた。分析の外にあるものを、そのまま声にできるようになり始めていた。
郁の目がわずかに潤んだ。唇を噛んで、一度だけ瞬きをした。涙は落ちなかった。
「……そっか」
小さく頷いた。声は震えていなかった。安堵が、静かにそこにあった。
郁が笑った。口元だけの、控えめな笑顔だった。
「また明日、朔くん」
「また明日」
朔が頷いた。郁が小さく会釈して、右の小路に足を向けた。鳴弦が郁の肩の上から振り返った。琥珀色の目が朔を見つめた——しばらく、じっと。それから体の向きを変えて、郁の肩の上で前を向いた。灰銀色の翼の先が夕陽の橙に染まっていた。
郁の足音が小路の奥へ遠ざかり、やがて春の風の音に紛れた。
朔は一人になった。
大通りを東に歩いた。足元の石畳が日の温かさを残していた。
いい名前だと、もう一度思った。二年前にきれいだと言った名前が、今日——もっと深いものになった。
春の風が通学路を吹き抜けた。青い花弁が一枚だけ、どこからか飛んできて、朔の袖に止まった。大楠の花だった。朔はそれをそっと指先で摘んで、掌の中に包んだ。
春の夕暮れが、里の屋根の向こうに沈んでいった。




