153話:空いた指
夕暮れの外采門は、いつもと同じ匂いがした。
灰と土の空気が結界の継ぎ目から沁みてくる。門の内側に入ると里の空気に切り替わる——湿った土と、どこかの家で焚いた薪の煙。朔は門をくぐりながら護帯の光を確かめた。まだ十分に残っている。六位を二体処理しただけの穏やかな一日だった。
凌が隣を歩いていた。鶺鴒の鯉口を切ったまま。帰還の安堵のためではない。手の動きが習慣になっていた。善次郎は根張を背負い直しながら門を通った。蓮が汗を手拭いで拭いていた。
灰輪巡哨。日帰り。四人で出て、四人で帰る。
門を抜けた先の控え詰め所に、人の気配があった。帰還したばかりの朔の班より前に、誰かがいる。
朔は足を止めた。
控え詰め所の前の土間に、外采使が五、六人集まっていた。壁際にもう三、四人。武器庫の前に背を向けて立っている者が一人。立っているだけだった。声が聞こえなかった。
門番が朔の班の帰還を確認する声が、いつもより低かった。
「灯りが帰った。土御門班、四名」
四名。門番はそう言った。いつもと同じ決まり文句だった。だが門番の視線が朔の顔を通り過ぎ、門の外に向いた。
朔は振り返った。
門の向こう——灰輪の稜線がまだ夕の光を受けている方角から、三つの影が歩いてきた。門の両脇で待機していた鎮護寮の担当官が、静かに門を開いた。
三人。
朔の右手が無意識に動いた。一つ、二つ、三つ。指が三本で止まった。四本目を折ろうとして——折る相手がいなかった。
三人が門をくぐった。先頭の男は見覚えがあった。八棟の通りの角で朝餉の焼き魚を買っていた人だ。名前も知っている。控え詰め所で何度か顔を合わせた者の名だった。班長だった。その後ろに二人。三人とも防穢衣は無事だった。外傷は見えない。
四人で出た班だった。
班長が門柱の前で足を止めた。右手は体の横に垂れていた。左手が上がった。門柱の石面に触れた。
左手。
朔はその動作を知っていた。出陣のとき班長が右手で門柱に触れるのは、帰還の意思を刻む所作だった。帰還できなかった者がいるとき、班長は左手で触れる。帰れなかった者の代わりに。
班長の左手が門柱を離れた。指先が石面を擦る微かな音がした。班長は声を出さなかった。後ろの二人も声を出さなかった。控え詰め所に集まっていた外采使たちも、声を出さなかった。
門番が一瞬だけ目を伏せた。
善次郎が右手で根張の柄を握った。掌が白くなるほど強い。蓮の手が前に出かけた——癒し手の習慣で、傷ついた者に駆け寄ろうとする。だが止まった。もう治す相手はいなかった。到着が遅すぎたとか、力が足りなかったとか、そういう話ですらなかった。帰ってこなかった者の身体は、ここにはない。
凌が低い声で言った。
「……何位だ」
朔は首を振った。
「わからない。でも——四位か、三位だろう。五位六位で帰れなくなることは、普通はない」
控え詰め所の書記官が帰還簿を広げた。書記官の前に三人が並んだ。名前が一人ずつ読み上げられ、帰還簿に記帳された。一行目、二行目、三行目。書記官の筆が四行目の前で止まった。
四行目は空白だった。
書記官は空白の行に横線を一本引いた。斜めではなく水平に、丁寧に。殉職の記帳だった。記帳が済むと帰還簿が閉じられた。
朔の手が手帳に伸びた。昨日書いた「次は千」の文字がある頁だった。指が革の表紙に触れ——閉じた。
鳴弦が肩の上で首を傾けた。穏やかな声は出さなかった。このとき決まって鳴弦は黙る。鳴弦にも空気が読めるのか、それとも朔の法力の拍が静まったのを感じ取っているのか。
三人が控え詰め所に消えた。残された外采使たちは散り始めた。夕餉の支度がある者、翌日の出陣の準備をする者。殉職の翌日にも任務はある。灰輪は待ってくれない。
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翌日の午後。
蓮は浄身院の門をくぐった。善次郎の右手の治療のために来たのだと自分に言い聞かせた。嘘ではなかった。ただ本題が別にあった。
浄身院の奥に薬草園がある。療養棟の裏手に広がる、日当たりのいい土地だった。薬草の匂いが風に乗る。蓮にとっては家の匂いに一番近い匂いだった。
巴がいた。
薬草園の端、日陰のない一角で腰を下ろしていた。背中に薬嚢を二つ並べ、中身を一つずつ取り出しては確かめている。補充と入れ替えの作業だった。指が太い。繊細な治療を行う手とは思えないほどがっしりした手が、瓶の蓋を器用に回して中の粉を嗅いでいた。
「巴さん」
巴が顔を上げた。蓮を見て、少し笑った。
「蓮ちゃんか。善次郎の手か?」
「それもあるんですけど——」
蓮は巴の隣に腰を下ろした。膝の上に手を置いた。指を組んだ。組んだ指をすぐにほどいた。
間が空いた。巴は薬嚢の作業に戻らず、蓮の横顔を見ていた。
「昨日の班の人たちのことなんですけど」
蓮の声は平らだった。震えてはいなかった。
「穢れが第二期まで進んでいたって聞きました。帰還した三人の穢れが。一日、浄身院で処置を受けたって」
巴が頷いた。薬嚢の蓋を閉じた。
「あの人たちの穢れが第二期まで進んでいたなら、あたしは——あたしがそばにいたら、何ができたんですか」
巴は蓮を見た。しばらく考えた。それから問うた。
「祓いの水は使えるか」
「はい。目を閉じてなら——十五秒くらいです」
「十五秒か」
巴が顎を引いた。蓮の練度を測っている目だった。
「第二期の穢れは、祓いの水じゃ表層しか流せない。核まで届かない」
蓮は知っていた。中伝で教わる祓いの水は、穢れの第一期——感染の初期段階を洗い流す技だった。第二期の穢れは体の奥に根を張る。表層を洗っても核が残る。
「聖泉の儀、という技がある」
巴の声は低かった。穏やかだったが、薬嚢の蓋を閉じたまま手を止めていた。
「奥伝に数えられる。祓いの水の上、とは少し違う」
「違う?」
「祓いの水が表層を流すなら、聖泉の儀は体の奥から穢れを引きずり出す」
蓮は息を吸った。
「引きずり出す……」
「代わりに、術者は血を吐くほどの負荷を受ける。穢れを引き出す力が、そのまま術者に返ってくる」
巴の目が蓮を映していた。怖がらせるためではなかった。事実を伝えている目だった。
「俺はこの技を持っている。だが使ったのは三回だ。三回とも、二日は起き上がれなかった」
蓮は何も言わなかった。巴の手を見ていた。太い指だった。
「覚えたいか」
「……はい」
蓮の声は静かだった。明るくはなかった。
巴が薬嚢の紐を解いた。結び直す。手が動きながら口が開いた。
「条件がある」
「はい」
「祓いの水を、目を閉じて十秒以内に完了できるようになってからだ」
蓮の指が膝の上で動いた。十秒。今は十五秒かかる。五秒の差だった。
「聖泉の儀は祓いの術を極限まで圧縮して叩き込む技だ。基礎の精度が足りなければ、引き出す力が暴走して術者ごと倒す」
「十秒……」
「急ぐなとは言わない。お前が急ぎたい理由はわかる」
巴が薬嚢の紐を結び終えた。腰に吊った。
「——いい手だ」
蓮が顔を上げた。
「間に合わせたいと常に思っている人間の手だ」
巴の声は穏やかだった。命令形ではなかった。ただ認めていた。蓮の手を見て、蓮の手が治したいと思っていることを見て、それを認めていた。
蓮は立ち上がった。薬草園の匂いが風に乗った。巴の背を見た。
「巴さん」
「ん」
「間に合わなかったことが、ありますか」
巴の手が動き続けていた。薬嚢の口を確認し、紐の結び目を指で押さえていた。
「ある」
間がなかった。すぐに答えた。
「だから俺は、前に出ることにした」
蓮は頷いた。声は出さなかった。頷いて、薬草園を出た。
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同じ日の夕刻。
善次郎が武術場の片隅にいた。外采棟の裏手にある土間の武術場だった。他に誰もいなかった。
根張を握っていた。右手。
一。振り下ろした。根張の重さが掌を伝う。
二。右手の指は従っていた。
三。法力の通りがほんの少し滑らかになった。右手の穢れ腐食は蓮の治療で骨と筋が繋がった。だが法力の流れ方が変わっていた。以前とは違う場所に力を入れなければ、同じ振りができない。
四。まだ大丈夫だった。
五。かつてはここで震えた。
六。指が持っていた。
七。根張が手の中にある。
八——指先が痺れた。根張の柄が手の中で一瞬だけ滑った。握り直した。痺れが小指から薬指に広がっていた。
善次郎は根張を地面に突き立てた。法力を通す。根が柄の先端から伸び、土に食い込んだ。一秒、二秒——三秒で止まった。根の先が地面の中で迷っている。以前なら一秒で地面を噛んだ。今は三秒かかった。根が方向を決めあぐねていた。
善次郎は根を引き戻した。何も言わなかった。根張の柄を見た。もう一度握った。
足音が聞こえた。砂利を踏む音。
「善次郎」
朔だった。武術場の入り口に立っていた。
「手、どう?」
「七」
朔が一瞬動きを止めた。理解した。五から七に増えた。
「踏破行までには間に合う?」
「……間に合わせる」
短かった。「間に合わせる」。朔が響鳴器の話をしたとき、「間に合わせる」と言ったのと同じ言葉だった。善次郎はそれを知らなかった。善次郎はただ「間に合わせるしかない」と思っていただけだった。
朔は武術場の端に腰を下ろした。善次郎は根張を壁に立てかけた。
「善次郎。昨日の——」
「知ってる」
沈黙が落ちた。善次郎が根張の柄に手を伸ばした。右手の掌が太い柄の上を一度だけ滑った。撫でるように。根張から手を離した。
「指が空くのは、慣れない」
善次郎の声は低かった。四人で出て三人で帰った班のことを言っている。善次郎は帰還簿の空白の行を見ていない。門柱の左手を見ていない。善次郎は「空いた指」で理解した。四本そろうはずの指が、三本で止まる感覚。
「……でも、指は残ってる」
善次郎が右手を見た。五本の指があった。五振り目で震えた指が、七振り目まで持つようになった。痺れはまだある。でも五本の指は全部、根張を握れる。
朔は何も言わなかった。善次郎が根張を壁から取った。素振りを再開した。一、二、三。朔はしばらくそれを見ていた。
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幕板小屋の灯りが揺れていた。
灯し飯の時間だった。三方を板で囲っただけの吹きさらしの小屋に、四人が座っていた。椀と箸が並んでいた。凌が黙って飯を口に運んでいた。善次郎が右手で箸を持っていた。五振り目で痺れる手が、箸は持てた。
蓮が汁物の椀を善次郎の前に置いた。
「ちゃんと食べなよ。善次郎くんも」
善次郎は頷かなかった。だが椀を手に取った。蓮はそれで済ませた。善次郎が手に取ったなら食べる。
凌が飯を半分ほど崩した。
「明日の巡哨は南だろ」
「うん。石牙丘陵の東側回り」
「穢れ灯、二番の灯が弱かった。善、帰りに法石を見てくれ」
「ああ」
翌日の任務の話をしていた。殉職の翌日にも灰輪の巡哨がある。穢れ灯の法石が弱っているなら交換しなければならない。日常は止まらなかった。
朔が汁を一口飲んだ。手帳を取り出した。昨日閉じた手帳だった。今日は開いた。
帰還簿から写した。殉職した外采使の名前。名前の下に、二文字。
「四位」
壮介の報告書を読んだときと同じ手つきだった。文字は正確で、筆跡は揺れなかった。数字ではなく名前を書いた。名前の後に位階を書いた。
蓮が朔の手帳を見た。
「朔くん。ご飯中に手帳はやめなよ」
「……ごめん」
朔は手帳を閉じた。椀に手を戻した。
沈黙が数口分続いた。飯を食べ、汁を啜り、蓮が漬物の皿を回した。灯し飯の決まりごとがある——食べ終わるまで無言にならないこと。幕板小屋で食べる飯は、ただの飯ではなかった。帰還した者が生きている時間を噛みしめる時間だった。
蓮が椀を両手で包んだ。汁の湯気が顔にかかった。
「巴さんに、聞いてきた」
凌の箸が止まった。善次郎は食べ続けていたが、耳は蓮に向いていた。
「聖泉の儀っていう技があるって」
凌が目だけを蓮に向けた。
「奥伝か」
「うん」
蓮は椀の中の汁を見ていた。
「でもまだあたしには早いって。祓いの水を十秒以内にできるようになってからだって」
朔が顔を上げた。
「祓いの水の……精度か」
「うん。今のあたしは十五秒。五秒、縮めるだけなのに」
蓮が椀を膝の上に下ろした。
「遠い」
善次郎が箸を置いた。音はなかった。善次郎の箸は音を立てない。椀の縁に箸を揃え、蓮の顔を見た。
「蓮」
「ん?」
「五秒は作れるものだ」
蓮が善次郎を見た。善次郎の目は静かだった。
「……俺の手はそれを知ってる」
五振り目で痺れた手が、七振り目まで持つようになった。五と七の間の二は、蓮の治療と善次郎の素振りと日々の積み重ねが作った数字だった。十五秒から十秒への五秒も、同じものだと善次郎は言っていた。足りない数字は作れる。三百歩から千歩への距離も、同じことだった。
蓮が口元を緩めた。危うかった。泣きそうに見えたのが笑顔に変わった。あるいは笑顔で覆ったのかもしれない。
「善次郎くん、たまにいいこと言うよね」
「……たまにか」
凌が鼻を鳴らした。善次郎の頬が微かに動いた。怒ったのではなく、照れたのでもなく、善次郎なりの反応だった。
蓮が汁を啜った。温かかった。明日も巡哨がある。穢れ灯の法石の交換がある。蓮の祓いの水の訓練がある。善次郎の八振り目がある。朔の手帳に書かれた「次は千」がある。
灯し飯が終わった。四人が椀を片付けた。凌が鶺鴒の柄を一度確かめた。善次郎が根張を背負い直した。蓮が手拭いを襟元に挟んだ。朔は手帳を懐に戻した。
幕板小屋の灯りが風に揺れていた。灯りの向こうに外采門の暗い輪郭が見える。門の脇の殉職碑は闇に沈んでいた。碑に刻まれた名前は、朝になればまた夕陽に照らされる。
明日も任務がある。




