43話 : 四つの足りない
武術場の土が、朝の光を浴びて白く乾いていた。
いつもの通学路を四人で歩いてきた。辻で合流し、門をくぐり、大楠の横を通り過ぎる。その一連の流れに淀みがなくなっていた。昼餉の卓も、鍛錬場の当番も、大楠の下で一息つく放課後も——班になって三日目にして、四人の「日常」は滑らかに回り始めていた。
けれど今日は、武術場の空気がいつもと違った。
日下部訓導が武術場の中央に立っていた。その両脇に、見覚えのない二人の上級生がいる。鍛錬着の上から防具をつけ、木製の棒を手に携えている。六年次の組だった。背丈は朔たちより頭ひとつ高い。五年ぶんの鍛錬が肩や腕の厚みに刻まれていた。
日下部が四人を見た。左膝に巻かれた布のうえから地面を踏み直す仕草。膝を壊して前線を退いた元外采使。それでも構えに隙がなかった。腕を組んだまま、朝の光を背に立つその姿は、訓導というより——壁だった。
「今日から模擬戦だ」
日下部の声が武術場の隅まで届いた。
「相手は俺と助手二人。お前ら四人で、俺たちの腰に括りつけた三本の札を奪え」
日下部と助手二人が腰元を見せた。白い布札が腰紐に挟まれている。日下部に一本、助手にそれぞれ一本。
「砂時計の砂が落ちるまでに全部取れたら合格。——ただし、俺たちも殴る」
凌が腕を組んだ。
「三対四か。余裕だろ」
善次郎は無言だった。目が助手二人を捉えている。足元から棒の持ち方まで——重心の置き方、握りの深さ、足の間隔。それだけで相手の力量を測ろうとするのは善次郎の癖だった。わずかに目が細くなった。読み取った結論が、そのまなざしの奥に沈んでいった。
蓮が小さく拳を握った。
「あたしたち四人なんだから、数で勝ってるね!」
朔は日下部の足元を見ていた。左膝の布。古い負傷の痕。朔の視線は日下部の重心から足の開き、棒を取らない腕の位置まで追ったが、崩す糸口が見当たらなかった。
日下部がかすかに口元を歪めた。
「数で勝ってると思うなら、かかってこい」
---
砂時計が裏返された。
白い砂が落ち始めた瞬間、凌が飛び出した。
一直線に日下部に向かった。最も強い相手に正面から当たる——凌らしい選択だった。左足で土を蹴り、右の拳を握り締めて距離を詰める。凌の踏み込みは速かった。同期のなかで最も速い。朔はその背中を見ながら、体より先に思考が走った。凌が日下部に向かえば——
日下部が左に半歩ずれた。
凌の拳が空を切った。その腕が伸びきった瞬間、日下部の棒が凌の肩を軽く叩いた。
「死んだぞ」
乾いた声だった。凌が歯を食いしばり、振り返って再び日下部に向かった。拳の角度を変えた。二打目は下から。日下部は棒をゆるく振って弾いた。三打目は右から。日下部が半歩下がって躱し、棒先で凌の脇腹に触れた。
「二度目だ」
凌の顔が赤くなった。拳をさらに速く振る。日下部はそのたびにわずかに動いて、凌の攻撃をいなし続けた。凌が前に出るたびに、日下部も半歩ずつ後退する。——凌を引きつけている。凌が日下部から離れられなくなっていた。
その間に、助手二人が動いた。
善次郎が反応した。助手の一人が善次郎の方に来た。善次郎は受けの構えで前に出た。棒が振り下ろされ、善次郎が両腕で受け止めた。体が揺れない。壁のように立って、その一人を止めていた。
もう一人の助手が、善次郎の横をすり抜けた。
善次郎は目の前の敵に集中していた。棒を受け、足を踏み直し、押し返す。その動作の隙間に、もう一人が視界の端を通り過ぎた。善次郎の体は動かなかった。目の前を守ることに両手が塞がっていて、横を通る気配に反応できなかった。——善次郎は気づいていないように見えた。
蓮のところに助手が迫った。
蓮は両手を半ば持ち上げていた。癒除術の構え——だがまだ誰も怪我をしていない。法力を込める対象がない。蓮の手が宙で止まっていた。
「どうすればいいの?」
蓮の声が小さく漏れた。目の前に助手の棒が突き出された。蓮は身をかわした。体勢が崩れた。片膝が地面についた。
朔は凌の斜め後方で、全部見ていた。
凌が日下部に釘付けにされていること。善次郎の横を助手が通り抜けたこと。蓮が一人で狙われていること。全部が見えていた。頭の中で状況が像を結んでいた——凌を止めなければ。善次郎に横を知らせなければ。蓮の前に誰かが入らなければ。
喉が動いた。
「凌、離れろ——」
声が出た。出たときには、もう遅かった。
一瞬で距離を詰めた日下部の棒が、朔の足元を払った。視界が傾いだ。背中から地面に落ちた。砂埃が目に入った。
「声が遅い」
日下部の声が真上から降ってきた。朔は仰向けのまま武術場の空を見た。青い空が広がっていた。体が痛いのではなかった。——見えていたのに、声にならなかった。その事実だけが、背中に残る衝撃よりも重く胸にのしかかった。
---
砂時計の砂が落ちきったとき、三本の札はすべて日下部と助手の腰に残っていた。
一枚も取れなかった。
四人が武術場の端に座った。息が荒い。凌の拳は開いたり握ったりを繰り返していた。善次郎は膝の上に手を置いて動かなかった。蓮が打たれた自分の腕をさすっている。朔は足を投げ出して、目の前の砂を見つめていた。
日下部が四人の前にしゃがんだ。
「札、何枚取った?」
凌が低く答えた。
「……零だ」
「四人いて、零だ。俺と助手二人——三人で、お前ら四人を完全に制圧した。なぜだと思う」
沈黙が落ちた。蓮が唇を噛んでいた。善次郎は日下部を見据えたまま動かなかった。凌の拳が白い。
朔が口を開いた。
「……僕たちがバラバラに動いたから」
日下部が頷いた。
「そうだ。お前らは強い。一人ひとりは、同期のなかじゃ飛び抜けてる。だがな——さっきの戦いは『四人の戦い』じゃなかった。『一人で戦う奴が四人いた』だけだ」
日下部が一人ずつ見た。
凌を見た。
「凌。俺に突っ込んだ判断は悪くない。だが、お前が俺に突っ込んだ時点で俺は笑ってた。——お前を引きつけておけば、残り三人を助手二人で潰せる。お前の突進は、俺に利用された。わかるか? 一人で行く奴は、敵の駒になるんだ」
凌の歯が鳴った。唇が引き結ばれた。拳の骨が白く浮いているのが朔にも見えた。
善次郎を見た。
「善次郎。お前は助手の一人を止めた。壁としちゃ正しい。——だがもう一人が蓮に向かってるのに気づいたか? 目の前を守るだけなら、壁なんかいらねぇ。柱でいい。壁ってのは、後ろの全員を覆うもんだ」
善次郎の目がわずかに揺れた。それだけだった。手は動かなかった。膝の上に置かれたまま、指先が一瞬だけ強く押し込まれたのを、隣にいた朔だけが見た。
蓮を見た。
「蓮。お前はなんで止まった」
「……だって、まだ誰も怪我してなかったから——」
「怪我を待ってから動くのは、癒し手だ。お前は班員だ。治す前にやることがある。声を出せ。『あたしは今ここにいる』ってな。お前がどこにいるか分かれば、善次郎が何を守ればいいか分かる」
蓮の目がまるくなった。唇がわずかに震えて、それから引き結ばれた。膝を抱える手に力が入った。
日下部が朔を見た。
「——朔。お前は全部見えてただろう」
「……はい」
「凌が俺に釘付けにされてたの、見えてたか」
「……はい」
「善次郎の横を助手が抜けたのは」
「……見えてました」
「蓮が止まってたのは」
朔は黙った。凌が利用されていること。善次郎の視野が足りないこと。蓮が動けなくなっていること。——すべて頭の中にあった。「凌、下がれ」と言えばよかった。「善次郎、右を見ろ」と叫べばよかった。「蓮、前に出ろ」と——わかっていた。声を出す前に、もう一つ確認しようとした。その間に、砂は落ちていった。
「全部見えてて、何も言わなかった。それが一番の問題だ」
日下部の声は怒鳴り声ではなかった。静かだった。静かなぶん、胸に沈んだ。
「見えてるだけじゃ意味がない。見えたことを、声にしろ。『凌、下がれ』。『善次郎、右を見ろ』。『蓮、前に出ろ』。——お前が声を出せば、こいつらは動ける。お前が黙っていたら、こいつらは一人ずつ潰される」
朔は何も言えなかった。指先が冷たかった。武術場の土の冷えが、座り込んだ体の底から這い上がってきていた。
日下部が立ち上がった。
「明日も同じことをやる。札が一枚でも取れるようになるまで、毎日やる。——強い奴が四人いても班にはならん。班になるのはな、声と耳だ」
日下部は背を向けて武術場を去った。助手の二人が黙って後に続いた。三人の足音が遠ざかるまで、四人のうち誰も動かなかった。
---
しばらくそのまま座っていた。
武術場の端、日陰に入りかけた場所。砂時計はもう片付けられていたが、砂が流れ落ちた音がまだ耳に残っているような気がした。
凌が最初に口を開いた。
「……悪ぃ。一人で突っ込んだ」
朔は驚いた。凌のその言葉に。一人で前に出ること、最も強い相手に真っ先にぶつかること——それは凌にとって呼吸のようなものだった。入学前の冬の庭から、ずっとそうだった。壊れない壁に拳を打ちつけるように、何度でも前に出る。それが凌だった。その凌が「悪い」と言った。一人で行くことを、詫びた。
善次郎が続いた。
「……俺もだ。横を通られた」
相手を責めなかった。自分の非だけを口にした。善次郎らしかった。——けれどその声は、いつもより低かった。いつもなら感情の端すら見せない善次郎が、声の底に悔しさを滲ませていた。
蓮が膝を抱えたまま、小さく言った。
「あたし、ずっと突っ立ってた……」
声が震えていた。蓮の声はいつも明るかった。昼餉の卓でも、帰り道でも、太陽のように場を照らす声だった。いまはその太陽が曇っていた。
朔は四人の顔を見渡した。凌の白い拳。善次郎の動かない手。蓮の抱えた膝。——模擬戦の最中と同じだった。見えている。いつだって、見えている。
「……僕が、一番悪い」
三人が朔を見た。
「全部見えていたのに、何も言わなかった」
声が出なかったのではない。声を出す前に、もう一つ確かめようとした。盤面の把握を完結させてから声にしようとした。その癖が——いつもの癖が、三人を一人ずつ潰させた。日下部の言葉が耳に焼きついていた。「お前が黙っていたら、こいつらは一人ずつ潰される」。
沈黙が落ちた。短かったかもしれないし、長かったかもしれなかった。
凌が腕を組んで立ち上がった。
「明日もやるって言ってたな」
善次郎が顔を上げた。蓮が膝を抱えた手をゆるめた。朔は凌の横顔を見た。歯噛みの跡が残る頬。白かった拳が、少しずつ色を取り戻している。
「——次は札、取るぞ」
善次郎が無言で頷いた。蓮が目を擦って、「うん」と答えた。
朔は一拍遅れて、「——うん」と言った。
---
帰り道だった。
いつもの四人の並び。凌が先頭。善次郎が最後尾。朔と蓮が中間。ただ今日は、少し違っていた。
凌がいつもより半歩遅かった。
わずかな差だった。普段の凌は三人を置いて先に歩いていく。足が長くて歩幅が広いから、意識しなければ自然と先頭が離れていく。今日は、その歩幅が短かった。半歩ぶんだけ——仲間を後ろに置いていかないように、体がそう動いていた。凌自身が気づいているのかどうかはわからなかった。
蓮が朔の隣を歩いていた。黙っていた。蓮が黙って歩くのは珍しかった。いつもなら何か話しかけて、帰り道の空気を軽くする。今日は、しばらく黙ったまま足を運んでいた。
「ねえ、朔くん」
蓮が口を開いた。
「明日、あたしに声かけてくれる?」
朔が蓮を見た。蓮は前を向いたまま歩いていた。翡翠色の目が夕暮れの光を受けて少し潤んでいるように見えたが、泣いてはいなかった。
「何すればいいか分からなくなったとき、朔くんの声があったら動ける気がする」
朔は少し歩いた。蓮の言葉を噛んだ。「声があったら動ける」——それは蓮が自分の弱さを認めた言葉だった。模擬戦の最中、何をすればいいか分からずに止まった自分を、蓮は見つめていた。止まった自分が嫌だった。だから声を求めた。次は止まらないために。
「……わかった。僕が、言う」
朔は答えた。声にした。今度は遅れなかった。
善次郎の分かれ道で、いつもの「また明日」。ただ今日はその声に悔しさが混じっていた。凌の分かれ道では、無言のまま片手だけが上がった。いつもの「じゃあな」はなかった。二人の背中に、今日の模擬戦がまだ残っていた。
蓮が手を振った。
「じゃあね、朔くん。明日ね」
東の小路に走っていく蓮の背中を見送った。「明日ね」と「ばいばーい」はずいぶん違う。今日は蓮も静かだった。
一人になった。
通学路を歩いた。日がもう落ちかけていて、空の底が暗い。手首の結縁紐を見た。数日前は夕日に透けて光っていた橙が、今日は暮れなずむ空に沈みかけている。墨色はもう闇と区別がつかない。橙だけが、かすかに残っていた。
灯ったばかりの種火。
まだ風に揺れている。囲う手が足りない。——けれど、足りないものは分かった。
日下部が言った。「班になるのは、声と耳だ」。朔に足りないのは声だった。凌に足りないのは、仲間の声を聞いて止まることだった。善次郎に足りないのは、視野を広げること。蓮に足りないのは、仲間に自分の居場所を示すこと。
四つの足りないもの。全部わかっている。盤面は見極められた。——いつものように。
今度は声にしなければならない。
土御門家の屋根が見えた。門の向こうに灯りが仄かにともっていた。
朔は足を止めなかった。明日もあの武術場に立つ。凌が突っ込む前に声を出す。善次郎の横を知らせる。蓮に「前に出ろ」と叫ぶ。——声にする。状況を把握し切る前に、声にする。
足が門をくぐった。結縁紐が暗がりの中でかすかに揺れた。種火はまだ小さい。けれど、足りないものが分かったのなら、あとは足すだけだった。




