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あやかしの海、硝子の揺り籠 〜結界術師の次男坊は、独自開発の『法具』と『小隊戦術』で平安異世界を圧倒する〜  作者: 鶯神楽
1部:2幕:教導寮七級童~五級童

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51話 : 初穂

 初春の朝は音がない。


 教導寮の大広間は、人の息ばかりが漂っていた。試験の口述が始まる前の静けさは毎年同じだった。座学の巻物を広げる者、唇を動かして暗誦する者、腕を組んで目を閉じる者——それぞれの姿が、大広間の板張りの床に散らばっていた。


 朔は窓際に座って、手元の巻物を閉じた。もう十分だった。


 秦訓導の「始め」が静かに落ちた。


 口述試験は、名前を呼ばれた者から順に立ち上がり、秦訓導の問いに答えていく。五行理論、里史、結界の構造原理、穢れの分類——三年分の座学を、声だけで証明する時間。


 凌は二つ前に立った。里の配給制度の変遷を問われ、喉の奥でつっかえながらも一つずつ正確に答えていった。一年次の序列発表の日に武術場の横で里史の巻物を広げていた背中を、朔は覚えていた。あの日から二年——凌は座学を捨てなかった。声は滑らかではないし、秦訓導が一度だけ首を傾げた箇所もあったが、最後まで止まらなかった。


 蓮は変わらず淀みなかった。問われたことに一語も余さず、一語も足さず答える。座学だけなら蓮が同期で最も正確なのは、入学の日から変わっていない。


 善次郎は最短で答えた。秦訓導が問い終わる前に立ち上がり、答え終わると同時に座った。秦訓導の苦笑を三年連続で浴びていた。


 朔の名前が呼ばれた。立ち上がった。五行の相生と相克の応用、術式間の連携がもたらす相乗効果、結界術と燭明術の複合運用の原理——問いが来るたびに、静かに、正確に、答えた。言葉に飾りは要らなかった。仕組みが分かっている。分かっていることを、そのまま声にすればいい。


---


 術式実技は午後だった。


 五行修練庭の礎場。朔は足裏から法力を大地に送った。地面から琥珀色の光がこぼれ、結界の膜が四方に立ち上がる。入学前、父の庭で法力を指先に灯すことすらできなかった手が——今は足の裏から大地を通じて壁を立てる。曲率を整える。端まで均一に。影写しの開発で磨いた膜の制御が、結界術に還ってきていた。


 秦訓導が適性評価書に何かを書き込むのが、視界の隅に映った。


 焔壇では凌の規格外の法力出力が轟いた。戦刃術で法力を刃に纏わせた木刀の一振りが、怪異模型の木製の肋を三本同時に断った。断面が焦げている。法力が斬撃と同時に焼灼しているのだ。日下部が腕を組んだまま動かない。視線だけが凌を追っている。


 朔も焔壇の評価を受けた。燭明術——指先に星のような光を灯し、闇の中に配置された木製標的の位置を一つずつ照らし出す。音はない。炎も上がらない。ただ指が向いた先だけが一瞬明るくなり、標的の位置が紙に記録されていく。索敵精度は同期の中で抜きん出ていた。


---


 班別模擬戦は、三年次で初めて加わった試験だった。


 一番班は最後の組だった。


 秦訓導と日下部が壁際に立つ。助手が二人、怪異模型と共に配置される。


 朔は——指先に燭明術を灯した。模擬戦場の隅々に光を走らせ、怪異模型の配置と助手の立ち位置を頭に描いた。


 凌を見た。凌はもう前を向いている。振り返らない。声を待っていない——朔の視線を感じて、つま先の方向だけがわずかに変わった。


 善次郎は左側面に立っていた。薙刀の石突が地面に触れている。動かない。善次郎が動かないことが、まだ早いという合図だった。


 蓮は朔の斜め後ろにいた。弓の弦に指を添えたまま、前衛二人と朔の背中を視野に収めている。はじめての訓練から自分にできることを考え、弓を学んだ。


 朔の右手が動いた。指先の光が二度瞬いた。


 凌が走った。


 声は出さなかった。凌の体が前に出た瞬間、善次郎の薙刀が横に伸びて左の助手の足を払った。蓮が弓を引いた弦の振動が微かに響き、右側面の助手の注意がそちらに逸れた。その隙に凌が正面の怪異模型の弱点に一撃を入れた。


 模型が倒れる音と、蓮の「次!」という声が同時だった。二体目の処理が既に始まっていた。


 二体目は善次郎が正面から受け止め、蓮の声で凌が側面に回った。声なき連携が二体の模型を処理するまでに、朔が発した声はなかった。指先の光と視線だけで、三人は動いた。


 三体目——最後の怪異模型は、日下部の真横に配置されていた。


 日下部が構えを変えた。腕を組んでいた手が自然に降り、左膝を庇うように重心を落とした。壁際の観察者ではなく——阻む者の構えだった。日下部は最後の模型を守るように立っていた。助手の二人もその両脇を固めている。


 凌が日下部を見た。体が前に出ようとした。拳が握られた。


 朔は凌の背中を見ていた。あの背中が一人で突っ込んでいった日を知っている。日下部に釘付けにされて、札に手が届かなかった日を。——今は違う。凌の足が踏みとどまっていた。声を待っている。


 右の助手が動いた。蓮を狙って横に走り出した。蓮がわずかに身を引いた。


 朔の左手が前に出た。


 空気が軋んだ。琥珀色の光が一瞬だけ滲み、低い共鳴音が武術場の床に響いた。——断空壁。助手の棒が見えない壁に当たり、鋼が軋むような音を立てて弾かれた。蓮の前に、結界が立っていた。


 朔はその音を知っていた。何百回と張ってきた壁の音だった。


 蓮が朔の結界の内側で体勢を立て直した。「ありがとう!」と短い声が飛んだ。蓮はもう弦に矢を番えていた。


 善次郎が左の助手の前に壁のように立ちはだかった。善次郎の背中が蓮を覆っている。ここは任せろ、と体が言っていた。


 朔の目が日下部と最後の模型を捉えた。日下部の構えは正面——凌が真っ直ぐ来ることを読んでいる。正面からでは、凌は日下部に止められる。


 朔は右手を上げた。指先に法力を集中させた。空間の一点を固定する——空間鋲。目に見えない足場が、日下部の頭上の空中に生まれた。法力が空間を噛み、一点だけが世界に縫い留められる感覚。手のひらの先の空気が壁になる、あの冷たい抵抗感。足場は小さい。凌の足が一つ乗るぶんだけで十分だった。


 「凌——踏んで」


 朔の声は短かった。二語だけ。凌は振り返らなかった。振り返る必要がなかった。朔が「踏め」と言ったなら——空中に何かがある。朔が作ったものだ。それを疑う理由は、もうどこにもなかった。


 凌の足元で小さな火花が弾けた。跳火。足裏の微爆発が凌の体を持ち上げた。跳躍の頂点で——凌の足が空中の一点を踏んだ。見えない足場を。踏んだ瞬間に体がさらに高く跳ね上がり、凌は日下部の頭上を飛び越えようとした。


 日下部が動いた。


 凌の跳躍を目で追い、体の軸を回して阻止に向かった。膝を壊したとて元外采使の反応は鈍くなかった。棒が凌の着地点を捉えようとした。


 その瞬間——朔の指先の光が揺れた。


 光の屈折がわずかに歪み、凌の姿が二つに分かれた。幻姿。影写しの開発で研ぎ澄ませた屈折制御が、凌そっくりの像を一瞬だけ空中に残した。


 日下部の目が揺れた。上の凌と、下の凌。半拍——日下部の体の軸がわずかにぶれた。本物は下だと気づいた。気づいたが、体はもう動いていた。幻影に反応した体の軸を戻すのに、半拍かかった。


 その半拍で、凌は日下部の頭上を抜けた。


 最後の怪異模型の前に着地した。木刀に全身の力が乗った。跳躍の勢いと重力と、凌自身の全てを込めた一撃が、模型の弱点に叩き込まれた。


 模型が砕けた。破片が武術場の床に散った。


 静寂が落ちた。


 凌が息を荒くしながら立ち上がった。木刀から微かに煙が立っている。


 日下部は動かなかった。


 腕を組み直した。凌を見て、善次郎を見て、蓮を見た。——最後に、朔を見た。


 朔の指先がまだ微かに光を帯びていた。断空壁を張り、空間鋲を固定し、幻姿を展開した——その三つの残響が、指先に残っていた。


 日下部は黙っていた。腕を組んだまま。口元が引き結ばれていた。


 秦訓導が筆を止めていた。適性評価書の上に墨が乾くのも忘れて、朔を見ていた。


 日下部がゆっくりと口を開いた。


 「……断空壁、空間鋲、幻姿。中伝が三つ。——粗ぇよ。どれも荒削りだ」


 それだけ言って、間を置いた。朔を見る目が少し変わっていた。日下部は前線を退いたとはいえ、元外采使。中伝に到達するのに、自分が何年かかったかを知っている。


 「……だがな。三年次——五級童で三つ揃えた奴を、俺は見たことがねぇ」


 声が低かった。怒鳴り声が大きい日下部の、いつもと違う——静かな声だった。


 日下部が頷いた。


 秦訓導が適性評価書の上に筆を走らせた。筆の音だけが武術場に響いた。


---


 翌日。


 大広間に全員が集まった。初春の光が高窓から細く差し込んで、板張りの床に白い帯を引いている。


 同じ光景だった。一年次も、二年次も。秦訓導が巻物を広げ、序列を最下位から読み上げる。名前を呼ばれた者が小さく息を吐いたり、目を伏せたり、何も変えなかったりする。毎年同じ空気の中で、呼ばれる名前だけが変わっていく。


 善次郎の名前が呼ばれた。上位だった。


 善次郎は微動だにしなかった。壁に寄りかかった姿勢のまま、呼吸すら変えなかった。一年次も二年次もそうだった。三年目も同じだった。序列は事実であって、善次郎にとっては感情の対象ではなかった。


 蓮の名前が呼ばれた。


 蓮は小さく頷いて、笑った。一年次は最後に残ったあの笑顔で前に出た。二年次は一瞬だけ目を閉じて、すぐに笑顔に戻した。三年目の笑顔は——穏やかだった。力みがなかった。蓮はもう、初穂に手が届く場所で戦っていることを知っていた。知った上で、結果を受け入れていた。


 凌の名前が呼ばれた。


 残るは一人。


 凌が立ち上がった。立ち上がりながら、一瞬だけ朔を見た。赤銅色の目が、朔の目と合った。何の色もなかった。怒りも、悔しさも、諦めも——なかった。ただ見た。それだけだった。


 凌は視線を前に戻して、自分の位置についた。


 大広間に——朔の名前だけが残った。


 秦訓導が巻物から目を上げた。


 「土御門朔」


 朔は立ち上がった。


 前に出た。


 板張りの床を踏む音が、静まった大広間に響いた。一年次、蓮がこの床を踏んだ。二年次、凌がこの床を踏んだ。三年目——朔の足が、同じ場所に立った。


 厳島寮長が朔の苗札を手に取り、表面の名を一瞬だけ確認した。それから壁の方を向き、空欄の木札を取り上げた。墨を含ませた筆が木札の上を走り、「土御門 朔」の字が刻まれていく。墨が木目に沁みる小さな音だけが聞こえた。


 「本年の初穂」


 厳島寮長の声は穏やかだった。けれどその穏やかさの中に、有無を言わさないものがあった。寮長が朔の名を告げたとき、大広間は静かなままだった。拍手も歓声もない。一年次も二年次もそうだった。初穂の宣言に応じるのは、静寂だった。


 朔は拳を握っていなかった。表情も変わらなかった。木札に自分の名前が書き込まれるのを、静かに見つめていた。


 ただ——胸の奥に、声が聞こえていた。


 「さくにぃが一番がいいな。あたしは」


 あの春の夕暮れの、篝の声。願いでも期待でもなく、ただそう思ったから口にした——あの声。一年間、胸の底に沈んでいた。分析では処理できない、言語化できない、ただ温かいだけの声が。


 今日、初めて——答えを出せた。


---


 大広間を出た。


 渡廊下を歩いていると、壁に背を預けている人影があった。


 凌だった。


 腕を組んで、壁に肩をつけて立っている。朔が出てくるのを待っていた。いつ出てきたのかは分からない。凌は序列発表が終わった後、すぐに大広間を出ていったのだろう。


 朔が足を止めた。凌が壁から背を離した。


 短い沈黙。春の淡い光が渡廊下の板を白く照らしていた。


 「おまえが上で正しい」


 凌が言った。


 声は低かった。いつもの断定的な口調だった。けれど——「正しい」という言葉は、凌の言葉ではなかった。凌は「強い」か「弱い」か、「やる」か「やらない」かで世界を切り分ける。「正しい」は——朔の言葉だった。


 一年次、蓮が初穂を獲ったとき、朔は言った。「蓮が初穂で正しいと思う」。二年次、凌が初穂を獲ったとき、朔は言った。「凌が一番で正しいと思う」。


 あの言葉が——凌の口から、朔に返ってきた。


 朔は一瞬、何も言えなかった。凌がわざわざ朔の語彙を借りてきた。その一言に——「悔しい」も「認めている」も「おまえだからだ」も、全部入っていた。


 朔は息をひとつ吐いた。


 「……来年もわからないよ」


 声が出た。自分でも驚くほど自然に。二年次の帰り道、凌が「来年はわかんねぇぞ」と言った声が耳に残っていた。あのとき凌は初穂を獲った側にいて、来年の話をした。今は朔が同じ側にいて——凌の言葉を借りている。


 二人で言葉を交換していた。


 凌が鼻で笑った。赤銅色の目が細くなって、口の端が上がった。


 「上等だ」


 それだけだった。凌は背を向けて歩き出した。渡廊下の先の角を曲がって、姿が消えた。


 朔はしばらくその場に立っていた。初春の風が渡廊下を抜けて、頬を冷やした。


---


 帰り支度をして、正門を出た。


 門を出てすぐ、後ろから足音が追いかけてきた。


 「朔くん!」


 蓮だった。駆け寄ってきた蓮は、息を弾ませて朔の正面に回り込んだ。翡翠色の目が笑っていた。


 「おめでとう!」


 蓮の手は開いていた。二年次の凌の初穂のとき、蓮は笑顔で拍手しながら手のひらを赤くしていた。今日は赤くなかった。拍手の力みもなかった。蓮は素直に喜んでいた。従姉として、班員として——ただ嬉しかった。


 「ありがとう、蓮」


 「篝ちゃんに教えなきゃ! ——あ、でも朔くんが自分で言いたいよね」


 蓮は言いかけて、自分で止めた。篝のことをすぐに想起する。それが蓮だった。朔の初穂が篝にとって何を意味するか——蓮は篝の「さくにぃが一番がいいな」を知らない。知らなくても、蓮には分かっていた。


 朔は小さく頷いた。「うん。自分で言う」


 蓮は「えへへ」と笑った。袖口に薬草の匂いが微かに残っていた。


 大通りに出ると、半歩後ろに気配があった。


 振り返らなくても分かった。善次郎だった。いつもの位置にいた。帰り道は善次郎がいつも半歩後ろを歩く。朔の歩幅に合わせて、決して横に並ばず、決して離れず。


 朔が振り返った。善次郎と目が合った。


 善次郎は——小さく頷いた。


 それだけだった。序列発表で微動だにしなかった善次郎が、帰り道で頷いた。三年間、大広間では同じ反応を繰り返してきた善次郎の——その一貫性の外にある、小さな温度。言葉にすれば消えてしまう程度の、けれど確かにそこにある何かが、善次郎の顎の動きに宿っていた。


 朔は前を向いた。蓮が隣で何かを喋っていた。善次郎が半歩後ろを歩いていた。分かれ道が近づいた。


 「じゃあね、朔くん! 明日ね!」


 蓮が手を振った。大きな手振りだった。


 善次郎が「また明日」と短く言って、北西の小路に足を向けた。


 朔は一人になった。


---


 土御門家の門をくぐった。頬の冷たさが敷地結界の内側でふっと和らいだ。


 まっすぐ篝の部屋に向かった。障子の向こうに穏やかな灯りがあった。篝が一人でいるようだった。


 障子を引いた。


 「おかえり、さくにぃ」


 篝が顔を上げた。膝の上に押し花帖を広げていた。春の夕暮れの光が窓の障子を透かして、篝の頬にうすい橙を乗せていた。目に力があった。今日は体調の良い日だった。


 「ただいま、篝」


 朔は篝の隣に座った。褥の端に腰を下ろして、足を崩した。篝の押し花帖が膝の上で揺れた。


 しばらく何も言わなかった。


 篝が帖をめくっていた。頁の間から乾いた花弁が覗いている。梅の薄紅。忍冬の白。藤袴の淡い紫——それと、見たことのない花があった。薄紫の小さな花弁が、新しい頁に丁寧に挟まれていた。朔が摘んできた花ではなかった。


 蓮が持ってきた花だった。


 篝の世界は——朔だけで成り立っていない。蓮がいる。蓮が外の花を運んでくる。朔が花を忘れた春も、蓮が篝のそばにいてくれた。


 朔はその薄紫の花弁を見つめて、小さく笑った。


 篝が押し花帖を閉じた。朔の方を向いた。


 「今年は何番だったの?」


 三度目の問いだった。


 一年次の春、篝は褥の中からこう聞いた。「何番だったの?」。二年次の春、篝は縁側でこう聞いた。「今年は……何番だったの?」。


 朔は篝の目を見た。漆黒の瞳が春の夕暮れの光を映して、静かに揺れていた。


 「……一番だった」


 篝の目が大きくなった。


 唇が震えた。押し花帖を膝の上に置いた手が、小さく強張った。


 それから——。


 「……知ってた」


 涙声だった。


 「知ってた」は篝の口癖だった。朔が何かを隠しているとき、篝は「知ってるよ」と言って見抜く。けれど今日の「知ってた」は違った。朔がいつか一番になると——篝はずっと信じていた。一年前の春に「さくにぃが一番がいいな」と言ったあの日から、ずっと。信じていたことが、本当になった。


 朔は泣かなかった。けれど声が少し揺れた。


 「……篝。一番になれたよ」


 あの春の縁側の言葉には、二人とも触れなかった。触れる必要がなかった。一年分の時間を抱えて、今日この瞬間に答えが出たことを、二人とも知っていた。


 篝の目尻から涙が一筋落ちた。頬を伝って顎の先で止まった。篝は手の甲で乱暴にそれを拭って、鼻を啜った。


 「……すごいじゃん、さくにぃ」


 鼻声だった。一年次の「すごいじゃん!」と同じ言葉が、全く違う重さで響いた。


 朔は何も答えず、篝の頭に手を乗せた。漆黒の髪が指の間をすり抜けた。篝がわずかに朔の肩に寄りかかった。


 初春の夕暮れが、障子越しに濃くなっていた。空が橙から藍に変わる時間だった。部屋の中に灯りが温かく落ちて、二人の影が重なって壁に伸びていた。


 篝が押し花帖をもう一度開いた。薄紫の花の頁を朔に見せた。


 「蓮ねぇが持ってきてくれたの。名前はまだ聞いてない。今度聞くんだ」


 朔は頷いた。


 影写しのことは言わなかった。袖の中の引き出しに眠っているあの筒と、大楠の一枚。篝に渡す景色は、まだ揃っていない。一番になれたことと、影写しのこと——今日は一つだけでいい。


 窓の向こうの空が暮れていった。初春の星が一つ、障子の格子の隙間から覗いていた。篝の呼吸がゆっくりと穏やかになって、朔の肩の重みが少しだけ増えた。


 篝がうとうとし始めていた。


 朔は篝の頭をそっと褥に下ろして、薄い掛布をかけた。押し花帖を枕元に置いた。篝の寝顔は穏やかだった。


 部屋を出た。障子を静かに閉めた。


 渡廊下を歩いた。初春の夜の空気はまだ冷たかった。頬に当たる風が、試験の日の緊張とも、凌の「正しい」の重さとも、篝の涙声とも違う——ただ冷たい、静かな風だった。


 自室に戻った。文机の上に影写しの筒が置いてあった。暗い部屋の中で木の表面がうっすら光を受けていた。引き出しを開けると、大楠の一枚がそこにあった。


 一番になれた。


 それは分析の結果でも、努力の帰結でも、正しさの証明でもなかった。ただ——篝が信じていてくれたことが、嘘にならなかった。それだけのことだった。


 初春の夜が静かに深まっていった。


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