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あやかしの海、硝子の揺り籠 〜結界術師の次男坊は、独自開発の『法具』と『小隊戦術』で平安異世界を圧倒する〜  作者: 鶯神楽
1部:2幕:教導寮七級童~五級童

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47話 : 崩れてはまた

 放課後の道を急いでいた。


 酉の刻の鐘が鳴ってから少し経っていた。今日は凌も善次郎も先に帰った。蓮は「浄身院に顔を出してくるね」と手を振って、いつもの角を曲がった。朔は一人だった。


 里の道を西に折れた。内工座のある一角に向かう道は、通学路から一本外れた裏通りだった。石壁の向こうに赤い光が滲んでいる。鍛冶の火だ。規則正しく金属を叩く音が、夕暮れの空気を細く震わせていた。


 このあいだの帰り道では、この前を通り過ぎるだけだった。立ち寄る時間がなかった。今日は違う。今日は——この足を、工房まで伸ばしたかった。


 門の脇を抜けて、斎具所の工房の戸口に立った。煤と炭の匂いが漏れてくる。戸は半開きだった。中から火の光が差している。


 「……坊か」


 玄外は鋳型の仕上げをしていた。朔が入ってきても振り返らなかった。声だけが奥から低く届いた。手は止めない。いつものことだった。


 「はい。すみません、遅くなりました」


 朔は工房の隅に入った。棚に並んだ素材の箱に手を伸ばし、整理の続きを始めた。ここには朔の居場所がある。二年次から通い続けた工房には、朔が整理した棚と、朔が触ってもいい道具の区画がある。玄外が何も言わずに許してきた場所だった。


 素材を分類しながら、ときどき作業台の方を見た。玄外の手元を見るのが好きだった。鋳型の縁を炎で焼き締める工程は何度見ても同じに見えて、毎回微かに違う。指の圧加減が変わる。火の当て方が変わる。それを観察するだけで、素材の特性について頭の中で仮説が組み上がっていく。


 ふと——。


 作業台の端に置かれた法石の破片が、目に入った。


 磨きかけの半透明の石だった。玄外が何かの工程で使い残した端材だろう。窓から差し込む西日がその石に当たり、石を透過した光が——作業台の向こう側の床に、小さな像を映していた。


 朔の手が止まった。


 歪んだ窓枠の形。その向こうの木の影。枝が揺れると床の像も揺れた。光の中に——風景がある。窓の外の景色が、石を通して床に映っている。歪んでいて、ぼやけていて、色は淡い。けれど確かにそこには、窓の外の木と空と地面があった。


 朔は棚の前にしゃがんだまま、その小さな揺れる像を見つめていた。


 頭の中で何かが繋がろうとしていた。ずっと前のこと——。凌が毎日通ってきた冬の庭で、指先に法力を集めたとき、法力の膜が凹んだ曲面に変形した。あのとき、指先の光が一点に集まる感覚があった。あの形は——。


 まだ繋がらなかった。感覚の断片が手の中で転がるだけで、一つの形にならない。けれど法石の光が床に映す像を見ているうちに、胸の中のどこかが疼いた。


 「……閉じ込められないかな」


 声に出ていた。


 玄外が手を止めた。半拍の間。


 「何がだ」


 「この光の中にある景色を」


 玄外は振り返らなかった。鋳型に火を当てる手が一瞬止まって、また動き出した。何も言わなかった。


 朔はもう一度床の像を見た。


 揺れていた。風が吹くたびに枝の影が動いて、像が歪む。光があるかぎり像はある。けれど光が消えれば——消える。残らない。


 篝の声が胸の中で響いた。


 ——いいなぁ。根っこが見えるんだ。


 大楠の下がどんな風か。根がどれだけ太く地面を掴んでいるか。そこに座ると木漏れ日が肩に落ちること。言葉で話した。篝は頷いてくれた。けれど言葉では——。


 朔は立ち上がった。


---


 数日が経った。


 朔は自宅の庭で木箱を組んでいた。小さな木箱の片面に穴を開け、反対側の面に和紙を貼った。穴の位置と大きさを何度か調整した。


 箱を持って庭に出た。穴を庭の木に向けた。


 和紙の面を覗き込んだ。


 ——見えた。


 庭の木がひっくり返って和紙の上に映っていた。上下が逆で、左右も逆だった。けれど枝の形も、幹の太さも、そこにあった。ぼんやりと、淡く、けれど確かに。


 朔の心臓が跳ねた。


 和紙を箱から外した。その瞬間、像は消えた。


 何も残っていなかった。和紙はただの白い紙に戻っていた。


 見えるだけで残らない。


 別の日。教導寮の放課後に内工座の工房を訪れた。玄外の作業台の隅に置いてあった半透明の法石を手に取り、法力を通しながら凸面状に磨こうとした。光を集めるためだった。暗箱の穴よりもっと多くの光を取り込めれば、像はもっと鮮明になるはずだった。


 法石が割れた。


 法力を通した瞬間、石の内部に亀裂が走り、掌の中で二つに砕けた。法力の負荷に耐えられなかったのだ。素材が違う。


 「坊、その石じゃ持たねぇよ」


 玄外が背中越しに言った。振り返りもしなかった。


 しばらくして、作業台の端に見慣れない石が置かれていた。暗い琥珀色を帯びた半透明の法石。法力の伝導性が高い上質な素材。さっきまでそこにはなかった。


 朔は何も言わず、その石を手に取った。法力を通した。割れなかった。ゆっくりと凸面に磨き上げ、暗箱の穴に嵌めた。


 像が鮮明になった。


 庭の木の幹の筋まで見えた。枝の先に止まった鳥の影が、黒い点として和紙の上に映っていた。


 けれど和紙を外せば——やはり消えた。


 次の日。朔は暗箱の前に座り、燭明術を指先に集めた。和紙に向けて光を当てた。光で紙に像を焼き付けられないか。


 紙が焦げた。


 薄い煙が上がって、和紙の表面に黒い焦げ跡だけが残った。像ではなかった。ただの焦げだった。光の情報を焼き付けることと、物を焦がすことは違う。


 朔は焦げた和紙を畳んで、掌に載せた。


 光で描くことはできる。凸面の石で光を集めて像を結ぶことはできる。でも、光を受け止める器がない。光に触れただけで色を変える紙——そんなものは、朔の持つ術式では作れない。物質の性質そのものを変える技術が要る。


 一人では、ここが限界だった。


---


 工房に入った。


 玄外は炉の前にいた。鋳型を火にかけながら、もう片方の手で素材の帳面に何かを書き込んでいた。朔が暗箱を抱えて入ってきたのを見て、帳面から一瞬だけ目を上げた。


 「玄外さん」


 朔は暗箱を作業台に置いた。筒型に磨いた法石の凸面を嵌めた木の箱。和紙の代わりに薄い半紙を貼ってある。


 「これを、見てもらえますか」


 玄外は帳面を閉じた。立ち上がり、暗箱のそばまで来た。朔が箱の穴を工房の入口に向けた。


 「覗いてください。この面に映っています」


 玄外が半紙の面に目を近づけた。


 小さな像が映っていた。工房の入口の景色が——逆さまに、左右反転して、薄い光の中に揺れていた。外に立てかけてある竹の棒、石壁の角、壁の向こうの木の梢。像はぼんやりとしていたが、形は読み取れた。


 玄外は黙っていた。


 長い沈黙だった。朔は待った。玄外がもう一度箱を覗き込んだ。目を細めて。像を見ている目つきが、素材の特性を見極めるときのそれだった。


 「……坊が作りたいのは、景色を閉じ込める器か」


 声が低かった。問いかけではなかった。確認だった。


 「はい」


 朔が答えた。


 「光に反応して変色する紙があれば、像を定着できると思います。でも僕には、そういう紙を作る術がない」


 「……それは物質の性質を変える工程だ」


 玄外が即座に言った。暗箱から目を離さないまま。朔の言葉の核心を、一息で掴んだ。


 朔は何も頼まなかった。これまで、一度も。玄外は素材を黙って置いた。朔はそれを手がかりに自力で試した。この三年間、そういう距離だった。朔がこの工房に「作りたいもの」を持ち込んだのは、今日が初めてだった。


 玄外は暗箱をもう一度覗いた。箱の中の小さな逆さまの景色を、じっと見ていた。工房の戸口の先にある石壁と、その向こうの木。些細な、ありふれた風景だった。


 玄外が暗箱から離れた。炉の方を振り返り、火の具合を見た。帳面を手に取りかけて、また置いた。


 「……俺がやろう」


 そう言った。


 朔の目が一瞬見開いた。


 玄外は何も付け加えなかった。炉の前に戻って、鋳型の位置を直した。「俺がやろう」はそれ以上の説明も意図もなく、ただ——三年間の距離が、静かに、一歩だけ縮まった響きだった。


---


 共同開発が始まった。


 最初の日。玄外が炉の横に和紙を並べた。掌大の白い紙が十枚。玄外の手から地錬術の法力が和紙の繊維に浸透していく。紙の組成を変える。光に触れたとき、繊維そのものが反応して色を変えるように。


 朔は暗箱の前に座り、燭明術で光の波長を制御した。凸面の石から入った光を和紙に当てる。長く、弱く、均一に。


 和紙が黒く染まった。——一面が均等に。像にはならなかった。濃淡の差がない。


 「感度が高すぎる」


 朔が呟いた。玄外は何も言わず、次の紙を準備した。


 二枚目。玄外が地錬術の配合を変え、感光の範囲を絞った。朔が燭明術の波長を調整した。


 和紙の一部に、かすかに像が映った。工房の戸口の輪郭がぼんやりと——。けれど数秒で像の周囲が黒く侵食し、全体が闇に沈んだ。光に過敏すぎる。


 「……近い。けれどまだ止められない」


 三枚目。朔が燭明術の出力をさらに絞った。光を細く、長く、紙に染み込ませるように当てた。


 像が映った。ぼんやりと。工房の入口の石壁のかたち。戸口の縦線。その向こうの空の白さ。形がある。読み取れる。朔の心臓が跳ねた——。


 紙を箱から取り出した。


 像が崩れた。取り出した瞬間、外の光にさらされて、紙の表面がゆっくりと暗く沈んでいった。数秒もしないうちに、像は黒い染みの中に消えた。


 四枚目も崩れた。五枚目も。


 配合を変えた。波長を変えた。出力を変えた。どの組み合わせでも——像は映って、取り出すと消えた。


 七枚目が崩れたとき、朔は紙を作業台に並べた。七枚の黒い紙。どれも同じように暗く沈んでいた。


 朔はそれを見ていた。


 玄外は炉の火を調整しながら、横目で朔を見ていた。坊が何回目で手を止めるか。何回目で帰ると言い出すか。


 朔が帳面を開いた。


 七枚のそれぞれについて、玄外が使った地錬術の配合と、朔が使った燭明術の出力と波長と露光時間を書き出した。二枚目と三枚目の差。三枚目と五枚目の差。五枚目で像が映った瞬間に起きていたことの推定。七枚を並べて、それぞれの黒さの濃淡の違いを観察した。


 崩れた紙を一枚拾い上げた。裏を返した。表と裏で黒さが違う。裏のほうが薄い。光が届きにくかった面だ。つまり——変色は光の量に比例する。光の量を制御できれば、像の定着も制御できるはずだった。問題は取り出した後に光にさらされ続けることだ。変色を止める方法がいる。


 「……明日、素材の配合を変えてみます。三枚目の配合を基準にして、感光の速度をもう少し遅くしたい」


 朔が言った。玄外を見た。


 玄外は炉の前に座っていた。片手に火箸を持ったまま、朔を見ていた。坊の目が——折れていなかった。七枚失敗して、全部崩れて、それでも次の手順を淡々と口にしている。指先を赤くして帰った二年次の夏と同じだった。この坊は、折れない。


 玄外が立ち上がった。工房の奥の棚から土瓶を持ってきた。炉の傍に湯呑を二つ並べた。茶を注いだ。


 「茶でも飲め」


 朔に差し出した。


 朔は湯呑を受け取った。両手で包んだ。指先が煤と法石の粉で灰色に汚れていた。茶の温もりが掌に沁みた。


 崩れた感光紙を眺めながら飲んだ。七枚の黒い紙が作業台に並んでいた。どれも像にはならなかった。けれど一枚一枚が、次の手順への手がかりだった。


 湯呑を置いた。


 「玄外さん。明日来てもいいですか」


 玄外は湯呑の茶を一口啜って、炉の火を見た。


 「明日来い」


 朔は頷いた。


---


 工房を出た。


 外は暗くなっていた。西の空に薄い茜がまだ残っていたが、道はもう暮れていた。里の家々に灯りが点き始めていて、遠くに虫の声が聞こえた。


 歩きながら、手のひらを見た。


 煤と法石の粉にまみれた灰色の手だった。爪の間にも細かい粉が入り込んでいる。利き手の指先は少し赤かった。法力を通しすぎた痕だった。


 二年次の夏を思い出した。あのときも、この帰り道で同じように汚れた手を見た。同じ工房。違う挑戦。けれど手は変わらない。


 今日も像は崩れた。七枚とも。けれど三枚目には、一瞬だけ像が映った。工房の入口の輪郭が。それは崩れたけれど——映ったのだ。


 明日がある。


 土御門家に着いた。手を洗い、着替えてから篝の部屋を訪ねた。


 篝が灯りの下で本を開いていた。顔を上げた。


 「おかえり、さくにぃ。今日は遅かったね」


 「うん。ちょっと、寄るところがあって」


 篝が首を傾けた。朔は少し言葉を探した。


 「……新しいものを、作ろうとしてるんだ」


 「新しいもの?」


 「うん。まだ、全然できてないんだけど」


 篝の目が光った。何を作るの、と聞きたそうだった。けれど朔が「まだ全然」と言ったのを受けて、聞かなかった。


 「できたら、見せてくれる?」


 「うん」


 約束だった。像は崩れた。七枚とも崩れた。けれど——できたら、見せる。篝に。


 窓の外に夜の暗さが広がっていた。遠くに総宰司の灯りがまだ見えていた。いつもの灯り。消えない灯り。


 褥に入った。目を閉じた。


 崩れた感光紙のことを考えた。三枚目の配合。あの一瞬の像。変色の速度と光量の関係。取り出した後に光を止める方法——。玄外なら、何か知っているかもしれない。焼き物の釉薬のように、一度変化した後にもう一度処理を加えて固定する工程。地錬術で、感光を止めることはできないだろうか。


 明日、仮説を立てて持ち込もう。玄外は答えをくれない。だから問いではなく、仮説を持っていく。


 七枚の崩れた紙。崩れてはまた。


 けれど崩れるのは紙であって、胸の中にある光ではなかった。


 篝に見せたい景色がある。声で伝えた。頷いてもらえた。けれど声だけでは、景色は渡せなかった。今度は——光を、閉じ込める。


 それがどれだけかかるか分からなかった。けれど玄外が茶を入れてくれた。「明日来い」と言ってくれた。


 今日も像は崩れた。けれど明日がある。


 朔は目を閉じたまま、指先に残った法石の粉の感触をかすかに覚えていた。


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