148話:深淵の牙・後
御簾が鳴った。
笑い声が膨れ上がる。男と女が混じり合ったようなくぐもった忍び笑いが回廊谷の岩壁に反響し、どこから来ているのか分からなくなる。朔は練錫杖を構え直した。結界の亀裂が広がっている。善次郎の根張にも亀裂が走っている。四体の鬼が狂ったように手綱を引き、車体が岩壁を擦りながら加速した。
御簾の隙間から何かが射出された。
黒い。細い。穢れを凝固させた針だった。放射状に広がり、朔の結界面に到達する——結界が軋んだ。一本は弾いた。二本目も。だが三本目が、亀裂の走った箇所を抜けてきた。
朔の頬を針が掠める。結界は保っている。だが亀裂が広がるたびに次の針が抜けてくる。数が多すぎる。一度に十本以上が放射状に飛び、亀裂を探して滑り込んでくる。
朔は歯を噛んだ。結界を張り直す法力が足りない。亀裂を塞いでも別の箇所が軋む。三位の火力が、結界の修復速度を上回っている。
虎太郎が前に出た。穿月を鞘から抜かず、太刀の鍔を左手で押し上げながら前衛の最前列に立つ。亀裂を抜けてきた針を、抜き打ちの一閃で叩き落とした。二本、三本。軌道を見切って最小の動きで弾いていく。朔の結界が持たない分を、虎太郎の太刀が塞いでいる。
善次郎が根張を前に突き出した。根の壁面が虎太郎の太刀の届かない範囲を覆う盾になる。針が根に突き刺さり、接触面から黒い腐食が広がっていく。
悲鳴が後方で上がった。鉄心班のほうだ。
「光政!」
鉄心の声だった。短く、硬い。根来が肩を押さえて崩れている。穢れの針が右肩を貫通していた。鉄心が即座に根来を引き下げ、菫が駆け寄って止血に入った。
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針の雨が止む。だが御簾は終わっていなかった。
黒い糸が御簾の裾から這い出した。穢れが凝った糸だ。地面を這い、石畳の隙間に入り込んでいく。朔は見ていた——糸が地面に触れた場所で、影が動かなくなる。
戸波班の前衛が足を止められた。一歩も動けない。影が石畳に縫い止められている。
「動くな! 足元!」
いつきが叫んだ。足の裏が石畳の振動の変化を拾ったのだ。善次郎が根張を地面に突き入れ、石畳ごと剥がして前衛を解放した。黒い糸が千切れて消える。
朔は燭明術の顕照を広げようとした。何も見えない。穢れの濃度が顕照を完全に飽和させている。回廊谷の奥から何が来ているのか、法力の光では測れない。
鳴弦だけが頭上から車体の動きを声で伝え続けていた。短い声。方向。距離。鳴弦の声だけが朔の目になっている。
「手綱を全て断つ。車体を止めてから御簾を開ける」
虎太郎の声だった。穿月を正眼に構え直している。討伐する。二十四名の戦力なら、それができる。朔は頷いた。
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全員が、持てるものの全てを出した。
朔は結界面を動かした。活界。結界を固定壁として張るのではなく、面を斜めに滑らせる。牛車の突進方向を岩壁側にずらす。車体が壁面に衝突し、鬼が一瞬よろめいた。
よろめいた鬼に向かって虎太郎が踏み込んだ。一歩。それだけだった。穿月が横薙ぎに閃き、手綱を引く鬼の腕を斬り落とした。鬼がのけぞる。だが手綱は切れない——手綱は腕ではなく鬼の胴に繋がっている。車体が再び動き出す。
「凌くん。手綱を」
虎太郎が鬼の正面に立ち、穿月で二撃目を放つ。鬼の爪を受け止め、押し返す。最小限の法力で最大の制圧——虎太郎が鬼を釘付けにしている間に、凌が側面に回り込んだ。
足に法力を回している。蒼白い光が足元に集まり、地面を蹴る速度が跳ね上がる。烈に教わった速度型の雷火術だ。虎太郎が押さえた鬼の鈍い脇を駆け抜けながら、鶺鴒が蒼白い弧を描いた。三本目の手綱が斬れる。鬼が崩れ落ちた。
法力が削れる。活界の二度目。結界面の角度を変え、牛車を反対側に逸らす。車輪が石畳を噛み、突進が止まる。三度目——もう動かない。法力が足りない。活界は三度が限界だった。
善次郎が根張を岩壁の割れ目に噛ませた。根が伸びて網を張り、四本目の手綱の鬼の足を絡め取る。鬼が転倒した。手綱が弛む。
彰吾が飛び込んだ。
「もらった」
軽い声で四本目を斬断した。残り二本。
爆砕札が車輪に衝突した。衝撃で車体が一瞬減速する。浄煙札の白い煙が穢れ針の軌道を照らし出す。縛地札が車軸を固定する——一瞬。札帯の残りが手に伝わる。軽い。
凌が五本目に向かった。
鶺鴒を振りかぶる——御簾から穢れの腕が伸びた。黒い。太い。生き物のような動きで凌の胴を弾く。凌が岩壁に背中を打ちつけた。
蓮が走った。
凌の背中に掌を当て、法力を流す。骨の状態を診ている。
「折れてない。動ける」
凌が立ち上がった。蓮を一瞥して頷き、再び車体に向かう。
五本目の鬼は凌の間合いで待っていない。車体の影から飛び出し、凌の腹を狙って腕を振る。凌は半歩退いて躱し、振り戻しの勢いのまま雷火術で加速した。鶺鴒の蒼白い光が夕暮れのように谷を照らす。
五本目が斬れた。
残り、一本。
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その瞬間だった。
いつきが足の裏で何かを拾った。石畳の振動ではない。もっと深い。岩盤を伝ってくる。
「——来る。後ろから。別の、大きいやつ」
回廊谷の奥の闇から、新しい気配が走ってきた。
鉄錆。四位の怪異だ。牛車との戦闘で放出された法力の残滓が谷の奥に流れ、それに引き寄せられてきた。法力の匂いを嗅いで集まる——。
凪の第二小隊が動いた。鉄心が壁を張り、根来が左手で刀を抜く。菫が根来の肩に巻いた布が赤くにじんでいた。光政が鉄錆の突進を受け止め、間合いを詰めて斬った。四位一体は処理できる。だが第二小隊の札帯が、さらに削られた。
虎太郎が朔に視線を送った。法力の放出量。四位の到達までの時間。このまま戦い続ければ——
「残りの手綱は一本だ。御簾を開けて核を壊せば終わる」
虎太郎の声は穏やかだった。そのとおりだ。一本斬り、御簾を開け、核を砕けば三位は終わる。凌ならできる。全員が分かっている。
朔は頷きかけた。
澪が声を上げた。
「もう一体。南側の岩壁の上から」
崖の上から影が降りてきた。夜叉走り。四位の怪異。牙をむき出しにして二十四名に向かってくる。法力の残滓に引かれた二体目。
鉄心班が対応を強いられた。菫が鉄心班の負傷者を治療しながら後退する。第二小隊が三位と四位の二正面に裂かれた。
朔は札帯を見た。
爆砕、残り一。浄煙、なし。縛地、なし。裂光、二。伝声、一組。善次郎の根張の表面を黒い腐食が広がっている。清息筒の布がとうに黒ずみ、替え布も限界が近い。護帯の光が痩せている。
そして朔は、最も重要な数字を計算した。
帰路まで三時間。四位の出現間隔は三十分を切っている。三位の核を壊す間にあと二体か三体は来る。それを倒す間にさらに来る。法力を使い続ける限り、四位は止まらない。
三位だけなら倒せる。
だが三位を倒しても、四位の波は終わらない。戦えば法力が漏れ、法力が漏れれば四位が来る。帰路の途中で護帯が切れれば穢れに飲まれる。
——勝っても帰れない。
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鳴弦を見上げた。
谷の後方を確認した鳴弦が声を返す。ピィ。穏やかな声だ。退路はまだ通れる。凪が守っている。だが四位がもう数体増えれば、退路も閉じるかもしれない。
朔は練錫杖を握り直した。
「虎太郎さん」
虎太郎が振り向いた。
「撤退します」
声は静かだった。震えてはいない。以前、これに似た言葉を口にしたことがある。あのときは「撤退すべきだと思います」だった。虎太郎に「もう少し」と退けられた。
今は違う。数字が全て揃っている。
「三位を倒しても四位が止まりません。法力を使えば使うほど呼び寄せる。帰路の消耗を考えると——」
凌が振り返った。
蒼白い光がまだ暴れている。鶺鴒を握る手に力が篭っている。法力が残っている。闘志が残っている。
「——もう少しで倒せる」
声に悔しさがあった。手綱は残り一本。御簾を開ければ核を壊せる。凌は分かっている。鶺鴒があれば、あと一振りで仕留められる。
朔は凌を見た。蒼白い光が鶺鴒の刀身に走っている。その光の向こうに、凌の目がある。怒りではない。悔しさだ。
「——帰れなくなる、凌」
静かな声だった。班長の声だった。
凌は何も言わなかった。蒼白い光が一瞬揺れた。
虎太郎が一拍だけ間を置いた。凌を見て、朔を見て、回廊谷の奥の闇を見た。
「正しい判断だ」
穏やかな声だった。だがその穏やかさは、凌の「倒せる」という悔しさを全て引き受けた上での穏やかさだった。
凌が鶺鴒を鞘に叩き込んだ。鍔が鳴る。一言も言わないまま歯を噛んでいた。
虎太郎が全班に命じた。
「全小隊撤退。凪さん、退路を開けてください」
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撤退は背を向けて逃げることではない。
殿が敵を抑え、中段が負傷者を運び、先頭班が退路を確保する。二十四名が一つの生き物のように後退していく。
虎太郎と凌が殿に立った。
虎太郎が穿月を構え、凌が鶺鴒を抜く。最前衛から最後衛へ——虎太郎は場所が変わっても立ち方が変わらない。不動。味方を背に、敵を正面に据える。凌の悔しさは戦い方に変わった。最後の手綱を斬る必要はない。牛車を追わせない距離を作ることが仕事だ。
虎太郎が車体の正面を穿月で受け止め、凌が側面から追いすがる鬼に斬撃を放つ。逸らす。殺すのではなく、逸らす。
御簾から穢れの腕が伸びた。凌を掴もうとする。凌は半歩退いて腕の軌道を見切り、鶺鴒を振り抜いた。
腕が斬れた。
蒼白い光が穢れの断面を焼く。凶星の体の一部を断つ。車体が軋んだ。腕を失った分、追撃の勢いが鈍る。
その隙を善次郎が使った。
根張を岩壁の割れ目に突き入れ、法力を注ぎ込む。右手の感覚が鈍い。穢れの針で腐食が広がっている。指先が応えない。だが法力は通る。根が伸び、岩壁の左右を繋ぐ壁になった。味方を通すための壁だ。敵を倒すためではない。全員を通すための壁。
中段が壁の向こうを走り抜ける。
「三体目。谷の奥から」
澪の声が来た。赤疱瘡。四位の三体目。退路を塞ごうとしている。鉄心班が壁で受け止め、凪班の前衛が斬った。護帯の光が痩せ細っていく。
蓮が走っていた。
撤退列の中を走りながら、手の中の札を数えている。活紋の札。残り五枚。月に十数枚しか作れない札の三分の一だ。
根来の肩に一枚。影縫いで足首を傷めた戸波班の前衛に一枚。善次郎の右手に一枚。凌の背中に一枚。鉄心班の前衛に一枚。
走りながら貼り、法力を流す。手が震えない。
菫が根来の傍で膝をついて掌を当てている。重傷の肩に七割の法力を注ぎ、安定化させている。止める。完璧に治すのではなく、七割で止める。残りの三割は次の患者のために残す。
「蓮くん、数が多い。最低限でいい」
「わかってる」
蓮は走り続けた。菫が止まって治し、蓮が走って繋ぐ。二人が同時に別の場所で別の役割を果たすことで、二十四名全体の生存率が上がる。
巴が蓮の走る姿を見ていた。撤退列の後方で負傷者の止血を終え、顔を上げたところだった。
「いい手だ」
蓮が振り返った。布越しに声が聞こえた。
「ありがとうございます」
「礼は全員帰ってからだよ」
凌が最後に裂光札を投げた。閃光が四位を怯ませる。その隙に凌が退き、善次郎が根張を引き抜いて走った。右手が震えている。壁が牛車の突進で砕けた。だがその数秒で、全員が通過していた。
忍び笑いが遠ざかっていく。
凶星は生きている。だが二十四名も全員生きている。
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半日かけて回廊谷を後退した。
初日の野営地の手前まで戻ったとき、凪が人数を確認した。
「全員います」
その声を聞いたとき、朔は右手に持っていた練錫杖をようやく下ろした。
善次郎の右手を蓮と菫が交互に治療していた。腐食は止まったが穢れが残っている。善次郎は根張を左手で握り、右手を開いたり閉じたりしている。感覚が戻らない。
朔は手帳を開いた。
書いた。車体の大きさ。手綱の数と鬼の配置。御簾の針——結界の亀裂を突く針の数。影縫いの範囲。活界は三度で限界。清息筒の飽和時間。護帯の光の減衰速度。
そして最も重要な数字を記した。
——法力放出から四位出現まで、推定三十分未満。
迷霧圏で法力を大量に使えば四位を呼ぶ。大規模戦闘そのものが、終わらない消耗戦を生む。この地で闘うということの、構造的な制約。
いつきが横に座った。足の裏を見ている。地面に触れた指先が微かに震えていた。
「いつき。あの二十秒がなかったら、間に合わなかった」
「……うん。わかってる」
静かな声だった。いつきの足の裏が武器になった。そのことを二人とも知っている。
凌が少し離れた場所に座っていた。鶺鴒を膝に載せて刃を見つめている。蒼白い光はもう消えている。凌の横顔を見たとき、朔は何も声をかけなかった。
虎太郎が全班長を集めた。
「銀嶺峠は断念する。帰還する」
霊銀は未回収だ。凶星がいる。そして凶星を倒しても、四位の波が終わらない以上、奥に進むこと自体が消耗戦になる。
朔は善次郎を見た。善次郎は何も言わなかった。右手を開いて閉じている。霊銀の振動を感じたのはこの先だ。だが手は届かない。
「ただし——地図は作れた」
虎太郎が言った。
「回廊谷の構造。凶星の行動範囲。法力が四位を呼ぶ凡その間隔。次はもっと奥に行ける」
記録と経験が次の遠征の基盤になる。失ったものはない。得たものがある。全員が生きて、帰る。
鳴弦が朔の右肩に戻った。穏やかな声。
ピィ。
安全の声だった。




