145話:数えた歩数
壁に掛かる帰還予定表の板が外されていた。代わりに白い板が掛かっている。七日から八日、と墨で書かれた横に、二十四の名前が縦二列で並んでいる。朔は板の前に立ち、指先で名前を追った。
第一小隊。矛代虎太郎、陣内彰吾、結城澪、薬師寺巴。——土御門朔、久我崎凌、志場善次郎、葛葉蓮。戸波宗弥、鹿野いつき、永野伊織、鏡隼人。
第二小隊。水前寺凪、藤巻長門、沢渡真帆、笠間丈司。——志場鉄心、根来光政、早瀬仁、峰岸菫。篠宮奏太、白石弥生、和泉朋也、柏木環。
指が最後の名前を離れたとき、背後で衣擦れが鳴った。
「いいね。全員揃った」
虎太郎が控え詰め所の入口に立っていた。穏やかな声だ。いつもと変わらない。だが琥珀の目がひとりひとりの顔を確認していく速度は、日常の灰輪巡哨の朝とは違う。
朔は板から離れ、班長たちの列に戻った。壮介が帳面を片手に控え詰め所の隅に立っている。壮介は遠征には出ない——里に残り、帰還を待つ側だ。
「道筋を確認する」
虎太郎が言い、壮介が帳面をめくった。
「穢れの通り道を避ければ、回廊谷の半ばまでは持つ」壮介の声は落ち着いている。手帳に記した旧坑道の位置と灰界端の後退方向——朔と何日もかけて練り上げた道筋だ。「問題は銀嶺峠から先だ。旧坑道の記録がない」
虎太郎が頷く。凪が水鏡瓢の数を確認する声が、低く短く落ちた。五つ。水の確保は第五班が担う。
「通信について確認しておく」
虎太郎の声が一段下がった。控え詰め所が静かになる。
「伝声の札は各班に二組ずつ。有効範囲は迷霧圏では短くなる。二個小隊が一緒に動ける間はいい。問題は隊列が伸びたときだ」
澪が静かに言い足した。「隊列が伸びると菌糸の網が届かなくなる」
朔は黙っていた。手帳の見開きの端に、石版から写し取った回路図の断片がある。響伝の陣——通信回路の一部。穢れ灯の循環回路と構造が似ていることはわかっている。だが「似ている」と「作れる」のあいだには、まだ何もない。
凌が朔を一瞬見た。視線はすぐに外れた。何も言わない。
「各班、視界内での旗信号と鳴弦の鳴き声で補う」虎太郎が全員を見渡す。「——足りないのはわかっている。足りないまま行くんだ」
朔の指が手帳の見開きを押さえた。
——足りないまま行く。
数週間前、訓練場で凌に言った言葉が戻ってくる。全然足りない。でも、始まりだね。あのとき凌は「お前がそう言うとまだ先があるって聞こえるから厄介だな」と返した。
今、朔は何も言えない。
「銀嶺峠で霊銀の採掘を行う」虎太郎が話を進めた。「善次郎くん、絡脈術で鉱脈を見つけられるかな」
「霊鉄なら聴いたことがある」善次郎が答えた。一語ずつ、慎重に。「霊銀は……わからない」
討物所から預かった小さな包みを善次郎に差し出した。布を開くと、親指の爪ほどの霊鉄の欠片が灯りを受けて鈍く光った。
「霊銀は霊鉄と振動が近い。まずこれで思い出して」
善次郎が霊鉄を拳に握り込んだ。黙って頷く。
「霊銀が見つかったら」蓮が声を上げた。「あたしの弓の素材も」
虎太郎がゆるく笑った。「うん。弓の素材も一緒に」
朔は蓮を見た。蓮の目は真っ直ぐだ。
護帯の法石確認が始まった。全員の帯が満ちた光を放っている。出発前の最大充填だ。札帯の残数を各班長が読み上げる声が重なる。影写しの感光紙は十二枚。穢れ灯の矢が木箱に十二本、鶫が昨夜のうちに用意していた。鶫本人は里に残る。烈も、紅葉も。灰輪三班の交代を維持するために必要な人員だ。穢れ灯の矢は道筋の要所に射し込んで、帰路の道標にする。
帰る道を、灯りで繋ぐ。
---
外采門の前。
空はまだ暗い。東の際がわずかに白んでいるが、星はまだ消えていない。殉職碑のそばに鴉が一羽止まっていた。門の隙間から灰と枯れ草の匂いが流れ込んでいる。
遠征に出ない外采使たちが、控え詰め所の壁沿いに立っていた。鶫の第三班。烈の第四班。紅葉の第六班。それから通常班が数班。見送る側と出る側のあいだに、声はない。
「土御門」
千早が門の横に立っていた。灰輪三班の交代のうち、千早の班は今日の巡哨に出る。出発を見届けてから門を出るつもりだ。
朔が振り向く。千早の目は真っ直ぐだった。
「全員帰れよ」
声が硬い。
朔はその硬さを知っている。あの日——郁が帰らなかった日の千早の声と同じだ。止められなかった。ごめん。あの声と同じ硬さで、千早は今、別のことを言っている。帰れ、と。命じている。
「……帰るよ」
千早が朔の肩を一度叩いた。軽い。だが指に力がこもっていた。
千早が凌の方を見た。凌は顎を引いた。千早が善次郎に「気をつけてね」と言い、蓮に向き直った。
「蓮、あんたは走りすぎないで」
「千早さんも、灰輪お願いね」
千早が小さく笑った。笑うと、硬さが少しだけ緩んだ。
千早の後ろに、梶がいた。
門柱のそばで、拳を握っている。声はかけない。朔が梶に気づくと、梶は一瞬目を合わせ、すぐに逸らした。
「……行ってこい」
小さい声だった。いつもの軽さがない。梶は遠征に選ばれなかった。自分の力がまだ足りないことを知っている。だが足は竦んでいない。
行ってこい、と梶は言った。次は自分が行くのだと、声の奥で言っていた。
「朔くん」
いつきが朔のそばに来た。第一小隊に同行するため、装備を整えている。背が少し伸びた——配属のころよりも肩幅が広い。
「灰輪北部の地面感知の記録を更新した。石牙丘陵を越えるあたりで振動の型が変わる場所がある。岩の下に空洞があるかもしれない」
朔は手帳を開いた。いつきの示す場所を書き写す。石牙丘陵の北東。地下の構造が変わる地点。手帳に記号が増えていく。
「鳴弦が空から見て、僕が地面から触れば、両方から見える」
いつきの声は穏やかだった。霊鉄の遠征のときと同じ言葉だ。地の目と空の目。鳴弦の翼と、いつきの足の裏と。
「ありがとう。いつきの目が頼りだ」
いつきが小さく笑った。それから、少し静かに言った。
「郁は……きっと一緒に飛んでると思うよ」
朔は一瞬止まった。右肩の鳴弦を見る。鳴弦は首を傾げ、ピィと鳴いた。穏やかな声。安全だと言っている。
朔は何も返さなかった。頷いて、手帳を閉じた。
---
二十四名が門の前に整列した。
虎太郎が先頭。凪が後方。鎮護寮の結界担当官が印を結び、門の結界紋が淡く光った。
虎太郎が振り返らずに門柱に右手で触れた。いつもの所作だ。朔が初めて見たのは見習い期のころだった。虎太郎は毎回、門を出るときと帰るときに門柱に触れる。くせだよ、と笑って言った。
朔は自分の右手を門柱に伸ばした。
石は冷たかった。指先から掌へ、硬い感触が伝わる。帰ってくる。この門を、もう一度くぐる。
手を放した。振り返らない。
軋み音がして、門が開いた。
灰と枯れ草の匂いが一気に流れ込んだ。空気が変わる——結界の内と外の境。一歩ぶんの距離で、世界が切り替わる。
門の外に灰の野が広がっていた。西部。見通しは良い。空は鉛色。遠くに迷霧圏の霧が壁のように横たわっている。
朔の右肩から鳴弦が飛び立った。翼が空を叩き、旋回する。灰色の空のなかで、蒼鷹の翼だけが一点の色だった。
ピィ、と鳴弦の穏やかな声が降ってくる。安全の合図。
「行くよ」
虎太郎の声は静かだった。
二十四名が門をくぐった。善次郎の根張が背中で揺れる。凌の鶺鴒の柄が朝の光を弾いた。蓮の練弓。朔の練錫杖。
朔は歩きながら手帳を開いた。見開きの左の頁に灰界端の後退の記録が並んでいる。右の頁は白紙だった。
朔は最初の空白の行に、小さく記した。
一歩目。
手帳を閉じた。歩く。
灰の野を二十四名が歩いている。鳴弦が上空を飛ぶ。
背後で門が閉まる音が、遠く響いた。
誰も振り返らない。




