45話 : 薄鼠と琥珀
班ごとの組託定が順に行われ、数週間が経っていた。
朔の班が最初で、三番班が最後だった。全部で八班。順番に大広間の奥で結縁紐を受け取り、互いの名を呼び合う儀があった。すべての班が終わる日を、教導寮は静かに待っていた。
その日は鍛錬場当番の日だった。朔は焔壇の点検を終えて道具を戻しに向かう途中、大広間の前を通りかかった。
扉が少しだけ開いていた。
中から日下部の低い声が聞こえた。
「——三番班。結縁紐を授ける」
朔は足を止めた。覗くつもりはなかった。けれど扉の隙間から、見えてしまった。
四人が並んでいた。
一番手前にいたのは千早だった。背筋がまっすぐ伸びている。きびきびとした立ち姿で、顔つきは凛と引き締まっていた。腰に手を当てているのは千早の癖で、今日だけは片手を下ろし、きちんと揃えていた。
梶がその隣に立っていた。少し肩を張って、背筋を伸ばしている。照れたように視線が泳いでいたが、唇を引き結んで何とか格好をつけようとしていた。
いつきが穏やかに立っていた。いつきの目が千早と梶を順に見て、それから手前に視線を戻した。微かに口角が上がっている。
そして——郁がいた。
結縁紐を受け取った手が、震えていた。薄鼠と琥珀の二色。紫の結び目。朔の班の「種火」が暗がりに灯る火の力強さなら、三番班の紐は違った。朝靄のなかにかすかに浮かぶ琥珀色——控えめで、けれど温かい。
朔は気づいた。琥珀の色が、鳴弦の瞳と同じだった。
郁が結縁紐を左の手首に巻いた。指先が震えていた。巻き終えたとき、郁の肩で丸くなっていた鳴弦が小さく鳴いた。キィ。細い声だった。
郁の口角がわずかに上がった。
——仲間がいることの、目に見える証。
朔は声をかけなかった。扉の隙間から見ただけで、静かにその場を離れた。あの瞬間は、班だけのものだから。
自分の班の組託定の日を思い出した。善次郎が——初めて「朔」と呼んだ、あの間。あの瞬間にしか流れない空気がある。どの班にも、それがあるのだと知った。
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数日後。
3年次前期の班別合同訓練の日だった。一番班と三番班が苗圃から焔壇にかけての広い区画で索敵訓練を行う。
日下部が白木の標的——法力で微かに光る小型の木札を五行修練庭の各所に隠した。制限時間内にできるだけ多く見つけ出す。班ごとの発見数を競い、索敵の精度と速度を鍛える訓練だった。
砂時計が裏返された。
朔は焔壇の壁際で立ち止まった。指先に法力を集め、燭明術の「点焦」で微かな法力の残留を感知しようとした。地上の視線からは死角が多い。壁の裏、焔壇の庇の下、鉄砧場との隙間——いくつかの光なら拾える。けれど壁の影に沈んだ光は、術者の目線からでは届かなかった。
「右の壁裏にもう一枚……いや、影になっている。見えない」
朔が呟いた。
「朔! 左、空いてるぞ!」
凌がすでに走り出していた。朔の声に反応して方向を変え、焔壇の左側に回り込んでいく。善次郎が中央で動かず、左右に目を配っている。蓮が凌と朔の間を走りながら声を渡していた。
「善次郎くん、左は空いてる!」
善次郎が短く頷いて、持ち場を一歩ずらした。
声が繋がっている。朔が見て伝え、凌が動き、蓮が走って声で中継し、善次郎が位置を調整する。あの最初の札取り訓練から数週間——同じ構造の反復が、少しずつ滑らかになっていた。声の数が減っていた。言葉の代わりに、視線のやりとりで動けることが増えた。
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三番班は別の方角から索敵を進めていた。
千早が地面に手を当てたいつきの隣で、低い声で指示を出していた。いつきが振動を感知し、地中の法力の残留を探る。梶が火行の感知を試みていたが、的を射ない。
「梶、そっちじゃない。もっと右」
千早の声が飛んだ。梶が「わかってる、わかってるって」と言いながら慌てて方向を変える。
郁は少し離れた場所に立っていた。右手を軽く上げて、鳴弦を空へ送り出した。灰銀色の翼が光の中に広がり、鳴弦が上昇していく。郁の視界と鳴弦の視界が繋がった。
——上空から見る修練庭は、地上とはまるで違っていた。
焔壇の壁が影を落とす方角、壁の裏に隠された木札の法力が、上からなら微かに光って見える。苗圃の藪の奥にも光点が二つ。地上から見えない場所に、光は確かにあった。
「……北の苗圃の裏に二枚。焔壇の壁の裏に一枚」
郁が声を出した。声は小さかった。千早が二十歩先で振り返った。
「聞こえない! もう一回!」
郁が体を縮めた。もう一度口を開いた。声が少し大きくなった。けれどまだ足りなかった。いつきが郁のそばに膝をついた。
「苗圃の裏に二枚、焔壇の壁裏に一枚。——千早さん、そう言ってます」
いつきが大きな声で伝え直した。千早が「よし、行くよ!」と指示を飛ばし、三番班が動いた。
郁の情報は正しかった。焔壇の壁の裏の一枚は、三番班が一番に辿り着いた。
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訓練後。全員が砂場の中央に集合した。
日下部が両班の成績を読み上げた。総発見数では一番班がやや上回っていた。けれど焔壇の壁裏の札だけは、三番班の方が早かった。
解散の前に、朔は郁の方に歩いた。
郁は鳴弦を肩に戻したところだった。鳴弦が朔の姿を認めて翼を広げかけたが、郁が「鳴弦、戻っておいで」と小さく呼んだ。鳴弦は翼をたたんで、郁の肩に留まった。
——以前、鳴弦が朔の肩に止まったときは、郁は引き戻さなかった。今は違う。三番班の訓練中だから。郁は鳴弦と共に、自分の班のなかにいようとしているように見えた。
朔が口を開いた。
「郁。焔壇の壁の裏の札——僕は地上から燭明術で探ったけど、壁の影になっていて見えなかった。上からだと見えたんだね」
郁が少し驚いた顔をした。
「……うん。鳴弦が真上から見たから……壁の影が消えて」
朔は頷いた。
「燭明術は術者の目線からの探索だから、遮蔽物の裏は原理的に感知できない。でも鳴弦は違う角度から見ている。——面白い視点だね」
面白い。それは朔の語彙で、最も強い賛辞の一つだった。称賛ではなく分析だった。自分の術式の原理的な限界と、郁の鳴弦偵察がその限界をちょうど補完する事実に対する、知的な関心。
郁は少しの間、何も言えなかった。朔の顔を見ていた。朔はいつもそうだ。嘘を言わない。だから——
「……ありがとう」
小さな声だった。
鳴弦がまた身じろぎしたが、郁の視線を受けて、すぐにおとなしくなった。
遠くから千早の声が飛んだ。
「郁! 次の巡回、いくよ!」
郁が「はい」と答えて駆けていった。鳴弦がその背中を追いかけるように飛び立ち、肩に止まった。二つの影が夕日の射す道に小さくなっていった。
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大楠の下だった。
凌は自主練を続けに武術場に残り、善次郎と蓮は先に帰った。朔は一人で根の間に座っていた。日が傾きかけて、大楠の枝が長い影を地面に落とし始めていた。
鳴弦が先にやってきた。灰銀色の翼が音もなく降りてきて、大楠の低い枝に止まった。小さく首を傾げた。
郁がおずおずと近づいてきた。朔の姿を見て、一瞬立ち止まった。
「座る?」
朔が声をかけた。郁はかつてのように少し離れた場所に腰を下ろした。初めてこの場所に来たときの距離。けれど焔壇に並んで座ったときよりは近かった。
しばらく黙った。夕風が大楠の梢を揺らし、木漏れ日の残滓が二人の間の地面に散った。
郁が口を開いた。
「……今日の訓練、朔くんの班、すごかった」
朔が顔を向けた。郁は大楠の幹を見上げていた。
「朔くんが声を出したら、凌くんも蓮さんも善次郎くんも……誰も迷わないで動いてた。……あんな風に、声一つで班が全部動くの、すごいな」
——すごいな。郁の口癖だった。朔を見るたびに零れる言葉だった。けれど今日の「すごい」は重みが違った。
朔は首を振った。
「まだ全然できていないよ。今日も二枚見逃した」
郁が少し黙ってから、手首の結縁紐に触れた。薄鼠と琥珀が、暮れかけの光に浮かんでいた。
「……でも、声で動いてた。僕の班は、まだ……千早さんの声に僕がついていくだけで」
朔が答えた。
「郁の報告は正確だった。声の大きさは、練習でどうにでもなる。中身が正確な方が難しい」
朔にとっては事実を述べただけだった。声量は反復訓練で改善できる定量的な問題であり、索敵情報の精度は鳴弦との連携と郁の観察眼に依存する定性的な問題だった。後者の方が難度が高い。——それだけのことだった。
郁は何も言わなかった。手首をそっと撫でた。
鳴弦が枝から降りてきた。郁と朔の間の地面に、軽く着地した。小さく首を傾げて、二人を見上げた。
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夜。
郁の自宅の部屋だった。灯が消えた部屋に、庭の月光がかすかに射し込んでいた。鳴弦が枕元で丸くなっていた。羽に顔をうずめて、もう寝息を立てていた。
郁はまだ目を開けていた。天井を見つめていた。
左の手首に、結縁紐が巻かれていた。薄鼠と琥珀。暗い部屋の中で、法力を帯びた端材糸の微かな光沢がほのかに浮かんでいた。控えめな灰色に、一筋の琥珀。鳴弦の瞳を思わせた。
今日の訓練を思い返した。
——千早さんは怒っていたけれど、帰り道に「今日の報告は使えた」と言ってくれた。いつきは僕の言葉を拾って声にしてくれた。梶くんは的外れな火行感知に文句を言いながらも、最後まで付き合ってくれた。三人とも、やり方は違うけれど、僕をちゃんと見ていてくれる。
——朔くんは「面白い視点だね」って言ってくれた。嘘を言わない人だ。だから、嬉しかった。
郁は手首に触れた。
——千早さんと、いつきと、梶くんと。この紐が繋いでいる。僕はこの班で、「目」として……何かができるかもしれない。
——でも。
鳴弦の寝息が聞こえた。郁は目を閉じなかった。
——朔くんの班を、今日、鳴弦の目で見た。声がぜんぶ繋がっていた。
——僕の班は、まだだった。千早さんの声に僕がついていくだけだ。僕の声は、まだ届かない。いつきが拾ってくれるから成り立っている。いつきがいなかったら、僕の情報は誰にも届かなかった。
——結縁紐がある。仲間がいる。「面白い」と言ってもらえた。でも——
郁は天井を見つめた。月光が少しだけ移っていた。唇が動いた。
「……僕が、ここにいていいのかな」
声は部屋から出なかった。鳴弦以外の誰にも聞こえなかった。
鳴弦が薄目を開けた。枕元から這い寄るように動いて、郁の手の甲のそばまで体を寄せた。小さな頭を、郁の手の甲にすり寄せた。
言葉はなかった。鳴弦には言葉がなかった。けれど——伝わっていた。
——ここにいていい。お前はここにいていい。
郁はようやく目を閉じた。左の手首の薄鼠と琥珀が、暗がりの中でかすかに鈍く光っていた。
月光が部屋を渡る間、鳴弦はずっと郁の手の甲に頭を寄せたまま、動かなかった。




