41話 : 種火
春が来た。
休校が明けて、通学路を歩く朝の空気は冷たさの底が抜けていた。冬の間に凍りついていた土が緩み、踏むたびに微かな柔らかさが草履の裏に伝わる。道端の草がほんのわずかに丈を伸ばして、朝露が光の粒になって茎にしがみついている。
三年次の春。
いつもの辻にさしかかったとき、北西の小路から足音がした。凌だった。振り向く前にもう隣にいる。二年目の当たり前が三年目にもそのまま持ち越されて、季節だけが回っていく。
「おう」
凌は一言だけ寄越して、朔の左側に並んだ。歩幅がまた少しだけ広がっている。朔が半歩余計に踏む日は、もう数えなくなっていた。
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武術場の横を過ぎるとき、善次郎の姿が見えた。
棒立ての前に立っている。素振りはしていない。ただ棒立てに指先を触れてから離す。朝の始まりの動作。教導寮に通い始めてからの日課を、善次郎は一日も欠かしたことがなかった。登校するとまず棒立てに手を触れて、その朝を始める。
善次郎が振り向いた。朔と凌の姿を認めて、微かに頷いた。
凌が「善」と顎で合図する。善次郎は何も言わず、二人の後ろに合流した。半歩後ろ。いつもの距離。
朔は足元の土を踏みながら、三人の足音を聞いていた。三つの足音は歩幅も重さも違うのに、同じ方向に向かっている。去年までは凌と二人だった。善次郎とは帰り道で素振りの横をすれ違うだけだった。いつから善次郎が朝の道に加わったのか、朔にもはっきりした記憶がない。気がつけば、善次郎は半歩後ろにいた。
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教導寮の門をくぐった。
大楠が春の光のなかで静かに立っていた。三年目の春。幹の太さも、根の隆起も、枝の広がりも変わらない。ただ、新芽がまだ硬い蕾のままで、去年の秋に散った葉の痕がうっすらと残っている。今年もこの木の下を通って教室に向かう。
午前の座学が終わった。
昼餉の鐘が鳴る。伍の卓に座るのは、今日が最後だった。
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大広間。碗を並べる手つきも、粥の匂いも、二年間毎日繰り返した同じ光景。朔は自分の卓——第二伍の席に着いた。いつもの場所。いつもの碗。隣に座る同期の顔も、二年で見慣れたものだった。
伍の同期が粥を啜りながら呟いた。
「——明日からは、隣じゃなくなるんだな」
朔は碗を置いた。
「うん、そうだね」
特別な感慨はなかった。隣に座った二年間を惜しいとは思わなかった。ただ、二年間続いた「当たり前」が今日で終わるのだという事実が、粥の蒸気のようにうっすらと胸を横切った。
三つ向こうの卓から、蓮が手を振っているのが見えた。いつもの笑顔。伍を超えて朔に手を振るのも、一年目の頃からの癖になっていた。蓮の声はいつも大広間のどこにいても届く。
凌の卓を見ると、碗を睨むようにして食べていた。二年間変わらない光景だった。
善次郎は——第一伍の卓で、もう食べ終えていた。碗を丁寧に重ねて、静かに席を立つ。顔を上げたとき、一瞬だけ朔と目が合った。善次郎は何も言わず、中庭の方に歩いていった。
伍の最後の昼餉は、そうやって静かに終わった。
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午後。座学の後、全員が大広間に集められた。
朔は気づいていた。いつもの座学の後とは空気が違う。生徒の誰もが静かに座り、視線が大広間の前方に集まっている。畳の隙間に春の光が差し込んで、埃の粒がゆっくりと舞い上がっている。
大広間の正面に厳島寮長が立っていた。
穏やかな佇まいだが、有無を言わさない重みがある。その背後に、六枚の木札が壁に等間隔で掛けてある——歴代初穂の名が墨で書き連ねてあるあの壁だった。去年の序列発表で凌の名がそこに加わった場所だ。
厳島寮長が口を開いた。
「三年次より、班を編制する」
声は穏やかだった。いよいよ誰が同じ班になるかが読み上げられる。その事実だけで大広間の空気が一段と引き締まる。三十人の同期が、息を詰めるように前を見ていた。
寮長の横に、日下部訓導が進み出た。日下部の鍛錬着はいつもの通り袖が捲り上げられていて、腕に古い傷の痕が白く走っている。
「これより班編制を読み上げる」
日下部の声は大広間に低く響いた。
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「一番班——」
日下部が板札を手に取り、墨書された名前を読み上げた。
「土御門朔。久我崎凌。志場善次郎。葛葉蓮」
大広間がざわめいた。
四つの名前が一つの班に収まる。朔はそのざわめきの意味を理解していた。年次の序列上位四名が、同じ班に入る。それは教導寮の編制として異例だった。四人の適性は五行のほぼすべてを網羅し、前衛と後衛が揃い、索敵も治癒も備わっている。訓導が「生存率の最大化」を基準に組んだ結果だとしても、この四人の名前が並ぶことの重みは、同期の誰にでも分かった。
朔の隣で、凌が腕を組んだ。
「まあ、そうだろうな」
低い声だった。迷いのない声だった。自分と朔が同じ班になることを、凌は一秒も疑っていなかったのだろう。
善次郎はどこにいるのか——朔はちらりと視線を動かした。大広間の右手、壁際に善次郎が座っていた。微動だにしない。ただ、一瞬だけ——本当に一瞬だけ、善次郎の目が朔の方に向いた。すぐに戻った。朔はそこに、二年前の中庭を思い出した。「楽だな、こいつ」と感じたはずの善次郎の、あの静かな目。
蓮の声がした。
「やった!」
明るく弾けた声が大広間に跳ねた。隣に座っていた同期が蓮の肘をつつく。蓮が「あ——静かにしないと」と口を押さえるが、目は笑っていた。いつもより少しだけ深い笑顔だった。
朔は、名前が呼ばれた瞬間を反芻していた。
——土御門朔。久我崎凌。志場善次郎。葛葉蓮。
凌と、善次郎と、蓮と。
その名前が一つの班として呼ばれた瞬間——頭のなかを、篝の声がよぎった。
——あたしはさくにぃが一番がいいな。
一瞬だった。春の光のなかで篝の声だけがひどく近くて、すっと遠ざかった。代わりに大広間のざわめきが戻ってきて、朔は息を一つ吐いた。
まだ、言葉にならなかった。
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班の編制がすべて読み上げられた後、大広間に厳島寮長の声がもう一度響いた。
「一番班から順に、組託定を執り行う。他の者は退出しなさい」
同期たちが立ち上がり、足音を引きずるように大広間を出ていく。何人かが朔たちの方を振り返ったが、顔には畏怖とも羨望ともつかない複雑な色が浮かんでいた。
大広間に残ったのは四人と、日下部訓導。
厳島寮長は静かに壁際に退き、組託定の進行を日下部に任せた。日下部は腕を組んだまま四人を見回した。
「立て。向かい合え」
四人が立ち上がった。
四人が向かい合って立った。朔と凌が正面、善次郎と蓮がその間を埋めて、四角に向き合う形になった。畳の目の交差が四人の足元で十字に走っている。
日下部の声が低く落ちた。
「卒業までの間、この者たちと生き、この者たちと帰る。——名前を呼べ」
沈黙が落ちた。春の午後の光が障子越しに射し込んで、畳の上に格子の影を落としている。
凌が動いた。
「朔」
短かった。けれど、揺るぎなかった。凌は入学する前の冬の庭からずっと朔を名前で呼んでいた。何も変わっていない。続けて目を動かす。
「善」
善次郎への呼び方だけが変わった。二年間「志場」と呼んでいた名前が、ここで初めて「善」に変わった。凌にとってそれは当然の一歩だった。組手の中で背中を預けてきた相手の姓を、もう呼ぶ必要はなかった。
「蓮」
蓮への呼び方は以前から変わらない。凌の声には迷いがなかった。
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蓮が続いた。
「朔くん。凌。善次郎くん」
いつもの明るい調子だった。けれど声が少しだけ震えていた。息の端が微かに揺れている。笑顔の輪郭はいつもより少しだけくっきりとしていて——太陽のような蓮が、光を一段強くしていた。
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善次郎の番だった。
朔は善次郎を見た。善次郎は二年間、「土御門」「久我崎」「葛葉」と苗字で呼んできた。名前を呼んだことは一度もない。
善次郎が間を置いた。
長い沈黙だった。けれどこの沈黙は、いつもとは少しだけ質が違った。善次郎の目がわずかに細くなった——考えているのではなく、何かを踏み越えようとしている顔だった。
「…………朔」
その名前が善次郎の口から出た。
たった二文字だった。語尾は低く、ほとんど息のような音で消えた。二年間の「土御門」が、終わった。
冬の庭で凌が初めて「見ててもいいか」と言ったあの日——善次郎はただ遠くから見ていた。中庭で朔が「いつもここに立っていますね」と声をかけたあの日から、善次郎は朔を覚えていた。帰り道の素振りの横を黙って通り過ぎる朔を、毎日見ていた。
名前を呼んだだけ。たったそれだけの、長い道のりだった。
善次郎は続けた。
「凌。蓮」
二つの名前はすっと出た。「朔」を先に越えたことで、残りは言葉がそのまま流れていった。
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朔の番だった。
三人の顔を見た。
凌の赤銅色の目が、当然のようにこちらを見ていた。善次郎の深い墨色の目が、静かに待っていた。蓮の翡翠色の目が、少し潤んで光っていた。
朔は穏やかに、いつもの声で言った。
「凌。善次郎。蓮」
変わらない声だった。
けれどその穏やかさの下に、去年の篝の言葉が沈んだままだった。名前を呼ぶ声に、それは表に出なかった。
四人が一礼した。
日下部は何も言わなかった。ただ一つ、深く頷いた。
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組託定が済んだ後、日下部が懐から四本の紐を取り出した。
丁寧に束ねられた組紐だった。微かな光沢がある——鎮護寮の端材糸を芯に使った紐だと、朔は一目で分かった。法力を帯びた糸が光を含んでいる。
二色の紐だった。墨色と橙。墨色は夜の底のように深い濃紺に近い黒で、その間を橙が螺旋に走っている。結び目だけが紫——全班共通の色。
日下部が四本の紐を畳の上に並べた。
「お前たちの班の名を伝える」
日下部が一拍置いた。
「種火」
朔は、その言葉を聞いた。
種火。
日下部は低い声で続けた。
「竈の奥で消さずに守り続ける小さな炎だ。お前たちは各々の分野で頂点にいる。だが、お前たちの気質は焔ではない。華やかさよりも——確かな温もりだ。里の暮らしはこの火から始まる。俺たちがこの火を守る」
日下部はそう言って、紐を一本ずつ手に取り、四人に差し出した。
凌が最初に受け取った。紐の墨色と橙を指先で撫でて、口の端がわずかに上がった。
「赤橙か。——悪くねぇ」
善次郎は黙って受け取った。紐を左の手首に巻いた。迷いのない動作だった。善次郎がどこに巻くか考えた時間は、一瞬もなかった。左の手首に墨色と橙が横たわっている。
蓮が自分の紐を受け取って、朔の紐と見比べた。
「おそろいだ」
蓮が笑った。いつもの太陽の笑顔。けれど今日はその光がいつもより暖かかった。
朔は結縁紐を手のなかで見つめていた。
種火——消えない、小さな火。
去年の春の夜、朔は天井を見つめていた。篝の言葉を飲み込んだまま、言語化できない感情が胸の底に沈んだ。あの火に名前がなかった。
今、名前がついた気がした。
種火。
篝のために一番を——という感情なのか。それとも、この三人と共にあることの意味なのか。結縁紐の墨色と橙が掌のなかで微かに光っていた。
朔は紐を左の手首に巻いた。
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帰り道。
初めて四人で歩いた。
凌が先頭を歩く。いつもの癖だった。肩幅の広い背中が、夕陽のなかで橙色に染まっている。
善次郎が最後尾にいた。半歩後ろ。いつもの距離。
朔と蓮が並んでいた。中間。教導寮の門を出てすぐ、武術場の横を通り過ぎる。夕方の光が道の両側の草を金色に染めている。風がぬるくて、冬の名残はもうどこにもなかった。
善次郎が足を止めた。朝、善次郎が合流した場所だった。
善次郎が振り返った。去年の秋の帰り道では、朔の「また明日」に頷いただけだった。体術試験の後の帰り道では、口角が上がっただけだった。今度は——善次郎が先に口を開いた。
「——また明日」
低い声だった。ほとんど息に溶けるような音だった。けれど、善次郎が自分から言った。
朔は頷いた。善次郎は背を向けて広場の向こうへと歩き出した。左手首の結縁紐が夕暮れの光のなかで揺れていた。
三人が通学路を進む。しばらくして、いつもの辻に差しかかった。朝、凌が合流してくる北西の小路との交差点だった。
凌は足を止めた。振り返って二人を見た。
「明日からは班だ」
それだけ言って、北西の小路に消えていった。凌の背中が夕陽の中で小さくなり、角の向こうに消えた。
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蓮と二人になった。
通学路の先に朔の帰り道が延びている。蓮の家はもう少し先の分かれ道を東に折れた場所だった。しばらく同じ道を歩く。
蓮が隣で呟いた。
「種火か。——いい名前だね」
朔は黙って紐の色を見ていた。掌を返すと、墨色と橙が夕陽に透けて、微かに光を帯びている。
蓮がふと、空を見上げた。それから少しだけ声を落として言った。
「篝ちゃんに教えなきゃ」
朔の足が止まった。
蓮の横顔を見た。蓮の翡翠色の目に夕焼けが映っている。篝の笑顔を思い出した。蓮はいつもこうやって、篝と朔の世界をつないでいた。
「……うん」
朔の声は静かだった。蓮はちらりとこちらを見て、いつもの笑顔を浮かべた。それから手を振って、東の分かれ道に走っていった。
一人になった。
左手の結縁紐を見た。去年の帰り道、あの手には花があった。今年は花のない春だった。けれど——種火がある。見せるのではなく、守るもの。
朔はまだ、胸の底に沈んだ火が何なのか分からなかった。篝の「一番がいいな」も、班の結縁紐の種火も、同じ温もりの中にあるのか、別のものなのか、区別がつかなかった。
けれど——名前がついた。
種火。
通学路の先に、土御門家の屋根が見えた。夕暮れの空が墨色と橙に染まっている。結縁紐と同じ色だった。
朔は歩き出した。三年次が始まった。




