46話 : 種と根と
酉の刻の鐘が鳴って、教導寮の門を出た。
帰り道の光が変わっていた。一年次も二年次も、この道を歩くのは昼前だった。頭の上に太陽があって、足元の影は短かった。今は違う。傾いた西日が通学路の土を橙に染めて、朔の影は長く後ろに伸びていた。同じ道なのに、空気の色が違う。
前を歩く凌の背中に、夕日が当たっていた。
「じゃあな」
いつもの分かれ道だった。凌が片手を上げて、角を曲がった。振り返らない。朔もそれ以上何も言わなかった。あの冬の庭から始まった関係は、もう別れ際に言葉を重ねる必要がなかった。
その先で善次郎が足を止めた。大きな体が夕日を遮って、道に一瞬だけ影が落ちた。
「また明日」
善次郎はそれだけ言って、歩き出した。背筋がまっすぐで、足取りに迷いがなかった。いつもの声。いつもの間合い。凌とは違う温度だが、同じ確かさがあった。
蓮はもう先に帰っている。今日は浄身院に用があると言っていた。帰り道が一人になるのは、終日登校になってから珍しいことではなくなっていた。
朔は一人で歩いた。
夕暮れの里は静かだった。水を張った田から蛙の声が遠く聞こえていた。道端に紫の小さな花がぽつぽつと咲いていて、名前は知らなかった。篝なら知っているだろうか、と思った。
土御門家の表門が見えてきた。門をくぐると、敷地結界の温度がふわりと変わった。父の法力の匂い——土と石と、どこか懐かしい温もり。いつもの安心感だった。
今は、夕暮れだった。庭の陽だまりはもう翳っていて、篝の部屋の障子に灯が入っていた。
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篝の部屋を覗いた。
障子を少し開けると、篝が枕元の本を閉じて顔を上げた。体調の良い日だった。頬にうっすらと色があって、目に光がある。
「おかえり、さくにぃ。遅かったね」
篝が微笑んだ。嬉しそうだった。それだけのことが、朔の胸にじんわりと沁みた。
「うん。三年次になって、午後も教導寮にいるんだ」
「知ってるよ。お母様が教えてくれた」
篝が体を起こし、敷いた座布団の端を朔に差し出した。朔は入り口に近い側にあぐらをかいた。一年次のとき、ここは朔の指定席だった。午後いっぱい、この場所で本を読んだり、鍛錬の合間に篝と話したりした。
「今日ね、お母様が新しい本を出してきてくれたの。古い術の記録で、ちょっとだけ難しいんだけど、面白い」
篝が覚えたばかりの内容を語り始めた。目が輝いていた。右手で頁を繰る仕草まで再現して、嬉しそうに朔に向けた。
朔は聞いていた。頷きながら、篝の声を拾っていた。けれど——気づいていた。話す時間が足りなかった。以前は午後いっぱいこの部屋にいられた。篝が本を開き、朔が鍛錬をし、声が途切れても灯が消えるまで一緒だった。
今は帰宅してから夕餉までの、短い間だけだった。
母の声がした。
「夕餉だよ」
渡廊下の向こうから、瑞の穏やかな声が差し込んできた。朔が立ち上がりかけると、篝も「行こう」と寝衣の裾を直して立った。
広間に向かう渡廊下を並んで歩いた。篝の足取りは今日は安定していた。小さな足が板の間を踏む音が、とん、とん、と規則正しく響いた。朔はその隣を歩きながら、もう少し話していたかった、とだけ思った。
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また別の日だった。
帰宅すると、篝の部屋に灯りがなかった。
渡廊下に出ると、裏庭の方から瑞が歩いてきた。薬草の入った布袋を腕に抱えていた。髪が少し乱れていて、朝から篝についていたのだと分かった。
「今日はちょっとね。朝から横になっているの。さっき少し楽になって眠ったところだから、起こさないであげて」
瑞がそっと言った。いつもの穏やかな声だった。けれど目元に疲労の翳りがあった。
朔は頷いた。
篝の部屋の障子の前に立った。中は暗かった。聞き耳を立てると、かすかに篝の寝息が聞こえた。規則正しい呼吸だった。深く眠っている。
覗かなかった。
一年次なら、朝から一緒にいた。篝が眠っている間は隣で法力を練り、目を覚ましたらすぐに水を差し出せた。「さくにぃ、いたの」と篝が笑う声を聞けた。
今日は、帰宅してから知った。
朔は障子の前を離れ、自室に戻った。鍛錬道具を棚から出して、きちんと並べた。指先に法力を集め、錬器術の反復訓練を始めようとした。けれど手が止まった。
窓から夕暮れの光が入っていた。
朔はそれ以上考えず、指先に法力を戻した。金属の端材を手のひらに載せ、法力の流し方を微調整する作業に意識を沈めた。淡々と。繰り返す。考える前に、手を動かす。
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また別の日だった。
教導寮が引けて、夕暮れの里を一人で歩いていた。凌と善次郎は先に別れた。蓮も今日は途中で立ち止まって「ちょっと寄るところがあるの」と手を振った。
内工座のそばを通った。
玄外の工房の窓から、赤い光が漏れていた。鍛冶の火の色だった。金属を叩く音がかすかに聞こえた。規則正しく、淡々と。玄外が何かを打っているのだろう。
以前なら、立ち寄れた。午後の空き時間に工房に顔を出し、壊れた道具を預け、玄外が黙って置いていく素材の違いを自力で見つけようとした。指先が赤くなるまで試して、「もう帰れ。明日また来い」と短く言われた。
今は酉の刻に教導寮を出て、まっすぐ帰るだけの時間しかなかった。工房の前を通り過ぎた。金属を叩く音が背中の方に遠ざかった。
足がふと止まった。
視線の先に、総宰司の棟が見えていた。里の中心にあるその建物の上階に、灯りが点いていた。夕暮れなのに、もう灯りが入っている。
——以前、父と結界の際を歩いた帰り道にも、この灯りを見た。そのとき父は立ち止まって、小さく息を吐いただけだった。何も言わなかった。朔はその仕草を覚えていた。父の息の深さと、灯りの色と。けれどそれ以上は何も考えなかった。灯りはいつもそこにあった。遅くまで誰かが働いているのだろう、とだけ思った。
歩き出した。
土御門家の門をくぐった。敷地結界の温もりに迎えられた。渡廊下を歩いて篝の部屋の前まで来ると——声が聞こえた。
蓮の声だった。
障子の向こうから、蓮の明るい声が漏れていた。早口で、語尾が跳ねている。教導寮で聞く声と同じだった。蓮が篝に何かを話していた。
「——でね、黄色い小さい花なの。群れて咲いててね、でもまだ名前わかんなくて」
「黄色い花? 蓮ねぇが見たの?」
篝の声が弾んでいた。体調の良い日だった。笑い声が混じっていた。
朔は立ち止まった。
帰宅して初めて知った。蓮が来ていたことを。篝が笑っていたことを。
声をかけようか、と思った。
けれど——かけなかった。篝と蓮の時間を邪魔したくなかった、のかもしれない。それだけではなかった。今の自分が入っていく「枠」がないように感じた。蓮と篝の会話は、朔がいなくても成り立っていた。それは良いことだった。篝の世界が広がっている証だった。
蓮が来てくれていることが、ありがたかった。
朔は声をかけず、自室に向かった。道具を棚に戻し、法力の練り直しを始めた。渡廊下の向こうから蓮の笑い声がかすかに聞こえていた。
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蓮が帰った後だった。
夕餉を終えて、朔が篝の部屋を訪れた。篝は起きていた。枕元に灯が残っていて、押し花帖を膝に載せたまま、開いた頁をぼんやりと眺めていた。
「蓮ねぇが来てくれたよ」
篝が顔を上げて言った。嬉しそうだった。
「外の花の話してくれたの。黄色い小さい花があるんだって。群れて咲くんだって。名前はまだわからないって言ってた」
「そうなんだ。今度蓮に聞いてみるよ」
朔は入り口のそばに座った。篝の顔色は良かった。今日は良い日だったのだろう。蓮が来て話を聞けたことも、きっと良かった。
篝が押し花帖を閉じて、朔の方に体を向けた。少し黙った。
「……ねえ、さくにぃ。教導寮、楽しい?」
朔は少し考えた。
「うん。善次郎と凌と蓮と、一緒にいる」
篝が微笑んだ。
「よかった」
嘘ではなかった。本当に嬉しそうだった。目に光があって、声が弾んでいた。けれどその笑顔の裏に何があるか、朔は知っていた。篝は嬉しいと思っている。朔が友だちと過ごせていることを、心から喜んでいる。けれど同時に——篝はその時間に同席していない。朔の世界は広がっていて、篝はその世界を「聞く」ことしかできない。
朔が部屋を出ようとしたとき、篝が呼び止めた。
「さくにぃ」
振り返った。篝が座布団の上に座り直していた。膝の上の押し花帖の端を両手で持って、少し首を傾けていた。
「……教導寮の木、大きい? 大楠って言ってたよね」
朔は頷いた。
「うん。すごく大きい。根が地面から出てて、そこに座れるくらい」
篝の目がわずかに大きくなった。
「いいなぁ。……根っこが見えるんだ」
その声に、懐かしい響きがあった。蓮の外の話を聞いたときと同じ声。花を持ち帰った春に大楠のことを話したときの「いいなぁ」と、同じ声。篝のこの声は、ただの羨望ではなかった。純粋な関心と、ほんの少しの寂しさと、それでも手を伸ばそうとする好奇心が混じっていた。
朔は少し考えて、答えた。
「今度、もっと詳しく話すよ。大楠の下がどんな風か」
篝が頷いた。
「うん。待ってる」
朔は障子を閉めた。
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渡廊下を歩いた。足元の板が軋んだ。夜の空気が冷たくなり始めていた。初夏に差し掛かっているのに、夜はまだ肌寒い。
窓の外に目をやった。
遠くに、総宰司の棟の灯りがまだ見えていた。
朔は立ち止まった。夕方にも見た灯りだった。日が暮れて里が暗くなっても、あの灯りはまだ点いている。
小さく息を吐いた。
父と同じ仕草だった。けれど意味は違う。父がこの灯りに何を思ったのか、朔にはまだわからない。朔の息には、別のものが混じっていた。
——篝にもっと話したかった。大楠の下がどんな風か。根がどれだけ太く地面を掴んでいるか。そこに座ると木漏れ日が肩に落ちること。凌が隣にいること。善次郎が少し離れた場所に立っていること。蓮が水を持ってきてくれること。鳴弦が低い枝に降りてくること。
言葉では足りなかった。
どれだけ丁寧に話しても、篝は頷いてくれる。「いいなぁ」と言ってくれる。けれど篝の目には、大楠の根も、木漏れ日も、映らない。朔の声だけが届いて、景色は届かない。
花を持ち帰った春があった。花さえあれば、と思った。けれど花のない春もあった。言葉があれば、と思った。けれど言葉では——。
朔は息を止め、それ以上考えるのをやめた。
渡廊下の先に自室の戸が見えていた。明日も卯の刻に起きて、教導寮に行く。未の刻に体術があり、申の刻に術式実技がある。酉の刻に帰る。帰ったとき篝が起きていたら話をする。眠っていたら、障子の前で足を止めるだけだ。
それが今の日常だった。
遠くの灯りは消えなかった。朔は窓から目を戻し、自室に向かった。戸を開けて、灯を入れて、棚から鍛錬道具を出した。指先に法力を集めた。
大楠の根は太く、深く、地面に食い込んでいた。あの木は何十年もあの場所にあって、どこにも行かない。
篝との根は——。
指先に法力が灯った。微かな光が、暗い部屋の中で朔の手元だけを照らした。
明日のことを考えた。明日は鍛錬場当番の日で、善次郎と焔壇の地均しをする予定だった。凌は武術場で自主練をしているだろう。蓮は水鏡池の落ち葉掬いだと言っていた。
大楠の下に四人が集まるとき、篝がそこにいたらどんな顔をするだろう、と思った。
その想像を、朔は言葉にしなかった。




