44話 : 最初の一手
翌朝の通学路は、昨日と同じ並びだった。
道すがら合流した四人が門へ向かう。朝霧がまだ残る里の道に、薄い光が差していた。屋根の庇から雫が落ちて、道の窪みに小さな水たまりを作っている。春の朝の匂いがした。
凌がいつもより半歩遅い。昨日からそうだった。四人の足音が、一つの塊のように揃って響いていた。
誰も昨日のことを口にしなかった。一枚も取れなかった札のことも、日下部の声も、武術場の砂埃の感触も——喉元までは来ていた。けれど出さなかった。今日また、あの場所に立つのだから。
門をくぐった。大楠の根が石段の際まで伸びている。朝露を受けた青い花が、枝の先で微かに揺れていた。
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武術場に日下部と助手の二人がすでに立っていた。
昨日と同じ構図だった。助手二人は防具をつけ、棒を手に携えている。六年次の背丈が光に影を落としていた。
日下部が四人を見て、短く言った。
「座ってくれ」
四人が地面に腰を下ろした。日下部がしゃがんで、四人と目の高さを合わせた。左膝の布を地面に押しつけるとき、かすかに顔をしかめた。古い負傷の痛みは消えない。
「やる前に聞く。——昨日、何が足りなかった」
沈黙が落ちた。朔は三人を見た。凌が一番に口を開いた。
「……一人で突っ込んだ」
善次郎が続いた。
「……横を通された」
蓮が膝の上で手を握った。
「……止まってた」
朔は息を吸った。
「……見えていたのに、声を出さなかった」
日下部は四人の言葉を聞いて、ゆっくり頷いた。立ち上がった。
「わかってるなら、今日やることは一つだ。——声を出せ。走る前に、声を出せ」
それだけだった。昨日の長い講評はなかった。四役の説明も、誰が何を間違ったかもう一度言い直すこともなかった。声を出せ。たった一つ。
日下部が助手二人を振り返った。
「始めるぞ」
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砂時計が裏返された。
白い砂が落ち始めた。同じ決まり。日下部と助手二人の腰の札を奪え。砂が落ちきるまでに。
——一回目。
昨日と同じだった。凌は止まろうとしたが、体が先に出た。日下部に半歩躱され、棒が背に触れた。朔は声を出そうとしたが、喉が動いたときには凌がもう組み付いた後だった。善次郎は横に意識を広げようとして目の前の受けが散り、蓮は焦って助手の間合いに踏み込んでしまった。
砂時計が落ちきった。札は零だった。
「もう一回」
日下部は短くそう言った。
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——二回目。
砂時計が裏返された。砂が流れ始めた瞬間、朔は声を出した。
「凌、待って!」
凌が振り返った。
「え?」
——その隙に、日下部の棒が凌の肩を叩いた。
「死んだぞ」
凌が「くそ」と呟いた。声は来た。来たが、間が合わなかった。凌は朔の声に反応して振り向いてしまい、日下部の前で隙を見せた。
善次郎は視野を広く保つことに意識を割いた。一回目は意識が散って目の前を受け損なった。今度は右の助手の動きを見ながら左の気配にも注意を——しかし二つの方向に注意を割ろうとした善次郎の受けは両方とも中途半端になった。目の前の助手の棒が肩を擦った。
蓮は善次郎の横に回ろうとした。善次郎を助けたかった。けれど走る先に助手が立ちはだかり、蓮は体を引いた。棒が蓮の前腕を掠めた。
砂が落ちきった。また零だった。
日下部が凌を見た。
「声は出た。あとは間だけだ」
短い言葉だった。けれどその一言に、朔は気づいた。声が出たこと自体を、日下部は否定しなかった。——出した。出したのに、噛み合わなかった。それだけだ。
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三回目の前だった。
日下部が砂時計を持ち上げた。
「最後だ」
四人が立ち上がった。凌が拳を握った。善次郎が足を広げて構えた。蓮が唇を引き結んだ。
朔は、昨日の帰り道の蓮の声を思い出していた。
——「朔くんの声があったら動ける気がする」。
あのとき、「僕が、言う」と答えた。——でも二回目は噛み合わなかった。まだ動いていない凌に「待って」と叫んだから、凌は意味が分からず振り返った。
動く前ではない。動いた瞬間に止める。
朔は息を吸った。
砂時計が裏返された。
白い砂が落ち始めた。
凌が日下部に向かおうとした。右足が前に出た。拳が握られた。体が沈んだ。——その瞬間。
「凌、行くな!」
朔の声が武術場の空気を裂いた。
凌の体が止まった。
二回目とは違った。二回目は「え?」と振り返った。三回目は——振り返らなかった。体が前に出ようとする力を、内側から止めたのだろう。歯を食いしばって、半歩引いた。拳は握ったままだった。顔が赤かった。全身が「行きたい」と叫んでいた。——それでも止まった。
朔の声だけで。
朔は凌の後方から次の声を出した。盤面を見極めていた。助手が動いた。右の助手が善次郎の方へ来る。左の助手は蓮の方に。
「善次郎、右の助手! 蓮、善次郎の後ろから左へ!」
善次郎が動いた。右の助手の前に立ちはだかった。両腕を広げ、棒を受けた。体が揺れない。——昨日と同じ壁。けれど今日は違った。蓮が後ろを走り抜けていく足音が響いた。善次郎の体がわずかに広がった。昨日は目の前だけを守る柱だった。今日は——後ろに走る足音を聞いて、壁になったのだろう。
蓮が善次郎の背中の後ろから左へ飛び出した。
右の助手は善次郎に塞がれている。左の助手が蓮に気づいた。蓮が真っ直ぐ走ってくる。助手が棒を構え直した。体勢を蓮の方に向ける。——蓮が迫る。助手が棒を振り上げた。
蓮が急に足を止めた。
「善次郎くん、左から来てる! 凌、今!」
蓮の声が武術場に響いた。蓮がやったのは二つだった。一つは走ることで左の助手の体勢と意識を自分に引きつけたこと。もう一つは声で善次郎と凌の両方に情報を渡したこと。
善次郎は蓮の声で左を意識した。右の助手を押さえたまま、体の角度を変えた。棒を抱えた両腕の位置をわずかにずらし、左からの侵入を阻むように体を広げた。昨日は目の前しか見えなかった。今日は蓮の声が耳に入った。それだけで善次郎の壁は、一人を止める柱から、後ろの全員を覆う壁になった。
凌は止まったままだった。朔の声で踏みとどまり、歯を食いしばっていた。——蓮の「凌、今!」が耳に届いた。
凌の体が弾けた。
蓮に引きつけられて体勢を崩した左の助手の横を、凌がすり抜けた。腰元に手が伸びた。指先が白い布札に触れた。引いた。
——札が一枚、凌の手にあった。
凌が駆け抜けた勢いのまま砂を蹴って止まった。振り返った。手の中に白い布札が握られていた。
日下部の声が響いた。
「——止め」
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日下部が凌の手の札を見た。
「一枚だ。昨日は零だった。——何が変わった」
朝と同じ問いの形をしていた。「何が足りなかった」が「何が変わった」になっていた。沈黙が落ちた。
凌が朔を見た。
「朔が、声を出した」
朔が凌を見た。
「……凌が、止まってくれた」
蓮が善次郎を見た。
「善次郎くんが、あたしを守ってくれたから……あたし、走れた」
善次郎が短く言った。
「……蓮の声が、聞こえた」
四人の言葉が輪のように繋がった。朔が声を出して凌が止まった。善次郎が壁になった。蓮が善次郎の後ろから走って、声で善次郎と凌を繋いだ。——誰か一人が欠けていたら、あの札は取れなかった。
日下部は何も言わなかった。頷いた。そして——
「……明日もやるぞ。次は二枚だ」
わずかに口角が上がっていた。四人はそれを見逃した。
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武術場を出た。
春の光が高い位置から武術場の土を照らしていた。四人は大楠の方へ歩いた。
大楠の根の間に座った。いつもの場所だった。班になってから、ここが四人の場所になった。根が作る段差に背を預けて、それぞれの体を伸ばした。
凌が笑った。
「お前の声、でけぇな。びっくりした」
朔はかすかに目を瞬いた。
「……自分でも驚いた」
あの瞬間、腹の底から出た声だった。自分にあんな声が出ることを知らなかった。喉が今も少し痛かった。
蓮が身を乗り出した。
「あはは、凌が止まった顔、すっごい面白かった! こーんな顔してた!」
蓮が凌の渋面を真似て見せた。歯を食いしばり、額に皺を寄せ、両手を体の前で握り締める。——似ていなかった。似ていなかったが、蓮の翡翠色の目が笑っていて、凌が「似てねぇだろ」と返す声にも棘がなかった。
善次郎は根に背を預けたまま黙っていた。口角がかすかに上がった。善次郎にとってはそれが精一杯の笑みだった。
蓮がふと声を落とした。
「ねえ。今日の、あたしにもできたでしょ。走っただけだけど」
朔は蓮を見た。蓮は大楠の幹を見上げていた。枝の間から春の光が漏れて、蓮の黒髪の上に小さな日だまりを作っていた。
「蓮が走ってくれなかったら、左の助手は体勢を崩さなかった。蓮が声を出してくれなかったら、善次郎は左に気づけなかった。蓮がいなかったら、取れなかった」
蓮が朔の方を向いた。目が少し潤んでいたが——泣いてはいなかった。
「……えへへ」
蓮が笑った。小さく、でも陽の光みたいに明るく。
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凌が立ち上がった。
「明日は二枚だ」
善次郎が頷いた。
「わかっている」
蓮が拳を握った。
「任せて!」
朔は一拍遅れた。三人を見渡した。凌の拳はもう白くなかった。善次郎の手は膝の上に穏やかに置かれていた。蓮の目が光を含んで笑っていた。
「——うん」
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帰り道だった。
並びはいつもと同じだった。凌の歩幅は変わらず、仲間を待つ半歩遅い歩調だった。
善次郎の分かれ道がきた。善次郎が足を止めた。
「また明日」
昨日より少しだけ高い声だった。善次郎はそれ以上何も言わずに分かれ道を行った。
凌の分かれ道。凌が振り返った。
「じゃあな。——明日も止めんなよ」
朔は一瞬、何のことかと思った。凌の赤銅色の目が笑っていた。止めるな——「行くな」と止めるな、ではなかった。「声を出してくれ」だった。凌なりの言い方で。
「……うん」
凌が鼻で笑って、北西の小路に曲がって消えた。
蓮が手を振った。
「明日もがんばろうね、朔くん!」
昨日の静かな声とは違った。蓮の声に、いつもの明るさが少し戻っていた。
東の小路に走っていく蓮の背中を見送った。結んだ黒髪が揺れて、春の光の中に溶けていった。
一人になった。
通学路を歩いた。まだ日が高い。日下部が途中で訓練を止めたから、普段より帰りが早かった。
手首の結縁紐を見た。墨色と橙。あの日は夕日に透けて空と同じ色になった。昨日は夕闇に沈んで、墨色が暗さに溶けた。——今日は違った。まだ日の残る空の下で、橙が鈍く光っていた。沈んではいなかった。暮れてもいなかった。日の光を受けて、ささやかに——灯っていた。
種火。
組託定の日に授かった名を、胸の中で呟いた。
まだ風に揺れている。昨日は、囲う手が足りないと思った。足りないものは分かった——声だと。声と耳だと。
今日、初めて四人の手で種火を囲った。まだ指先が触れただけだった。風が吹けば消えるかもしれない。二枚目を取れるかどうかも分からなかった。
でも、囲い方は分かった。
朔が声を出す。凌が止まる。善次郎が守る。蓮が走って、声で繋ぐ。
春の道を歩いた。風が吹いた。結縁紐の橙が光の中で揺れた。
土御門家の屋根が見えた。門の向こうに、篝の部屋の方角がある。今日は篝に何を話そう。こんな嬉しいことは——「たった一枚の札を取れた」としか言えない。でもその一枚が、四人でないと取れなかった一枚で、声を出さなければ取れなかった一枚で、蓮が走らなければ取れなかった一枚で、善次郎が壁でなければ取れなかった一枚で、凌が止まらなければ取れなかった一枚だった。
篝なら、きっと笑ってくれる。「すごいじゃん」と。
足が門をくぐった。
明日は二枚だ。




