144話:三つ目の畝
冬を越えた朝は、土が柔らかい。
善次郎が農地に立っていた。三つ目の畝の列に沿って、薄い緑が筋を引いている。若芽だった。冬の間に種を下ろし、樹相術で法力を通し続けた三畝目の種子が、春の日差しに応えて土を割った。
善次郎の手が芽のそばの土を摘んだ。指の腹で潰す。水分と法力の残りを確かめる所作——何十回と繰り返してきた手つきだった。三人の木行適性者が畝の間に入り、善次郎の指示で水遣りと法力の導きをこなしている。善次郎は黙って見ていた。手を出さない。一畝目のときは善次郎がすべてやった。二畝目は善次郎が一人で繰り返した。三畝目は——彼らがやっている。
朔は農地の脇の道を歩いていた。控え詰め所への道すがら。畝の列と人の姿が目に入った。善次郎と目が合った。善次郎は顎を微かに引いただけだった。朔もまた何も言わなかった。
三つ目の畝。善次郎がやったことだ。朔が法石の配置を設計したのは一畝目だけで、二畝目以降は善次郎が自力で手順を組み上げた。木行適性者に教え始めたのも善次郎だ。自給率は概ね八割に近づいている。おかずが一品増えた、と言った外采使がいた。それは善次郎が土に手を入れ続けた三年の積み重なりだった。
朔は歩き続けた。
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控え詰め所に着いた。
壮介が置いていった紙片が机の上にあった。穢れ灯配備から三ヶ月分の穢れ濃度推移と、水位記録の最新値が壮介の字で書き写してある。几帳面な字だった。壮介はいつも朔が来る前に記録を揃えてくれる。
朔は手帳を開いた。石版の頁を切り取った跡——綴じの真ん中の空白は残っている。その隣に、新しい頁がある。灰界端の後退の記録を書き足した頁に、壮介の紙片の数値を転記し始めた。
手帳の見開きに三つの記録が並んだ。
左の頁。灰界端の後退速度。西方、南方、北方、北東方——方角ごとに矢印の長さが書いてある。穢れ灯を配備してから三ヶ月。矢印の長さは、配備の前と変わっていなかった。穢れ灯があってもなくても、灰界端は同じ速度で後退している。
右の頁。井戸の縄の長さの変化から算出した水位低下。こちらも同じ傾きで右肩下がりの線が続いている。
そして、頁の下部に書き加えたもの。穢れ灯による巡哨効率化の効果——遭遇予測精度の向上、法石残量の改善値、巡哨の廻りの三班化。数字は確かに良くなっている。灰輪の巡哨は楽になった。外采使の負担は減った。
だがそれは、人間の側が変わったことを示しているだけだった。
灰界端は動いていない。水位は動いていない。穢れ灯で変わったのは、巡哨の効率だ。遭遇の予測精度だ。法石の使い方だ。すべて、人間の側のことだ。
朔は二つの右肩下がりの傾きを指でなぞった。灰界端の後退速度と水位の低下が、同じ角度で同じ方向に落ちている。穢れ灯は確かに里を変えた。だが里の外は——何も変わっていない。
手帳の余白に何も書き加えなかった。嶺壱に渡した報告書の「守るだけでは間に合わない」の一行が、まだ前に進んでいない。
壮介が控え詰め所に入ってきた。朔の手帳の見開きを一瞥した。
「見たか」
「……はい」
壮介が地図を広げた。灰界端後退の矢印と旧坑道の位置を重ねた地図——数週間前に二人で確認したものに、新しい印が加わっている。
「旧坑道の位置を合わせると、後退が速い方角が全部繋がる。穢れの通り道は地形が作ってる」
朔は頷いた。壮介が指で北東から南西への線をなぞった。
「踏破行が決まったら、旧坑道の位置を先に確認するべきだ。穢れの通り道がわかれば——」
「安全な道筋が変わる」
「ああ。だが逆もだ」
壮介が指を止めた。
「旧坑道を通れば、穢れの深いところに最短で辿り着ける」
朔はその言葉を手帳に書いた。穢れの通り道は、最短の道でもある。旧坑道は里の弱点であると同時に、迷霧圏深部への最も効率的な経路になり得る。
書きながら、朝の農地を思い出した。三つ目の畝に薄い緑が並んでいた。里は確かに変わった。善次郎の手で畝は増え、穢れ灯で巡哨は安定し、活紋の札で帰還率は上がった。
だが手帳の図は交差している。改善の線は横ばいか微増で、衰退の線は同じ傾きで右肩下がりだ。追いつかない。
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浄身院の薬草園裏手。昼。
蓮が法力水の精製を終えて外に出ると、巴と菫がいた。三人が同時に浄身院にいるのは珍しかった。巴は虎太郎の班の帰還後の体調管理で立ち寄り、菫は鉄心の班の帰還に随伴して戻ったところだった。
蓮は薬草を手にしていた。活紋の札の材料にする法力水を精製した残りの灰結び草だった。
「巴さん」
巴が振り向いた。蓮は笑っていなかった。
「迷霧圏遠征が増えるとしたら、癒し手はどうなるんですか」
巴が蓮を見た。腕を組んだまま一拍黙った。
「今のままだと基本的には迷霧圏遠征に同行する。迷霧圏遠征に参加しない通常班は活紋の札だけが頼りになる」
菫が口を開いた。
「あの札がなかったら、過去の遠征で全員は帰れなかったかもしれない」
蓮は頷かなかった。頷けなかった。
「あたしは月に十数枚しか作れない。全班に配ったら、一班あたり一枚。……それで五位と当たったら」
巴が黙って腕を組んだまま蓮を見た。
「足りないのは、あたしの腕じゃなくて——」
「人だ」
巴の声は短かった。
沈黙が薬草園の裏手に落ちた。薬草の匂いが風に混じっている。
「もう一人……いや、二人はいてほしい。里全体に、前線で動ける癒し手が。だが、いない」
菫が腕を下ろした。
「浄身院の癒し手は後方に必要だから引き抜けない。教導寮に癒除術の高適性者は……」
「去年も、今年も一人もいない」
蓮の声は平坦だった。怒りでも諦めでもなく、事実を口にしているだけだった。
蓮が手元の薬草を見た。灰結び草の茎が指の間に挟まっている。
「だから、新しい弓が要る」
巴と菫が蓮を見た。
「あたしの弓に癒除術を載せられたら……矢で遠くの人を治せたら。あたしが走らなくても、矢が届く」
巴が小さく笑った。
「そうだね」
菫が蓮の方に体を向けた。
「そのためには霊銀が要るんだよね」
「迷霧圏の奥にあるって聞いた。銀嶺峠」
巴の笑みが消えた。
「踏破行か」
「踏破行のとき、あたしの弓の素材も一緒に取ってきてもらう」
巴が蓮を見た。
「取ってきてもらう、じゃなくて——お前も行くんだろ」
蓮が笑った。今度は笑った。
「そうでした」
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夕刻。控え詰め所。
外采使の全班長が集められていた。通常班の班長と北斗衆の班長たち。控え詰め所はそれほど広い場所ではなく、十人を超える人数が入ると壁際まで詰まった。
剛丈が立っていた。袖を捲った腕を組み、室内を見渡した。
「いいか」
口癖の前置き。室内が静まった。
「穢れ灯のおかげで灰輪の巡哨は楽になった。遭遇事故は減り、法石の残量管理も改善した」
剛丈の声は大きくなかった。事実の報告。
「四班で回していた灰輪の巡哨を三班に縮減する。浮いた分は遠征の廻りに回す」
班長の誰かが小さく息を吐いた。灰輪の巡哨が四班から三班になる。人手が浮く。その人手は——外に出る。
剛丈の声が少し低くなった。
「灰輪が安定した分、外に出せる頭数が増えた。……だから言う」
全員の視線が剛丈に集まった。
「迷霧圏最深部への長期遠征を検討する」
室内が静まった。
「踏破行だ。二個小隊、二十四名。時期は春以降を目標にする。詳細はこれから詰める」
班長たちの表情が変わった。北斗衆の班長たちは静かに受け止めていた。通常班の班長のうち一人の呼吸が僅かに速くなった。朔は黙って剛丈を見ていた。
剛丈が室内を見渡した。
「問題がある」
声が重くなった。
「二十四名が散り散りに動いたら、声が届かない。澪の菌糸にも限界がある。——通信手段がない」
沈黙が控え詰め所を満たした。
「過去の踏破行では伝声の札と肉声で回していた。それで何人死んだかは帰還簿に残っている」
班長の誰も答えなかった。それが答えだった。
剛丈は朔を見なかった。
「各班、自分の班で使える通信の工夫があるなら持ってこい。札でも術式でも鳴き声でもいい。なければないで、伝声の札の増産を斎具所に頼む」
朔は黙っていた。石版から読み取った通信回路の断片が頭の中にある。穢れ灯の循環回路と構造が似ていた。だが似ているだけだ。回路の一部分を読み取れただけで、通信法具を作れるとは言えない。
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外采棟の食卓。灯し飯。
蓮が箸を持ったまま言った。
「踏破行だって」
凌が飯を掬う手を止めた。
「聞こえてた。二十四名。……多いな」
善次郎は黙って飯を食べている。
朔が言った。
「穢れ灯で灰輪を守る余裕ができた分、外に出られるようになった。灰輪を守る力が、外に踏み出す力に変わった」
凌が朔を見た。
「お前の穢れ灯が遠征のきっかけを作ったってことか」
朔は答えなかった。善次郎が箸を止めた。
「旧坑道の位置、わかってるのか」
朔が顔を上げた。
「壮介さんと整理した。穢れの通り道だ。でも逆に言えば——」
「最短の道にもなる」
善次郎の声は低かった。畝に手を入れ続けた善次郎は、穢れが土壌に沿って食い込む構造を掌で知っている。穢れの通り道は弱い地層に沿う。弱い地層は穴が多い。穴が多い場所は通りやすい。善次郎の土壌の知識と、壮介の記録が同じ結論に辿り着いていた。
朔は手帳を取り出さなかった。今は飯の時間だ。
凌が箸を口に運んだ。善次郎が飯を掬った。蓮が椀に口をつけた。
灯し飯の灯りが四人の顔を照らしている。窓の外は暗い。灰輪の向こうに穢れ灯の光が二つ見える。丘の向こうの残り二灯は見えないが、確かに灯っている。
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食卓が片付いた後。
外采棟の壁に鶺鴒と根張が並んで立てかけてあった。鶺鴒の刀身は消えた灯りの中でもうっすらと光を反射している。蒼白い金属光沢が、壁の木目に細い筋を引いていた。根張の霊木の柄は暗がりに溶けていた。どこまでが木で、どこからが影か、光のない場所では区別がつかない。
そのそばに、蓮の練弓と朔の練錫杖が並んでいる。どちらも入寮時に配られた初期装備のままだった。鶺鴒の蒼白い光と根張の暗い木目のあいだで、練弓と練錫杖はただの道具として壁に寄りかかっている。まだ何も宿していない。
鳴弦がピィと鳴いた。梁の上から降りてきて、朔の錫杖の頭に止まった。足元で結縁紐が僅かに揺れた。薄鼠と琥珀の二色が、暗い廊下の端で微かに光る。
二人の武器はまだ先にある。




