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あやかしの海、硝子の揺り籠 〜結界術師の次男坊は、独自開発の『法具』と『小隊戦術』で平安異世界を圧倒する〜  作者: 鶯神楽
2部:2幕

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153/173

153話:空いた指

 夕暮れの外采門は、いつもと同じ匂いがした。


 灰と土の空気が結界の継ぎ目から沁みてくる。門の内側に入ると里の空気に切り替わる——湿った土と、どこかの家で焚いた薪の煙。朔は門をくぐりながら護帯の光を確かめた。まだ十分に残っている。六位を二体処理しただけの穏やかな一日だった。


 凌が隣を歩いていた。鶺鴒の鯉口を切ったまま。帰還の安堵のためではない。手の動きが習慣になっていた。善次郎は根張を背負い直しながら門を通った。蓮が汗を手拭いで拭いていた。


 灰輪巡哨。日帰り。四人で出て、四人で帰る。


 門を抜けた先の控え詰め所に、人の気配があった。帰還したばかりの朔の班より前に、誰かがいる。


 朔は足を止めた。


 控え詰め所の前の土間に、外采使が五、六人集まっていた。壁際にもう三、四人。武器庫の前に背を向けて立っている者が一人。立っているだけだった。声が聞こえなかった。


 門番が朔の班の帰還を確認する声が、いつもより低かった。


「灯りが帰った。土御門班、四名」


 四名。門番はそう言った。いつもと同じ決まり文句だった。だが門番の視線が朔の顔を通り過ぎ、門の外に向いた。


 朔は振り返った。


 門の向こう——灰輪の稜線がまだ夕の光を受けている方角から、三つの影が歩いてきた。門の両脇で待機していた鎮護寮の担当官が、静かに門を開いた。


 三人。


 朔の右手が無意識に動いた。一つ、二つ、三つ。指が三本で止まった。四本目を折ろうとして——折る相手がいなかった。


 三人が門をくぐった。先頭の男は見覚えがあった。八棟の通りの角で朝餉の焼き魚を買っていた人だ。名前も知っている。控え詰め所で何度か顔を合わせた者の名だった。班長だった。その後ろに二人。三人とも防穢衣は無事だった。外傷は見えない。


 四人で出た班だった。


 班長が門柱の前で足を止めた。右手は体の横に垂れていた。左手が上がった。門柱の石面に触れた。


 左手。


 朔はその動作を知っていた。出陣のとき班長が右手で門柱に触れるのは、帰還の意思を刻む所作だった。帰還できなかった者がいるとき、班長は左手で触れる。帰れなかった者の代わりに。


 班長の左手が門柱を離れた。指先が石面を擦る微かな音がした。班長は声を出さなかった。後ろの二人も声を出さなかった。控え詰め所に集まっていた外采使たちも、声を出さなかった。


 門番が一瞬だけ目を伏せた。


 善次郎が右手で根張の柄を握った。掌が白くなるほど強い。蓮の手が前に出かけた——癒し手の習慣で、傷ついた者に駆け寄ろうとする。だが止まった。もう治す相手はいなかった。到着が遅すぎたとか、力が足りなかったとか、そういう話ですらなかった。帰ってこなかった者の身体は、ここにはない。


 凌が低い声で言った。


「……何位だ」


 朔は首を振った。


「わからない。でも——四位か、三位だろう。五位六位で帰れなくなることは、普通はない」


 控え詰め所の書記官が帰還簿を広げた。書記官の前に三人が並んだ。名前が一人ずつ読み上げられ、帰還簿に記帳された。一行目、二行目、三行目。書記官の筆が四行目の前で止まった。


 四行目は空白だった。


 書記官は空白の行に横線を一本引いた。斜めではなく水平に、丁寧に。殉職の記帳だった。記帳が済むと帰還簿が閉じられた。


 朔の手が手帳に伸びた。昨日書いた「次は千」の文字がある頁だった。指が革の表紙に触れ——閉じた。


 鳴弦が肩の上で首を傾けた。穏やかな声は出さなかった。このとき決まって鳴弦は黙る。鳴弦にも空気が読めるのか、それとも朔の法力の拍が静まったのを感じ取っているのか。


 三人が控え詰め所に消えた。残された外采使たちは散り始めた。夕餉の支度がある者、翌日の出陣の準備をする者。殉職の翌日にも任務はある。灰輪は待ってくれない。


---


 翌日の午後。


 蓮は浄身院の門をくぐった。善次郎の右手の治療のために来たのだと自分に言い聞かせた。嘘ではなかった。ただ本題が別にあった。


 浄身院の奥に薬草園がある。療養棟の裏手に広がる、日当たりのいい土地だった。薬草の匂いが風に乗る。蓮にとっては家の匂いに一番近い匂いだった。


 巴がいた。


 薬草園の端、日陰のない一角で腰を下ろしていた。背中に薬嚢を二つ並べ、中身を一つずつ取り出しては確かめている。補充と入れ替えの作業だった。指が太い。繊細な治療を行う手とは思えないほどがっしりした手が、瓶の蓋を器用に回して中の粉を嗅いでいた。


「巴さん」


 巴が顔を上げた。蓮を見て、少し笑った。


「蓮ちゃんか。善次郎の手か?」


「それもあるんですけど——」


 蓮は巴の隣に腰を下ろした。膝の上に手を置いた。指を組んだ。組んだ指をすぐにほどいた。


 間が空いた。巴は薬嚢の作業に戻らず、蓮の横顔を見ていた。


「昨日の班の人たちのことなんですけど」


 蓮の声は平らだった。震えてはいなかった。


「穢れが第二期まで進んでいたって聞きました。帰還した三人の穢れが。一日、浄身院で処置を受けたって」


 巴が頷いた。薬嚢の蓋を閉じた。


「あの人たちの穢れが第二期まで進んでいたなら、あたしは——あたしがそばにいたら、何ができたんですか」


 巴は蓮を見た。しばらく考えた。それから問うた。


「祓いの水は使えるか」


「はい。目を閉じてなら——十五秒くらいです」


「十五秒か」


 巴が顎を引いた。蓮の練度を測っている目だった。


「第二期の穢れは、祓いの水じゃ表層しか流せない。核まで届かない」


 蓮は知っていた。中伝で教わる祓いの水は、穢れの第一期——感染の初期段階を洗い流す技だった。第二期の穢れは体の奥に根を張る。表層を洗っても核が残る。


「聖泉の儀、という技がある」


 巴の声は低かった。穏やかだったが、薬嚢の蓋を閉じたまま手を止めていた。


「奥伝に数えられる。祓いの水の上、とは少し違う」


「違う?」


「祓いの水が表層を流すなら、聖泉の儀は体の奥から穢れを引きずり出す」


 蓮は息を吸った。


「引きずり出す……」


「代わりに、術者は血を吐くほどの負荷を受ける。穢れを引き出す力が、そのまま術者に返ってくる」


 巴の目が蓮を映していた。怖がらせるためではなかった。事実を伝えている目だった。


「俺はこの技を持っている。だが使ったのは三回だ。三回とも、二日は起き上がれなかった」


 蓮は何も言わなかった。巴の手を見ていた。太い指だった。


「覚えたいか」


「……はい」


 蓮の声は静かだった。明るくはなかった。


 巴が薬嚢の紐を解いた。結び直す。手が動きながら口が開いた。


「条件がある」


「はい」


「祓いの水を、目を閉じて十秒以内に完了できるようになってからだ」


 蓮の指が膝の上で動いた。十秒。今は十五秒かかる。五秒の差だった。


「聖泉の儀は祓いの術を極限まで圧縮して叩き込む技だ。基礎の精度が足りなければ、引き出す力が暴走して術者ごと倒す」


「十秒……」


「急ぐなとは言わない。お前が急ぎたい理由はわかる」


 巴が薬嚢の紐を結び終えた。腰に吊った。


「——いい手だ」


 蓮が顔を上げた。


「間に合わせたいと常に思っている人間の手だ」


 巴の声は穏やかだった。命令形ではなかった。ただ認めていた。蓮の手を見て、蓮の手が治したいと思っていることを見て、それを認めていた。


 蓮は立ち上がった。薬草園の匂いが風に乗った。巴の背を見た。


「巴さん」


「ん」


「間に合わなかったことが、ありますか」


 巴の手が動き続けていた。薬嚢の口を確認し、紐の結び目を指で押さえていた。


「ある」


 間がなかった。すぐに答えた。


「だから俺は、前に出ることにした」


 蓮は頷いた。声は出さなかった。頷いて、薬草園を出た。


---


 同じ日の夕刻。


 善次郎が武術場の片隅にいた。外采棟の裏手にある土間の武術場だった。他に誰もいなかった。


 根張を握っていた。右手。


 一。振り下ろした。根張の重さが掌を伝う。


 二。右手の指は従っていた。


 三。法力の通りがほんの少し滑らかになった。右手の穢れ腐食は蓮の治療で骨と筋が繋がった。だが法力の流れ方が変わっていた。以前とは違う場所に力を入れなければ、同じ振りができない。


 四。まだ大丈夫だった。


 五。かつてはここで震えた。


 六。指が持っていた。


 七。根張が手の中にある。


 八——指先が痺れた。根張の柄が手の中で一瞬だけ滑った。握り直した。痺れが小指から薬指に広がっていた。


 善次郎は根張を地面に突き立てた。法力を通す。根が柄の先端から伸び、土に食い込んだ。一秒、二秒——三秒で止まった。根の先が地面の中で迷っている。以前なら一秒で地面を噛んだ。今は三秒かかった。根が方向を決めあぐねていた。


 善次郎は根を引き戻した。何も言わなかった。根張の柄を見た。もう一度握った。


 足音が聞こえた。砂利を踏む音。


「善次郎」


 朔だった。武術場の入り口に立っていた。


「手、どう?」


「七」


 朔が一瞬動きを止めた。理解した。五から七に増えた。


「踏破行までには間に合う?」


「……間に合わせる」


 短かった。「間に合わせる」。朔が響鳴器の話をしたとき、「間に合わせる」と言ったのと同じ言葉だった。善次郎はそれを知らなかった。善次郎はただ「間に合わせるしかない」と思っていただけだった。


 朔は武術場の端に腰を下ろした。善次郎は根張を壁に立てかけた。


「善次郎。昨日の——」


「知ってる」


 沈黙が落ちた。善次郎が根張の柄に手を伸ばした。右手の掌が太い柄の上を一度だけ滑った。撫でるように。根張から手を離した。


「指が空くのは、慣れない」


 善次郎の声は低かった。四人で出て三人で帰った班のことを言っている。善次郎は帰還簿の空白の行を見ていない。門柱の左手を見ていない。善次郎は「空いた指」で理解した。四本そろうはずの指が、三本で止まる感覚。


「……でも、指は残ってる」


 善次郎が右手を見た。五本の指があった。五振り目で震えた指が、七振り目まで持つようになった。痺れはまだある。でも五本の指は全部、根張を握れる。


 朔は何も言わなかった。善次郎が根張を壁から取った。素振りを再開した。一、二、三。朔はしばらくそれを見ていた。


---


 幕板小屋の灯りが揺れていた。


 灯し飯の時間だった。三方を板で囲っただけの吹きさらしの小屋に、四人が座っていた。椀と箸が並んでいた。凌が黙って飯を口に運んでいた。善次郎が右手で箸を持っていた。五振り目で痺れる手が、箸は持てた。


 蓮が汁物の椀を善次郎の前に置いた。


「ちゃんと食べなよ。善次郎くんも」


 善次郎は頷かなかった。だが椀を手に取った。蓮はそれで済ませた。善次郎が手に取ったなら食べる。


 凌が飯を半分ほど崩した。


「明日の巡哨は南だろ」


「うん。石牙丘陵の東側回り」


「穢れ灯、二番の灯が弱かった。善、帰りに法石を見てくれ」


「ああ」


 翌日の任務の話をしていた。殉職の翌日にも灰輪の巡哨がある。穢れ灯の法石が弱っているなら交換しなければならない。日常は止まらなかった。


 朔が汁を一口飲んだ。手帳を取り出した。昨日閉じた手帳だった。今日は開いた。


 帰還簿から写した。殉職した外采使の名前。名前の下に、二文字。


「四位」


 壮介の報告書を読んだときと同じ手つきだった。文字は正確で、筆跡は揺れなかった。数字ではなく名前を書いた。名前の後に位階を書いた。


 蓮が朔の手帳を見た。


「朔くん。ご飯中に手帳はやめなよ」


「……ごめん」


 朔は手帳を閉じた。椀に手を戻した。


 沈黙が数口分続いた。飯を食べ、汁を啜り、蓮が漬物の皿を回した。灯し飯の決まりごとがある——食べ終わるまで無言にならないこと。幕板小屋で食べる飯は、ただの飯ではなかった。帰還した者が生きている時間を噛みしめる時間だった。


 蓮が椀を両手で包んだ。汁の湯気が顔にかかった。


「巴さんに、聞いてきた」


 凌の箸が止まった。善次郎は食べ続けていたが、耳は蓮に向いていた。


「聖泉の儀(せいせんのぎ)っていう技があるって」


 凌が目だけを蓮に向けた。


「奥伝か」


「うん」


 蓮は椀の中の汁を見ていた。


「でもまだあたしには早いって。祓いの水を十秒以内にできるようになってからだって」


 朔が顔を上げた。


「祓いの水の……精度か」


「うん。今のあたしは十五秒。五秒、縮めるだけなのに」


 蓮が椀を膝の上に下ろした。


「遠い」


 善次郎が箸を置いた。音はなかった。善次郎の箸は音を立てない。椀の縁に箸を揃え、蓮の顔を見た。


「蓮」


「ん?」


「五秒は作れるものだ」


 蓮が善次郎を見た。善次郎の目は静かだった。


「……俺の手はそれを知ってる」


 五振り目で痺れた手が、七振り目まで持つようになった。五と七の間の二は、蓮の治療と善次郎の素振りと日々の積み重ねが作った数字だった。十五秒から十秒への五秒も、同じものだと善次郎は言っていた。足りない数字は作れる。三百歩から千歩への距離も、同じことだった。


 蓮が口元を緩めた。危うかった。泣きそうに見えたのが笑顔に変わった。あるいは笑顔で覆ったのかもしれない。


「善次郎くん、たまにいいこと言うよね」


「……たまにか」


 凌が鼻を鳴らした。善次郎の頬が微かに動いた。怒ったのではなく、照れたのでもなく、善次郎なりの反応だった。


 蓮が汁を啜った。温かかった。明日も巡哨がある。穢れ灯の法石の交換がある。蓮の祓いの水の訓練がある。善次郎の八振り目がある。朔の手帳に書かれた「次は千」がある。


 灯し飯が終わった。四人が椀を片付けた。凌が鶺鴒の柄を一度確かめた。善次郎が根張を背負い直した。蓮が手拭いを襟元に挟んだ。朔は手帳を懐に戻した。


 幕板小屋の灯りが風に揺れていた。灯りの向こうに外采門の暗い輪郭が見える。門の脇の殉職碑は闇に沈んでいた。碑に刻まれた名前は、朝になればまた夕陽に照らされる。


 明日も任務がある。


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