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あやかしの海、硝子の揺り籠 〜結界術師の次男坊は、独自開発の『法具』と『小隊戦術』で平安異世界を圧倒する〜  作者: 鶯神楽
2部:2幕

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147/173

147話:深淵の牙・前

 谷の底は夜明けが遅い。


 岩壁が東の空を遮り、光が差し込まないまま闇が長く残る。二十四人が起き上がるときも薄暗く、焚き火の残り火が灰色の岩肌をちらちらと舐めていた。


 善次郎が根張の柄に手を当てている。


 一晩中、岩の割れ目に食いついていた根を解放する作業だ。法力を抜くと根がゆっくりと収縮していく。岩から離れるとき、微かに石が軋む音がした。岩壁に刺さったまま夜を越した根は表面に白い痕を残していた。


 朔は傍で見ていた。昨夜と同じ手つきだ。法力の収束が丁寧で、根の一本一本に意識が通っている。以前の善次郎にはなかった所作だ。根張を手にしてから、善次郎の法力の出し入れは明らかに精密になっている。


 根張が完全に引き抜かれた。善次郎が柄を一振りして石粉を落とし、背に戻す。


「周囲の穢れは」


 朔は練錫杖を手に燭明術の顕照を薄く展開した。法力の光を拡げて穢れの濃淡を測る。昨日の夜とは違う。穢れの層が一段厚くなっている。灰輪の端で感じていた穢れとは桁が違う。回廊谷の入口で迷霧圏相当だった濃度が、夜を越して更に上がっている。


「迷霧圏より濃い。ここから先は顕照の解像度が落ちます」


 虎太郎は野営地の中央に立ち、全班長に視線を配った。


「ここから先は穢れが濃い。清息筒を巻け」


 全員が腰の荷から幅広の布を取り出した。霊木の繊維を織り込んだ布だ。鼻と口を覆うように首から巻きつけ、後頭部で結ぶ。声がくぐもる。大声を張れない。会話は短く、近い距離でしか通らなくなる。


 朔も布を巻いた。布越しに吸い込む空気は清浄ではないが、肺に直接穢れが入り込むのを繊維が遅らせる。護帯と合わせて穢れの蓄積速度を二から三割は抑えられる。ただし繊維は二時間ほどで飽和する。替え布は各自二枚。時間との戦いでもある。


 凌が布を巻きながら鶺鴒の柄に手をかけた。布の下から低い声が漏れる。


「息がしづらい」


「慣れろ」虎太郎の声もくぐもっている。だが穏やかさは変わらない。「回廊谷に入る。隊列を詰めて」


 二十四名が立ち上がり、二列縦隊を組んだ。第一小隊が前。第二小隊が後。朔班は第一小隊の中段。いつきの戸波班のすぐ後ろだ。


 鳴弦が朔の肩から飛び立ち、谷の上の細い空へ上がっていく。


---


 回廊谷は狭い。


 幅二十歩ほどの谷底を、両側の岩壁が十間以上の高さで挟み込んでいる。底には旧街道の名残があった。苔むした石畳が断片的に続き、かつてこの道を人が歩いた痕跡を残している。五つの里を繋いだ道だ。今は穢れの霧が石畳を這い、足元が湿っている。


 照敵灯の赤みがかった光が岩壁に映っている。穢れの濃い場所では照敵灯の光が赤く偏る。その赤が、歩くごとに深くなっていた。


 朔は燭明術を絞って維持している。解像度が落ちている。穢れの壁が厚すぎて、法力の光が吸い込まれていく。何がいるか、ではなく、何かがいるかどうかが曖昧になる。


「鳴弦のほうが正確だ」


 上空を飛ぶ鳴弦に意識を向けた。谷幅が狭く旋回に制限がかかるが、鳴弦の目は穢れに遮られない。ピィ。穏やかな声。まだ安全だ。


 いつきが朔の三歩前を歩いている。薄い草鞋の底が石畳を踏むたびに、足の裏で振動を拾っている。時折足を止め、片膝をつき、掌を石畳に当てて何かを確かめていた。精査する動作だ。足の裏で常時感じ取り、異常があれば掌で精密に読む——二段階の感知。


 善次郎が歩きながら左手を開いた。拳の中に霊鉄の小片がある。虎太郎から渡されたものだ。黒い金属の欠片を掌で転がしながら、右手で根張の柄を握っている。足が一瞬止まった。


「善次郎」


「……何か、鳴ってる」


 善次郎は根張の柄を岩壁に当てた。法力を通す。柄から根が伸びるのではなく、法力だけが岩の中を走っていく。絡脈術で岩の深部を聴く所作だ。


「鉄じゃない。もっと……高い」


 左手の霊鉄が微かに振動している。その振動と、岩壁を通じて伝わってくる振動が似ている。だが周波数が違う。霊鉄より高い。細い。


「霊銀か」朔が手帳を開いた。


「わからない。でも、いる。この谷の奥のどこかに——別の金属がある」


 善次郎は根張を岩壁から離し、再び歩き始めた。掌の霊鉄を握り直す。銀嶺峠は三日目か四日目の予定だ。まだ遠い。だが善次郎の絡脈術が——何十本もの木に触れ、何畝もの土壌を聴いてきた指先が——霊鉄とは異なるものの存在を掴みかけている。


 朔は手帳に記した。回廊谷中間部、岩壁越しの振動。霊鉄より高い周波数。方角は前方寄り。確証なし。善次郎の絡脈術で検出。


---


 塚穴蜥は石畳に化けていた。


 旧街道の石畳の上に、周囲の石と同じ灰色の平たい体が三つ並んでいる。穢れが濃い環境では燭明術の解像度が落ちる——地面に伏せた五位の怪異と石畳の区別がつかない。


 いつきが足を止めた。片膝をつき、掌を石畳に押し当てる。


「この石、振動がおかしい。生きてる」


 朔が鳴弦を低空に飛ばした。鳴弦が石畳の上を滑るように旋回し——鋭い声を発した。


 キィッ。


 五位以下の警戒の声。三つの「石」が同時に蠢いた。


 虎太郎が一歩も動かずに声を落とした。「先に叩くよ。凌くん」


「わかった」


 凌が鶺鴒を抜いた。善次郎は根張の石突を石畳に叩きつける。衝撃が地面を走り——擬態を維持できなくなった塚穴蜥の一体が跳ね上がった。石畳の下から扁平な体が剥がれるように浮き上がる。地面から離れた瞬間に体が白く膨らみ、大きな口が開く。


 凌の鶺鴒が閃いた。蒼白い光が一閃し、飛び出した塚穴蜥の口から尾まで断つ。体液が石畳に散る。


 二体目が横に逃げた。彰吾が岩壁を蹴って側面から跳び込み、腰の刀で首を落とす。軽い。塚穴蜥は擬態に特化した怪異で装甲は薄い。


 三体目が長い舌を伸ばして凌の足首を捕らえようとした。凌が舌を踏みつけ、法力を流した鶺鴒を振り下ろす。舌ごと体を断つ。蒼白い光がほんの一瞬だけ石畳を照らした。


 沈黙。


 法石を三つ回収する。


 彰吾が布越しに言った。「石畳に化けてるの、嫌だねぇ」


「灰輪にはこんなのいなかった」凌が鶺鴒の血を払った。


「ここから先は、灰輪の経験が通じない場所が増えるよ」


 虎太郎の声はくぐもっていたが、穏やかさは崩れていなかった。


---


 塚穴蜥を処理してから半刻。


 谷が少し広くなった場所で、いつきが立ち止まった。


 片膝をつくのではなく、両手を石畳に押し当て、体を低くした。目を閉じている。全身で地面の振動を聴いている。


 朔はいつきの変化に気づいた。足で拾い、掌で精査する——その手順が今は違う。掌を当てる前から足が止まっている。足の裏で感じ取った何かが、いつきを地面に引き寄せたのだ。


「……来る」


 いつきの声が震えていた。


「いつき」


「地面が震えてる。大きい。ものすごく大きいのが、谷の奥からこっちに向かってる」


 朔は鳴弦を谷の奥に向けた。鳴弦が霧の中に消えていく。まだ戻らない。何も見えていない。


 いつきの掌が石畳の上で白くなった。力が入っている。


「それと——たくさんの足音。大きいのから、逃げてる」


 大きいものが来る。それに追われて、たくさんの足音が谷を逆走してくる。上位の怪異が動くと下位が押し出される——壮介が語っていた灰輪の情報の中にあった言葉が頭をよぎった。怪異が北方に偏り始めている。あの圧がこれだったのだ。


 静寂が裂けた。


 鳴弦が急旋回して戻ってきた。霧の壁を突き破るように。そして——


 初めて聞く声でも、二度目の声でもなかった。昨夜の野営で一度だけ聞いた声。低く、長く、震える声。


 ピィィ…………。


 朔の肩に戻らなかった。朔の頭上で羽ばたき、回廊谷の奥を見据えている。尾羽が完全に膨らんでいる。「ピィ」でも「キィッ」でもない第三の声。声が二種に分化して以来、朔は鳴弦の声を読めるようになっていた。穏やかな声は安全。鋭い声は五位以下への警戒。この声は——分類できないほど大きいものが来ている。


「三位以上だ」


 虎太郎が振り返った。穏やかな仮面が剥がれた。目が変わる。迷霧圏遠征で見た目だ。北斗衆筆頭の目。


「朔くん、どこから」


「正面。回廊谷の奥。いつきが振動を拾ったのが先で、鳴弦が確認しました。二十秒ほど差がある。いつきのほうが早かった」


 虎太郎はいつきを一瞬だけ見た。いつきは地面から手を離し、立ち上がっていた。顔が蒼白だが、目は据わっている。


「全班長、聞こえたね」


 くぐもった声が谷底を走った。二十四人が動きを止めている。


「凶星一体。まず先に来る下位を片付ける。逃げてくる怪異と凶星を同時に相手にしたら崩壊する」


 朔は谷の幅を見た。二十歩。練錫杖を構える。


「虎太郎さん。谷幅なら僕の結界で一度遮れます。下位が来る前に結界壁を張って減速させれば、前衛が各個撃破できる」


「やってくれ」


 虎太郎が第一小隊に手で合図を送り、振り返って谷の奥に声を投げた。


「凪さん——第二小隊は側面と退路を」


 凪の声が谷を返ってきた。淡々とした声。温度がない。「了解」


 鉄心が黙って根来と早瀬と菫を手信号で動かした。第二小隊が谷の両壁に沿って散開する。


 朔は練錫杖を地面に突き立て、両手で柄を握った。法力を注ぐ。結界が展開する——回廊谷の幅を塞ぐ透明な壁。法力で編んだ面が、谷底の岩壁から岩壁へ渡された。善次郎が根張を結界の手前に突き立てて根を噛ませ、二重の壁を構える。


 凌が鶺鴒を構えた。蓮が弓の弦に指をかけた。


 谷の奥から、足音が来る。


 最初に現れたのは形代綴りだった。二体。呪符の破片を纏った蛇体の怪異が石畳を這うように駆けてくる。続いて鉄食みが一匹——鉄を食った甲虫の怪異が重い体を引きずりながら突進してくる。五位が三体。


 その背後から——朽宮が谷底を覆うように現れた。二体。崩れた宮殿を背負った四つ足の怪異。業魔級——四位だ。四位すら逃げている。


 朔の結界に形代綴りが衝突した。体が押し戻されるのではなく、泥の中を走るように速度が落ちる。


「凌」


「見えてる」


 凌が結界の隙間から飛び出した。蒼白い光が二度閃き、減速した形代綴りを二体同時に断つ。呪符の破片が飛散し、善次郎の右腕に切傷が走った。


 蓮が即座に駆け寄った。掌を善次郎の腕に当てる。癒除術の光が傷口を覆う。


「浅い。大丈夫」


 鉄食みが結界に激突した。重い。朔の足が半歩ずれた。善次郎が根張を横に構え、鉄食みの体当たりを壁で受け止める。根が岩に噛みつき、善次郎の体を動かさない。凌が側面に回り込み、鶺鴒で甲殻の隙間を突く。蒼白い光と共に鉄食みが崩れた。


 朽宮は第二小隊側に流れていた。谷の側面に散開した鉄心が壁を展開し、逃げてくる朽宮の進路を塞いだ。攻撃意思のない怪異は壁に衝突すると崩れるように足が止まる。根来が背後から斬り、早瀬が絡脈術で二体目の位置を報告し、鉄心の壁がそちらに向きを変える。手信号だけで動く。声はほとんどない。


 下位が片付いていく。法石を拾う余裕はなかった。


 凶星が近づいている。


---


 地鳴りが変わった。


 足音ではない。回転する何かが石畳を砕きながら接近してくる。車輪の音だ。金属と骨と——血が混じった、重く速い回転音。


 穢れが物理的に見えた。霧ではなく、黒い靄が車体の前方に押し出されてくる。清息筒の繊維が急速に黒ずんでいく。護帯の光が目に見えて痩せた——穢れをまとう中位の存在が至近に来ている。


 回廊谷の奥から、それが現れた。


 幅三間。高さ二間余り。巨大な牛車。


 漆塗りの装飾は剥げ落ち、木材は腐っている。だが車輪だけが真新しい血で濡れ、高速回転を続けていた。二つの車輪が石畳を削りながら回り、軸から巨大な火花が散る。御簾は固く閉ざされている。その中から——男女が混じり合ったような低い笑い声が漏れ出ていた。


 牛はいない。車体の前方から伸びた太い血管のような手綱が、六つの影に繋がれていた。首のない四つん這いの鬼たちが狂ったように車を引いている。首がない。肩の断面から穢れの蒸気を噴き上げながら、四肢で石畳を蹴立てて走る。


 黄泉牛車。凶星——三位。


 朔の顕照が灼けた。穢れが飽和している。測定の限界を超えた濃度が法力の光を塗りつぶしていく。


 「凪さん、第二小隊は退路を」虎太郎の声が短い。


 「退路は守ります」凪の声が返った。


 牛車が加速した。


 結界の展開が間に合わない速度だった。朔が結界壁を張り直す——だが車体が壁に激突した瞬間、法力が削られ、結界面に亀裂が走った。鳴弦が頭上で鋭く鳴く。ピィィ——恐怖ではない。怒りに近い声だった。


 善次郎が根張を地面に叩き込んだ。岩の割れ目に根を噛ませ、壁を重ねる。


「受け止める!」


 結界と根張の二重の壁。牛車の初撃が二枚の壁に衝突し、衝撃が朔の足を後退させる。善次郎は動かない。岩に噛みついた根張が善次郎の体を谷底に縫い止めている。


 凌が前に出た。鶺鴒に法力を通す。蒼白い光が刃に満ちる。手綱に繋がれた鬼の一体に跳びかかり——鶺鴒が手綱を断った。首のない鬼が崩れ落ち、穢れの蒸気が噴き上がる。だが残りの鬼が車を引き続ける。速度は落ちたが、止まらない。


 車輪が回転しながら巨大な礫を射出した。破砕した岩石が弾丸のように飛散し、前衛の周囲を打つ。蓮が善次郎の背中の陰に身を縮めた。善次郎の根張がまた一枚壁を重ねる——礫を弾いた。だが壁に細い亀裂が入った。


「蓮ちゃん! こっちに下がりな!」


 巴の声がくぐもった布越しに飛んできた。後方。癒し手の位置だ。


「まだ大丈夫!」


 蓮は善次郎の背中のすぐ後ろで練弓に矢を番えていた。善次郎の壁の隙間から牛車を見据えている。退かない。


 朔は牛車の構造を観ていた。突進力は車輪と鬼の牽引力による。核は御簾の中だ。だが御簾を開けるには突進を止めなければならない。


「手綱を切れ」虎太郎がくぐもった声で言った。「全部切れば車体は動力を失う」


 彰吾が側面から飛び込んだ。岩壁を蹴って高く跳び、落下の勢いで二本目の手綱を斬る。鬼が一体崩れた。残りは四本。


 牛車の速度は落ちたが、まだ動いている。残った四体の鬼が狂ったように速度を上げ——車体が回廊谷の岩壁に衝突した。岩がくだける。破片が飛散し、朔が結界を盾にして凌としゃがむ。


 澪が後方から声を上げた。平坦な声。感情がないのに、内容だけが鋭い。


「御簾の中。何かが準備されている。穢れの針——中から来る」


 御簾の中の本体がまだ動いていない。車輪と鬼による突進は第一段階にすぎない。澪の菌糸が御簾の中の気配を掴んでいる。二段階目の攻撃がまだ残っている。


 虎太郎が一瞬だけ朔を見た。


 朔は練錫杖を握り直した。結界にまた亀裂が入っている。善次郎の根張にも亀裂が走っている。長くは保たない。


 虎太郎が頷いた。


「気合を入れようか」


 穏やかな声だった。だが目が笑っていない。あの迷霧圏遠征のときと同じだ——生きて帰すための目が、黄泉牛車を見据えていた。


 牛車が軋みながら向きを変えた。車輪が再び回転を始める。御簾の奥で、忍び笑いが続いている。


 鳴弦が朔の頭上で、低く長い声を発した。


 ピィィ……。


 まだ闘いは始まったばかりだ。


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