151話:芽吹きの後で
朝靄が農地に低く垂れていた。
外采門へ向かう道の左手に善次郎の畝が三列並んでいる。三つ目の畝は十日前より明らかに伸びていた。若い芽が列をなして地面を割り、もう膝丈に達しようとしている。
二人の人影が畝の間に屈んでいた。善次郎ではない。善次郎は今朝も浄身院にいるはずだった。木行適性のある二人が、手で土を確かめている。指を差し込み、引き抜き、掌の上で崩す。善次郎の所作を真似しているのだと一目でわかった。一人が顔を上げ、もう一人に何か言って頷いた。朝の土が柔らかいことを確認しているのだろう。
朔は足を止めなかった。善次郎の畝が善次郎のいない朝にも動いていることを視界の端に収め、歩き続けた。里の自給率が八割に近づいていることは手帳の数字で知っている。だがそれは数字であって、今ここで二人が土に手を差し込んでいる光景とは別のものだった。数字は事実を伝える。風景は朔に何も言わない。
外采門が見えてきた。門番の外采使が欠伸を噛み殺しながら灰の野の方角に目をやっていた。朝の靄が稜線のあたりで薄まっている。その薄い靄の向こうに、小さな橙の光が二つ灯っていた。
「……灯ってんな」
門番は独り言のように言って、また欠伸をした。
穢れ灯だった。灰輪の石牙丘陵と灰の野中央に配置した四灯のうち、外采門から見えるのは二つだけだ。朔がそれを設計し、壮介と配置を選定し、鶫の弓で設置した灯り。
朔は外采門をくぐり、控え詰め所に向かった。
灯りの先で、灰界端の石柱は五年前より二百歩近くに立っている。灯りは増えた。だが守るべき野が年ごとに痩せている。
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午後、浄身院の縁先で善次郎の右手を見た。
蓮が善次郎の隣に座り、癒除術を施していた。右手に淡い水色の光がかかっている。光は柔らかく、安定している。蓮の掌は震えていなかった。法力の流し方が菫の教えた七割に収まっている。一年前の蓮は十割で治そうとして手が追いつかなかった。今は呼吸のたびに法力を計っている。
「どう」
「……指は動く」
善次郎が右手を開いた。五本の指が広がる。親指から小指まで、順番に折り曲げた。途中で動きが引っかかる場所はない。だが善次郎の顔には何も浮かんでいなかった。箸は持てるようになっている。朝餉で左手から持ち替えて食べていた。十日前よりずっと安定している。
「根張は」
蓮が聞いた。
「五で痺れる」
善次郎は膝の上で拳を握った。一、二、三、四、五。五まで握ったところで指が開いた。六までは届かない。根張を振るには十まで持たなければならない。まだ半分だった。
「焦っちゃだめだよ」
「焦ってない」
善次郎の右手が膝に戻った。自然に膝を押さえる所作が癖になっている。無意識に右手をかばう動きだった。
朔と凌は縁先の柱に背を預けていた。午後の巡哨から帰った後だった。今日の灰輪は静かだったと報告を済ませている。凌が腕を組み、壁に寄りかかって目を閉じていた。眠っているのではない。蓮と善次郎の声を聞いている。
浄身院の中庭に視線を移した。木の根元に小さな花が一つ咲いていた。白い花弁が五枚、固い地面を割って開いている。浄身院の中庭は土が痩せて花が少ない場所だ。いつからあったのか分からない。善次郎の農地改良が里内の土壌法力の循環を微かに変えた波及なのかもしれないし、ただの季節の気まぐれかもしれない。
朔はそれを見ていた。白い花が地面を割っている。
蓮が善次郎の手を離して立ち上がった。縁先から浄身院の中を覗き込み、治療を待つ外采使の列を見た。
「空いてたね、今日」
静かな声だった。治療待ちの列がいつもより短い。寝台に余裕がある。穢れの軽傷なら活紋の札で前線処理できるようになってから、浄身院まで手当てを持ち込む外采使が減っている。蓮が月に十数枚ずつ作り続けている札が、ここの寝台に影響していた。
凌が薄く目を開けた。
「お前の札のおかげだろ」
「札があったから。あたしじゃない」
蓮はそう言った。自分の手柄とは思っていない。活紋の札を貼ったのは前線の外采使たちだったし、札の設計に朔の錬器術がなければ成り立たなかった。蓮が月に十数枚作り続けていることの意味を、蓮自身は「繋ぎ」としか認識していない。
だが蓮は同時に知っていた。手元にある札は再生産した六枚。二十四人の踏破行で使い切った五枚を補充しただけだ。月産の上限は変わらない。浄身院の空き寝台は、足りない治療を補えている間だけの猶予にすぎない。
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午後遅く。控え詰め所に戻った。
帰還予定表の横に掲示された灰輪安全経路の地図が更新されていた。穢れ灯の記録で怪異分布が色分けされ、新しい色が一つ増えている。凶星の法力誘引に関する注記が地図の隅に追加され、壮介の手で清げな字が書き添えられていた。班の出立前にこの地図を参照する運用がもう定着している。朔が壮介に記録を渡し、壮介が地図を作り、それが班の日常に組み込まれた。
壮介が帳簿の束を抱えて現れた。朔を見つけ、足を止めた。
「踏破行の記録をまとめた。見るか」
壮介の声はいつも通り平坦だった。朔が踏破行で持ち帰った法力誘引の記録を、壮介が自分で整理し直していた。外采寮の公式記録に組み込んだという。
「凶星の法力誘引は外采寮の正式な知見になった。迷霧圏での大規模な戦闘そのものが消耗戦を生むっていう制約が、記録として残る。次に行く奴が使えるように」
「……ありがとうございます」
「お前の手帳がなかったら地図にならなかった」
壮介が帳簿の束を脇に抱え直した。
「——だが地図はできた。次はそれを使う番だ」
凌が壮介の地図を横目で見ながら、鶺鴒の鞘に手をやった。柄の位置を確かめるような動作だった。凌にとって「次」は明確だ。もう一度行く。だが言葉にはしない。
朔は手帳を開いた。
左の頁に通信法具の回路の走り書きが並んでいた。石版から読み取った回路断片を基に、善次郎の絡脈術で信号の道を作る構想。玄外と話して以来、少しずつ書き足している。まだ完成していない。必要な部品がいくつも足りない。
右の頁に灰界端の後退速度を記した数字が並んでいた。西、南、北、東。四方角の石柱番号と、年ごとの後退幅。壮介から受け取った過去の帳簿の数字と朔自身が一年半かけて積み上げた数字が、同じ見開きの上に存在している。
二つの頁が見開きで隣り合っていた。左の走り書きは書いたばかりの墨の匂いがする。右の数字は右肩下がりのまま、止まっていない。
——間に合っていない。
朔は筆を持った。数字の下に、一行書き加えた。
だから、作る。
短かった。だが手帳にはそれだけでいい。
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夕暮れが外采棟の幕板小屋に差し込んでいた。
灯し飯の膳は薄い粥と漬物と青菜。いつもと変わらない。善次郎が右手で箸を持っていた。右手から左手に持ち替えなくなったのは三日前からだった。ぎこちない。だが十日前よりずっと安定している。
「あ、持ててる」
蓮が言った。
「……まだ引っかかる」
「前より速ぇよ」
凌が自分の粥を掻き込みながら言った。善次郎は何も返さなかった。左手が膝の上に降りている。寄りかからず、箸だけを右手に預けている。
幕板小屋の入口に影が差した。
剛丈だった。
頭領が灯し飯の場に来ることは珍しくない。だが朔の班に直接来ることは少なかった。大きな体が入口の光を遮り、幕板小屋の中が一瞬暗くなった。
「食ったか」
低い声だった。
「……はい」
凌が箸を置いた。敬語は最低限だった。善次郎は箸を止めて背筋を伸ばした。蓮が粥の椀を膝に下ろした。朔は剛丈の目を見た。
剛丈の鷹のような黄鉄色の目が朔を見ていた。右頬の古傷が薄暗がりの中で浮いている。
「壮介から報告書を受け取った。凶星の誘引間隔、灰界端の後退速度、旧坑道の構造。——お前の記録だ」
「はい」
「嶺壱に上げた」
朔は頷いた。報告書が壮介から剛丈を経てさらに上に行ったことを知った。二度目だった。一度目は朔自身が嶺壱の書斎に上がった。二度目は剛丈が運んだ。
剛丈の声が静かに落ちた。重要な命令ほど、この人は声を下げる。
「再び踏破行を計画する。迷霧圏最深部、銀嶺峠まで」
幕板小屋の空気が変わった。
間があった。薪の爆ぜる音。粥の湯気が薄暗い天井に向かって昇っている。四人の呼吸が一瞬揃った。
「お前たちは必ず選出する」
凌が腕を組んだ。善次郎が右手を握った。蓮の目が明るくなった。
「当たり前でしょ」
蓮の声は明るかった。だが軽くはない。この明るさは踏破行を越えた蓮の明るさだった。作らなければならないものの重さを知った上で、笑えている。
「……はい」
朔は静かに言った。手帳を両手で握る力が少し強くなった。
剛丈が出て行った。振り返らなかった。足音だけが幕板小屋から遠ざかり、外采棟の廊下に消えていく。
四人だけになった幕板小屋は静かだった。
「……響鳴器が要る」
朔が言った。
「通信が作れないまま行けば、また同じになる。尾根を越えたら声が届かなかった。善次郎の右手も、根来さんの肩も——通信があれば、もう少し早く退けた」
凌が手帳を見て口を開いた。
「作るんだろ」
善次郎の右手が膝の上で動いた。根張の柄を探す所作だった。だが傍にない。浄身院に預けている。
蓮が小さく息を吸った。
「あたしの弓も。……霊銀が要る」
善次郎が言った。
「届く」
一語だった。声に出した約束だった。右手を握って、開いた。十日前より少しだけ速く開いた。
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夜の外采棟。班の備品棚がある廊下は灯りが落ちていた。
凌の鶺鴒が壁に立てかけてあった。蒼白い鞘が暗がりの中で微かに光を帯びている。その隣に善次郎の根張。柄の霊木が法力の残響で仄かに灯っていた。
二つの武器の横に、蓮の練弓と朔の練錫杖が並んでいる。
練弓の弦は三度張り替えた。弓の端に小さな傷が重なっている。練錫杖の環は一つ欠けたまま。金属の輝きが鋳直されることなく褪せている。初期装備のまま、使い込まれて、ここにある。
鶺鴒と根張は完成した武器だった。練弓と練錫杖はまだ先にある。
鳥居の前にもこの四つはあった。足りないまま帰った夜に並んでいた。手帳に「足りないなら作り出す」と書いた日にも並んでいた。同じ光景が三度目になる。だが意味が変わり続けている。
鳴弦が朔の肩で小さく一声鳴いた。
「ピィ」
穏やかな声だった。安全の声。暗い廊下に四つの武器と一羽の蒼鷹。窓の外に灰の野の穢れ灯が二つだけ見えていた。橙の光が夜の稜線にぽつりと灯っている。
手帳を開いた。最後の頁に文字が並んでいた。「守るだけでは間に合わない」の横に「足りないなら作り出す」。その下に今日書いた「だから、作る」。三つの文が縦に並んでいる。余白に通信法具の回路図の走り書きがあり、その隣に——蓮の矢筒の素描と、錫杖の走り書きが小さく書き足されている。
全てがまだない。だが書いた。
穢れ灯は灯っている。だが灯りの向こうの灰界端は今夜も少しだけ里に近づいている。
芽は出ている。——だが、間に合うかは、まだ誰にもわからない。




