146話:壁の向こう
灰の野は音がない。
風はある。西から吹き、乾いた草の匂いを東へ押している。だが音がない。鳥の声も虫の羽音もなく、二十四人の足が踏む枯れ草の擦過音だけが、灰色の地表を滑っていく。
空は鉛色。雲が低い。遠くに霧の壁が横たわっているが、まだ先だ。朔は二列縦隊の中段を歩いている。前方に虎太郎の背中。隣に凌。後ろに善次郎。蓮は善次郎の斜め後ろを歩いていて、練弓を背負った姿勢が朝と変わらない。
第一小隊が前。第二小隊が後。虎太郎が先頭を歩き、凪が殿を守る。朔班は第一小隊の中段——いつきの戸波班のすぐ後ろだ。いつきの足が地を踏む拍子が朔の前方で一定に刻まれている。
上空を鳴弦が旋回する。
ピィ。穏やかな声。安全。
灰の野は灰輪の中でも穢れが薄い。結界の端に近いが、西風が穢れを東に押し流すために滞留しにくい。地面は灰色がかった枯れ草と、露出した乾いた土が斑に続いている。足元で草が砕ける。踏めば粉になるほど乾いていた。
虎太郎が歩を緩めずに声を落とした。「朔くん、穢れの濃度は」
朔は燭明術を薄く展開している。法力を絞って半径三十歩の穢れの濃淡を見ている。「薄いです。灰輪の平常値の範囲内。怪異の気配はありません」
「いいね」
虎太郎は前を向いたまま歩き続ける。穏やかな声だが、目が風向きと地形をたえず測っているのが朔にはわかった。
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石牙丘陵の入口が見えた。
灰の野の平坦な地表が突然終わり、黒い岩肌が空に向かって突き上がっている。灰輪の中でも最も起伏が激しい地帯だ。朔は手帳のこの区域を何度も見返していた——以前、霊鉄を回収した遠征で初めて踏み込んだ場所だ。あのときは四人と八人の十二名だった。今は二十四名が同じ道を通ろうとしている。
虎太郎が立ち止まった。
「ここに一本」
朔が背負っていた木箱から穢れ灯の矢を一本取り出す。矢柄に穢れ灯の小型版が組み込まれている——鶫が組み上げた矢だ。里に残った鶫の代わりに、この矢を道筋の要所に射し込む。帰路の道標。
蓮が進み出た。練弓を構え、矢を番える。
「あたしが射つ。高いところに刺さればいいんでしょ」
蓮は丘陵の岩壁を見上げ、呼吸を整えた。弓の引きが静かに深くなる。鶫に教わった基礎の構え——あのときの蓮よりも肩が安定している。弦から指を離す。
矢が風を切り、十五間ほど上の岩棚に突き刺さった。穢れ灯が淡い光を灯す。灰色の岩壁に、小さな灯りがひとつ宿った。
「いい腕だね」虎太郎が目を細めた。
「鶫さんに比べたら全然」蓮は笑わずに言い、弓を下ろした。
巴が後ろから短く「上手いよ」と声をかけた。蓮は振り向いて頷いた。笑わない。だが口元が少しだけ緩んでいた。
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石牙丘陵を登り始めて半刻。
善次郎の歩幅が僅かに狭まった。
朔はその変化に気づいた。善次郎は根張を背負い、左手に霊鉄の小片を握っている。黙って歩いている。だが足の運びが門を出たときとは違う。
「善次郎」
「……土が黙ってる」
短い一言だった。善次郎は足を止めず、ただ地面を踏む一歩一歩に意識を落としている。灰輪の土壌は痩せている——それは何度も経験してきた。だがこの石牙丘陵を越えるあたりから、善次郎の足の裏にあった微かな応えが消えている。土が法力に応じない。静かに死んでいる。
朔は手帳を開いた。壮介と何日もかけて照合した数字が頁に並んでいる。北東の灰界端後退が最も速い区域——そこと、善次郎が感じている土壌の死が重なる。数字と感覚が同じことを指している。
善次郎は霊鉄の小片を拳で握り直した。
善次郎は何も言わなかった。拳を開かず、歩き続ける。
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石牙丘陵の足元に、毬栗蟲の群れが蠢いていた。
拳二つぶんの球体が灰色の地面を転がってくる。七位の雑妖だ。二十四名の行軍が発する法力の気配に怯えて逃げるものが大半だったが、逃げ遅れた数匹が足元で丸まっている。
凌の足が一匹を蹴り飛ばした。毬栗蟲が岩に当たって弾け、灰色の体液を撒き散らす。
「面倒だな」
「踏まないように。足を取られるよ」虎太郎が前を振り返らずに言った。
いつきが地面に手をつき、一呼吸の後に顔を上げた。
「この先五十歩ほど、地下に空洞がある。避けた方がいい」
朔は鳴弦を上空に放った。鳴弦が上昇し、旋回する。ピィ。安全を告げる穏やかな声。いつきが示した方角を避けて、空洞の横を通る道筋を手帳に書き込む。
「右に寄れる。少し迂回になるけど、地盤は安定してる」
虎太郎が頷き、第一小隊に手で合図を送った。列が静かに右に寄る。
二十四名。この規模で索敵の密度を維持しながら進むことの重さが、足の裏に溜まっていく。四人なら朔の燭明術といつきの地面感知で十分だった。だが二十四名が通る道幅は四人の道幅とは違う。見えない角度が増えている。
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石牙丘陵の西斜面を下りる行程で、地形が変わった。
岩の稜線が鋭く突き出し、視界を遮る尾根筋が行く手を塞いでいる。幅は二人が並んで歩ける程度しかない。二十四名が一度に通過するには狭すぎた。
「先行する」
虎太郎が第一小隊に指示を出した。第二小隊は凪の判断で尾根の手前で待機する。十二名が尾根に差しかかり——残りの十二名が岩の陰に立つ。
尾根を挟んで、視界が途切れた。
声を張った。岩壁に弾かれて消えた。二度目を試しても同じだった。尾根が音を吸い込むのではなく、反射させて散らしている。岩の面が複雑に折り重なっていて、声が直線で届かない。
彰吾が虎太郎のそばで足を止めた。
「伝声の札を使うか?」
虎太郎が一瞬間を置いた。首を振る。
「まだだ。伝声の札は一度きりだ。隊列が分かれた程度では切れない」
声が静かだった。穏やかだが、曖昧さがない。
「撤退か——誰かが死にかけたときに、初めて使う」
二十四名の遠征で各班に配られた伝声の札は二組ずつ。合計でも十二組。片道一回きりの使い捨てだ。ここで一枚使えば、その班は緊急通信の手段をひとつ失う。まだ一日目だ。
「旗を出そう」
彰吾が尾根の上に登った。身軽な動きで岩を掴み、稜線の上に立つ。第二小隊に向けて旗を高く振る。
数秒の間があった。凪側から応答の旗が上がる。了解。待機する。
連絡は通じた。だが旗が上がってから応答が返るまでに、七つか八つ数えた。
「旗で動きを合わせるのはきつい」虎太郎が腕を組んだ。「天候が崩れたら見えなくなる」
澪が菌糸を放っていた。糸のような法力の網が岩の表面を這い、尾根の向こうに伸びようとする。だが二十四名分の範囲を覆おうとすれば網が薄くなりすぎる。隊列が伸びた分だけ、菌糸が届く密度が落ちる。
「この距離では届かない」
澪の声に感情はなかった。事実を述べているだけだ。
朔は鳴弦を第二小隊に向けて飛ばした。鳴弦がピィと鳴きながら尾根を越え、凪の第二小隊の上を旋回する。凪が空を見上げた——鳴弦の飛来を確認した表情が見えた。「第一小隊の使い鳥が来た。安全の合図だ」と読み取れるだろう。だが細かい指示は伝わらない。鳴弦に言葉は載せられない。
朔は手帳の見開きを押さえた。回路図の頁は切り取って内工座に渡した。残っているのは自分の記憶だけだ。響伝の陣。法力の振動を媒体に載せて遠距離に送る原理。穢れ灯の循環回路は「留まる法力」を設計した——通信は「飛ぶ法力」を設計しなければならない。周波数の安定化。穢れ環境下での減衰補正。何が足りないかはわかっている。何をすればいいかはわからない。
「……足りない」
声が漏れた。朔は自分の呟きに驚いた。
凌が隣を歩いている。凌は何も言わない。ただ朔の手帳を一瞬見て、視線を前に戻した。
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尾根が続いた。視界も声も届かない区間が三百歩ほど続く。第一小隊は尾根の東側を歩き、第二小隊は西側で待機している。石牙丘陵の岩壁に阻まれて、互いの姿が完全に消えた。
いつきが朔のそばに来た。
「地面感知で振動を送れるかもしれない」
朔は足を止めた。いつきが屈み、地面に手を当てた。一定の拍子で法力を送り込む——木行の、柔らかい波動だ。土に染み込むように広がっていく。
善次郎が動いた。根張の石突を地面に突き立てる。根は伸ばさない。代わりに絡脈術で足の裏に意識を沈める。いつきの法力が地中を伝って——微かな振動が善次郎の足に届いた。
「……聞こえる」
善次郎が根張の石突で同じ拍子を地面に打った。三度。鈍い音が岩を伝う。
尾根の向こう。第二小隊側。早瀬仁が岩に膝をつき、掌を地面に当てていた。絡脈術で地中の振動を拾おうとしている。
「……鼓動が聞こえる。二つ……三つ。信号か」
鉄心が隣に立っていた。表情を変えない。
「数を数えろ」
早瀬が頷いた。三つ。善次郎の三つ。
極めて原始的な地面通信が成立した。一回叩けば停止。二回の前進。三回の危険。情報量は皆無に等しい。方角も状況も人数も伝わらない。だが視界がなくても——声が届かなくても——合図だけは通る。
いつきが立ち上がった。朔を見る。
「これが限界。でも叩く回数を増やせば、もう少し情報を載せられるかもしれない」
朔は手帳にすでに書いていた。地面通信。いつきの木行法力→善次郎の絡脈術→根張の石突→地中伝達→早瀬の絡脈術。三人の適性が偶然噛み合った結果。振動は法力の媒体になる。穢れ灯は「光を留める」設計だった。通信は「振動を飛ばす」設計が要る。
足の裏から来た手がかりだ。
「……これが通信の最小単位だ」
朔は手帳を閉じた。答えにはまだ遠い。だが種はある。
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回廊谷の入口に二十四名が到着したのは、日が傾き始めた頃だった。
谷の壁が両側に切り立っている。黒い岩肌が十間以上の高さで屹立し、底に旧街道の名残が走っていた。石畳の断片が砂に半ば埋もれ、かつてここを人が歩いた痕跡だけが残っている。風が谷を吹き抜けていた。穢れが滞留しにくい地形だ。
虎太郎は谷の奥を一度見てから、振り返った。
「ここで夜を越す。谷に入るのは明朝」
凪が水鏡瓢の栓を開いた。水の配給が始まる。二十四名分の水は凪班の二個の水鏡瓢で管理されている。凪が一人ずつに椀を渡す。
「明日以降はもう少し減る。節水してください」
凪の声は淡々としていた。温度がない。事実を述べているだけだ。だが「減る」という一語が、ここが里の外であることを改めて全員に刻んだ。
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野営地の陣地構築が始まった。
善次郎が根張を手に取り、岩場に向かった。法力を柄に通す。根が伸びて地面に食い込もうとする——だが灰輪の端の土壌は痩せきっている。根が浅い。数寸ほど地中に入ったところで土が崩れ、善次郎の手に力がなくなった感触が返ってくる。
善次郎は黙って根張を引き抜いた。周囲を見る。岩壁の根元に走る割れ目が目に入った。
根張を岩の割れ目に突き立てた。
法力を注ぐ。根が岩の隙間に入り込んでいく。土とは違う。岩は硬い。だが岩の割れ目には微かな隙間がある。根が隙間を探り、入り込み、法力で楔のように食いつく。膨らむ。動かない。
根は浅い。だが岩に噛みつくことは出来る。
「土が死んでいても、岩は骨だ」善次郎は根張の柄から手を離さずに言った。「骨に根を噛ませられる」
朔がそばに来ていた。善次郎が作り出した岩の固定点に手を当てる。動かない。法力の楔が岩の内部で食いついている。
「土壌がなくても防御陣地が作れる」
朔は練錫杖を構え、善次郎の固定点を基礎に簡易結界を展開した。結界の面が善次郎の根張に乗るように広がる。岩に噛みついた根が結界の土台になっている。
凌が鶺鴒を地面に突き立て、善次郎の仕事を見ていた。根が岩の隙間に食い込み、法力で膨張し、びくとも動かない。凌の目が僅かに見開かれた。
「岩ごと噛んでやがる」
善次郎は答えなかった。根張の柄に手を当てている。岩を通じた法力の感触を確かめている——農地の土壌とは違う手応え。硬い。だが応えはある。
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谷の反対側で、第二小隊が陣地を構築していた。
鉄心が岩壁に背を預け、谷を挟んで善次郎の仕事を見ていた。距離は三十歩ほどある。善次郎の手の動き、根張が岩に食い込む仕草、朔が結界を展開する順序——鉄心の視線は動かないが、何も見逃していない。
菫が隣にいた。菫もまた対岸を見ている。
「……大きくなった」
鉄心の声は小さかった。呟きに近い。
菫が笑った。きつい目元が柔らかくなる。
「あの子、鉄心さんの背中を見て育ったんですよ。それでやり方を見つけただけです」
「俺のやり方とは違う」
「違うから、いいんじゃないですか」
鉄心は答えなかった。
光政が荷を下ろしながら呟いた。「善次郎の壁は面白い」
鉄心班の三人が善次郎の成長を、それぞれの距離から見ている。父の班と息子の班が同じ遠征にいる——その静かな緊張と安堵が、谷の空気の中で交わることなく重なっていた。
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野営の準備が整った。
見張りの交代の順を虎太郎と凪が組み、焚き火が四つに分かれた。日が落ちるにつれて谷の壁の影が野営地を覆い、焚き火の光だけが岩壁を舐めた。
朔は鳴弦を飛ばした。回廊谷の奥に向けた長距離偵察だ。
燭明術を展開する。穢れの濃淡を見ようとする。だが——迷霧圏に近づくにつれて穢れの濃度が跳ね上がっていた。灰輪の巡哨域とは桁が違う。穢れの壁が厚すぎて、燭明術の光が吸い込まれていく。解像度が落ちる。何がいるか、ではなく、何かがいるかどうかすら曖昧になっていく。
術がすべる感覚だ。迷霧圏の遠征で経験している。
鳴弦が戻ってきた。
穏やかな声「ピィ」ではなかった。鋭い声「キィッ」でもなかった。
初めて聞く声だった。低く、長い。
ピィィ……。
朔が止まった。
鳴弦は朔の右肩に戻らなかった。岩の上に止まり、回廊谷の奥を見ている。尾羽が膨らんでいた。警戒している。だが「キィッ」を発しない。鋭い声は五位以上の怪異に対して出す声だ。それとは違う。「何かがいる。だが分類できない」——鳴弦の全身がそう言っていた。
「鳴弦。見えたのか」
鳴弦が首を傾げた。返答にならない。
朔は手帳を開いた。
回廊谷奥——正体不明。鳴弦が分類できない気配。穢れが濃すぎて、燭明術でも判別できない。距離は推定三千歩以上。
虎太郎が近づいてきた。焚き火の光が瞳に映っている。
「何か見えた?」
「見えてはいません」朔は手帳から顔を上げた。「鳴弦が……何かを感じたようです。ただ、特定できません」
虎太郎は回廊谷の奥を見た。闇が重なっている。霧が底を這っていた。
「そうだね。この先は、前に来たときとは違う場所だ」
穏やかな声だった。だが目が笑っていない。あの迷霧圏遠征のときと同じだ——経験者だけが持つ警戒の色が奥に沈んでいた。
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四つの焚き火が灰色の谷底を照らしている。
朔班は善次郎の根張で固めた岩の陰に火を焚いていた。蓮が巴から受け取った薬草を煎じて椀に注ぎ、四人に配る。善次郎が黙って飲んでいる。凌は鶺鴒を膝に置き、刃に映る焚き火の光を見ていた。
「静かだね」
蓮が言った。
「静かなのが、怖いところだよ」
朔は焚き火の光の中で答えた。
鳴弦は岩の上にいる。まだ回廊谷の奥を見ている。首を傾げもせず、ただ闇を見据えている。低く長い声の残響が、朔の耳の奥に沈んでいた。
焚き火の光が揺れた。善次郎が根張の柄にそっと手を当てた。岩を通じた法力を確かめるように。蓮が椀を両手で包んでいる。凌の背中が焚き火に温められている。
朔は手帳を閉じた。
数字にできないものが、闇の中にある。




