42話 : 四人の席
翌朝。
朝の空気がまだ冷たかった。一年次から二年間、同じ刻限に家を出ていたはずだが、午後も教導寮にいるという事実が、足取りをわずかに鈍らせていた。終日登校の初日だった。
通学路の土が一晩の露を含んで柔らかかった。帰りの時間が違うというだけで、何百回と歩いた道の輪郭がわずかに違って見える。
いつもの辻で、凌が並んだ。昨日と同じ。おとといと同じ。
「早ぇな」
欠伸混じりの声に、朔は「うん」とだけ返した。
正門に着くと、蓮が立っていた。
門柱に背中を預けて、こちらを見ている。いつもは別方向から来て門前で鉢合わせる程度だったのに、今朝は明らかに待っていた。朔の姿を認めると、蓮が片手を上げた。
「おはよう。——遅い!」
凌が「遅くねぇだろ」と返したが、蓮はもう笑っていた。三人で門をくぐった。大楠がいつもの場所で静かに佇んでいる。新しい葉が昨日より少し広がっている気がしたが、気のせいかもしれなかった。
武術場の横を通ると、善次郎が棒立ての前にいた。朝の日課を終えたところらしく、指先が木を離れたところだった。
「善次郎くん、おはよう」
蓮の声に、善次郎が「ああ」と低く答えた。
四人が揃った。朝礼の前に四人の顔が揃うのは、初めてだった。昨日まで善次郎は一人で棒立てに触れていた。凌と朔は二人で辻から歩いてきた。蓮は別の方角から一人で来て、門の前で誰かを待つことはなかった。四つの通学路がそれぞれの方角から伸びて、今朝初めて、朝礼の前に一つの場所で交わっている。
なにか特別なことが起きたわけではなかった。ただ示し合わせたわけでもなく、四人が同じ時間に門をくぐった。それだけのことだった。
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東雲の礼が済み、座学が終わり、昼餉の鐘が鳴った。
大広間に入ると、配膳台の前に学年順の列ができていた。碗と小皿を受け取り、列を進んでいく。大鍋からよそわれた菜花と蕪の味噌汁。稗飯。漬菜が二切れ、小皿に載った。
碗を両手で抱えて、列を離れた。
足が迷った。
昨日まで、碗を持ったら第二伍の卓に向かっていた。二年間繰り返した動線が体に刻まれていて、足が勝手にそちらへ向こうとする。一歩踏み出しかけて——止まった。
今日から、あの卓は朔の席ではない。
視線を動かした。大広間の右手奥に、班ごとの卓が並んでいる。一番班の卓を探した。小さな四人掛けの卓だった。伍の卓は六人掛けで長く、隣の肘がぶつかるほどだった。班の卓はそれより一回り小さくて、四人分だけの碗が収まる。
凌が先に座っていた。
碗の前で箸を持ったまま、朔を見た。なにも言わなかった。ただ視線で「ここだ」と示していた。朔は凌の向かい側に碗を置いた。善次郎が朔の隣にゆっくり腰を下ろした。碗を丁寧に卓の上に置く。善次郎の碗の置き方は、音を立てなかった。まるで碗が卓に吸いつくように、静かに着地する。——武家の所作だった。
蓮がやって来た。
「ここ空いてる?」
四人掛けの卓の最後の一席を指して、蓮が笑った。空いているに決まっている。蓮の席なのだから。凌が「空いてるわけねぇだろ」と返す。蓮が「じゃあ座るね」と笑いながら凌の隣に滑り込んだ。
四人が卓を囲んだ。
凌が稗飯を一口掻き込んだ。善次郎が箸を取り、味噌汁を静かに飲んだ。蓮が「菜花、まだ苦いなぁ」と呟きながら碗を覗き込んでいる。四人の食事の速度はばらばらだった。凌は早い。善次郎は遅い。蓮は喋りながら食べるので一番遅い。朔はその三つの速度の間に自分を置きながら、碗を持ち上げた。
菜花の茎が味噌汁のなかで揺れていた。春の苦みが舌に広がる。
「善次郎くん、おかわりする?」
蓮が善次郎に聞いた。善次郎は碗を置いて「……いい」と答えた。
「遠慮してる?」
「……足りてる」
蓮がにっこり笑って自分の碗を差し出した。「あたしの分あげる」。善次郎が「……いらん」と低く言った。蓮は笑ったまま碗を引っ込めて、自分で飲み始めた。
朔は味噌汁のなかの蕪を箸で持ち上げた。薄く切られた白い蕪。この間までは蕪がもう少し大きかったような気がした。汁のなかの具が減っている——気のせいではなかった。碗の底に箸の先が早く届く。朔はそのことを言葉にはしなかった。ただ蕪を口に運んで、静かに噛んだ。
ふと、視線が旧い場所に向いた。
第二伍の卓が見える。朔がいなくなった空席はすでに埋まっていて、いつも通りの昼餉が続いている。二年間「たまたま隣だった」日常は、朔がいなくても回っていた。
目の前に戻った。
凌が碗の底をこそぎ取るように食べ終えて、箸を置いた。善次郎が一口分だけ残った味噌汁を静かに飲み干した。蓮がまだ稗飯の半分を残している。
蓮が蕪の漬物を噛みながら、卓の上にそっと手を置いた。
「——ここがうちの席だね」
凌が鼻を鳴らした。善次郎は何も言わなかった。ただ、碗を重ねる手が普段より丁寧だった。
四つの碗が置かれると、もう余白がない。伍の広い卓とは違う。けれどその狭さが、名前を呼んで結ばれた四人の距離にちょうど収まっていた。
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午後が始まった。
三年次初めての午後の教導寮。
昼餉のあと、朔の体は「帰る」ことを覚えていた。碗を片付けて、中庭を横切って、正門をくぐって、通学路を歩く——二年間ずっとそうしてきた。昼餉の後は帰る。それが朔の体に染みついた午後だった。
けれど今日は、足が武術場に向かっている。
鍛錬着に着替えて武術場の入口に立ったとき、体のどこかが不思議な感覚を覚えていた。この時間にここにいることが、まだ体に馴染んでいない。普段なら家の門をくぐっている頃だった。篝に「ただいま」と言って、縁側で午後の光を浴びている頃だった。
日下部訓導の声が武術場に響いた。
「班ごとに分かれろ。基礎から叩き込む」
走り込みが始まった。武術場を周回する足音が重なる。善次郎が先頭を走っていた。大柄な体が揺るぎない歩幅で地面を踏んでいく。同期のなかで最も大きな体が最も安定して走れるということの異常さに、朔は前から気づいていた。善次郎の体力は並外れている。体が大きいだけではない。父・鉄心から叩き込まれた走り方が、善次郎の足にそのまま残っている。無駄な揺れがない。
凌が善次郎の背中を追っていた。半歩ずつ距離を詰めようとする凌の足だが、善次郎の揺るぎない歩幅に、差を詰められずにいる。凌は追いかける側だった。善次郎は追いかけられているとも思っていなかったかもしれない。
蓮は中盤にいた。きびきびと腕を振りながら、自分の歩調を保っている。
朔は蓮の半歩後ろを走っていた。前を走る善次郎の足さばきと、凌の体の使い方を見ながら走る癖が、いつのまにか身体に染みついている。走りながら観察する。観察しながら走る。朔の走りは速くはなかったが、周囲を見る目は止まらなかった。
受け身の基礎が続いた。二人一組で交互に投げ、受ける。転がる。立ち上がる。繰り返す。
気がついたら陽が傾き始めていた。体の芯がじんわりと熱い。朔はふと空を見上げた。
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終礼が済んだ。酉の刻。
教導寮の生徒がぞろぞろと帰り支度を始めるなか、日下部訓導が一番班の四人を呼び止めた。
「今日の当番はお前たちだ」
初日に当番が回ってきた。偶然なのか、日下部がわざと初日に一番班を当てたのかはわからなかった。
鍛錬場当番。五行修練庭と武術場の整備を班持ち回りで担当する日課。上級生から聞くところによると、週に一度、放課後に掃除と片付けをするらしい。
作業の分担は誰が決めたわけでもなく、自然に決まった。
凌と善次郎が武術場の地均しに向かった。善次郎が地面を均す木板を取り、凌がもう一枚を担いだ。二人は黙って武術場の端から均し始めた。
蓮が水鏡池の方に歩いていった。「落ち葉、掬ってくるね」と振り返って言い、小走りに消えた。
朔は一人で焔壇に向かった。
焔壇の床は焦げ跡で黒かった。壁にも古い焦げが層になって重なっている。放射状の焦げ、帯状の焦げ、深さも向きも違う。朔はいつもこの焦げ跡の模様を見るのが好きだった。ここで誰がどんな術を使ったか、焦げ跡が無言で語っている。
箒を手に取って掃き始めた。焦げた破片が箒の先に溜まっていく。掃きながら、結界の札の状態を一枚ずつ確認した。壁に貼られた防火の札。何枚かは端が焦げていて、法力が薄くなっている。「これは交換が要る」と頭のなかで記録した。
武術場の方から、風に乗って微かに凌の声が聞こえた。
「善、そっち偏ってる」
「わかっている」
遠くから響く善次郎の短い返事。朔は入口から少しだけ顔を出し、二人の様子を遠目に眺めた。凌と善次郎が並んで地均しをしている。組手で拳を交え、「なんで攻めねぇんだ」と怒鳴り合った二人が、今は地面を均す木板を持って並んでいる。
善次郎の均し方は丁寧だった。木板を地面に当て、ゆっくりと一定の力で引いていく。均した後の地面には足跡ひとつ残らないのだろう。——「使う場所に敬意を払え」。善次郎の父・鉄心の教えが、あんな遠目の所作からも伝わってくる。
対して凌は雑だった。力任せに木板を引いて、大きな面を一気に均しているのがわかる。速いが、端の方にまだ凹凸が残っているはずだ。善次郎が凌の均した箇所を静かにやり直しているのが見えた。善次郎は文句を言わなかった。凌も気づいていないかもしれない。朔は少し笑って、また自分の箒を動かし始めた。
「ねえ、朔くん」
蓮の声が水鏡池の方から飛んできた。朔が焔壇の入口から顔を出すと、蓮が網を持って水面の落ち葉を掬っていた。
「明日からもここがいい?」
蓮が焔壇を指した。
「……たぶん、ここが一番気になるから」
「朔くんらしい」
蓮は笑って、水面に浮いた葉にまた網を伸ばした。
当番が終わった頃には、空が橙に染まりかけていた。四人で道具を片付けた。箒を重ね、木板を立てかけ、網を掛ける。
凌が腕を伸ばしながら言った。
「これ、毎週か」
善次郎が碗を重ねるときと同じ丁寧さで木板を壁に立てかけながら答えた。
「当番は班全員で残るのが掟だ」
「善次郎くん、詳しいね」
蓮が感心したように言うと、善次郎はわずかに目を逸らした。
「……聞いただけだ」
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帰り支度をして、教導寮の門を出た。
日が傾いていた。一年次の帰り道は、陽がまだ高い時間にこの門をくぐっていた。午の二刻に朝来た道をそのまま戻って、家路に着く。今日は酉の刻を過ぎている。通学路に落ちる影が長くなって、木立の影が道を横断している。見慣れた道なのに、夕暮れの光が風景の色を塗り替えていた。
正門へ向かう途中、大楠の横を通りかかった。
凌が幹に寄りかかっていた。
朔が足を止めると、凌がこちらを見た。
「遅ぇ」
「凌の方が早いだけ」
凌の唇がわずかに上がった。善次郎は少し離れた根元に腰を下ろしていた。背をまっすぐに伸ばしたまま、膝の上に手を置いている。棒立てには朝と帰りに二度触れる日課—— 善次郎はもう帰りの棒立てを済ませた後だった。
蓮が走ってきた。
「あ、待って!」
息を弾ませて大楠の前にたどり着いた蓮が、四人を見回した。朔と凌と善次郎が大楠の下にいて、蓮が駆けてきて揃った。
この場所には覚えがあった。
二年次の秋、ここに四人が自然と集まった午後があった。凌が朔の隣にどかっと座り、蓮が水を持ってきて、善次郎が根の反対側に背を預けた。あのときはまだ伍の仲間で、「班」ではなかった。同じ木、同じ根元、同じ四人。けれどあの日と今日では、手首に巻かれた墨色と橙の紐が違っていた。
今日からここは班の場所だった。
蓮が両手を腰に当てて、息を整えた。
「帰ろっか。明日も長いし」
凌が幹から背を離した。善次郎が無言で立ち上がった。
四人で帰り道を歩いた。昨日と同じ並びだった。なんとなく決まった位置が、もう繰り返しになっている。
善次郎の分かれ道に差しかかった。善次郎が足を止めて、振り返った。
「じゃあな」
凌が軽く手を上げた。
善次郎が朔を見た。
「また明日」
昨日よりほんの少しだけ、声が軽かった。善次郎は背を向けて、広場の方へ歩き出した。
凌の分かれ道。凌が北西の小路を見て、三人に顔を向けた。
「じゃあな」
それだけ言って歩き出した。足取りは軽かった。凌の背中が小さくなって、角の向こうに消えた。
蓮と二人になった。蓮の分かれ道はもう少し先だった。春の夕暮れの空が高い。雲の端だけが橙に灼けていて、その上は深い群青に溶けかけている。
蓮が手を振った。
「ばいばーい!」
大きく手を振って、東の小路に走っていった。蓮の声が夕暮れの道に残って、少しずつ薄れた。
一人になった。
通学路を歩いた。手首の結縁紐に目を落とした。墨色と橙が夕日に透けている。
今日一日で変わったことは何もなかった。ただ——昨日までなかった「席」が、もうそこにあった。蓮の声が、善次郎の所作が、凌の視線が、まだ感覚として指先に残っている。
土御門家の屋根が見えた。
朔は歩いた。三年次の、二日目が終わった。




