143話:異常なし
石版の裏側は、指の腹で撫でると微かに温かかった。
朝の光が斎具所の工房に差し込んでいる。炉の火は落としてあり、金属の匂いの代わりに、磨き粉と油の匂いがほの暗い天井に漂っていた。朔は石版を布から出して、玄外の前に置いた。
「玄外さん、これを見てほしいんです」
玄外が石版を手に取った。ひっくり返し、傾け、掌で縁を辿った。何も言わない。朔は手帳を開いて横に並べた。昨日の夜に書き足した回路図の断片が見開きに広がっている。左の頁に穢れ灯の循環回路。右の頁に石版から写し取った法力回路。
玄外の手が石版の表面を撫でた。一箇所で止まった。爪の先で溝の走り方を掻くように確認する。手の動きが何度か往復した。
「……法力の入射角が一定だ」
朔が手帳から顔を上げた。
玄外が石版の溝の角度を示した。刻まれた線は一本一本が同じ深さで、同じ傾斜で走っている。手で一本ずつ彫ったのであれば、角度にばらつきが出る。
「治具があったはず」
玄外は石版を炉の横の平らな台に置いた。親指で溝の始点と終点を辿る。
「固定された型で押してる。一品ものじゃない」
朔の呼吸が一拍止まった。
「……同じ型から何十枚でも作れる構造ですか」
「量産だ」
量産前提。この石版は術式を一枚ずつ手で彫った貴重品ではない。同じ設計の回路を複数の石版に焼き付けて——配るための技術だった。五星連珠の時代には、術式の知識が「配れた」。
玄外が石版の断面を手で挟んだ。素材の質を確かめている。
「これは討物所にも見せたほうがいい。材質と刻みの深さは——親父のほうが読める」
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玄外に連れられて討物所に入った。
鋼一の工房は斎具所より暗い。炉の火が低く燃えていて、赤い光が壁の道具を照らしていた。鍛冶台の上に半分打ち終えた刃物の素材が置いてある。鋼一は鍛造の手を止め、石版を受け取った。
大きな手のひらで石版を包むように持った。親指で表面を撫でる。武具鍛冶が金属の歪みを手で読むのと同じ所作だった。その手が止まった。
「……法力が、まだ残っている」
朔の耳が言葉を拾った。残っている。この石版は灰界端の土の中に埋まっていた。風化で表面は白く濁り、縁は欠けていた。それでも法力が消えていない。
鋼一が石版を傾けた。炉の光に透かすようにして構造を見る。朔は息を止めた。鋼一の目は石版の断面を読んでいた。法力の残り方——石の中に微かに宿っている五行の色が、炉の赤い光に映えて揺れる。
「法力の残り方が、護帯の法石枠と似ている」
朔の胸がきしんだ。
護帯の法石枠は朔が相生循環回路の原理に基づいて設計した。法力が一方向に流れるのではなく、五行の相生の順で循環する。枠の中で法力が巡り続けるから、法石が長持ちする。その原理を朔は——新しく作ったはずだった。
鋼一の声は淡々としていた。
「五星連珠の石版工が同じことをやっていたとすれば、逆だ。お前が発明したのではなく、掘り当てた」
掘り当てた。
朔はその言葉を飲み込んだ。穢れ灯の循環回路を設計したとき、自分で思いついたと思っていた。けれど五星連珠の時代に既にあった原理だとすれば——。
掘り当てた。新しいものではなく、旧いものの断片を手に拾い上げた。
鋼一が石版を作業台に置いた。
「これは内工座で正式に預かる。討物所と斎具所の合同で調べる」
朔は石版を見た。壮介が灰界端から掘り出し、朔が顕照で読み取り、玄外が製法を見抜き、鋼一が法力の残り方を読んだ。一人では、ここまで辿り着けなかった。
鋼一がもう一つ、朔の手帳に目を向けた。穢れ灯の循環回路図と石版の回路図の断片が見開きで並んでいる。
「この頁をよこせ」
朔は手帳を握った。右手の指先に力が入った。これは自分の記録だ。穢れ灯の回路を何十回も書き直した頁。石版の溝を一本ずつ指でなぞって写し取った夜の時間が、そこにある。
だが——預けるのは石版だけではない。
手帳の綴じを開いた。見開き二頁を丁寧に切り取った。紙が薄い音を立てた。
鋼一が頁を受け取った。紙の質を手で確かめ、石版と並べて台に置いた。
「お前の影写し。あれで別の石版も記録して持ってこい。どこの石版でも、法力が残っていれば手がかりになる」
「……はい」
玄外が石版の表面を撫でる手を止めずに呟いた。
「悪くないな、この石。火の通り方が面白い」
朔は切り取った頁の跡——手帳に残った空白を見た。二枚分の穴が、綴じの真ん中に開いている。渡した。個人の記録が、組織の解析資料になった。
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翌日。通常巡哨からの帰還。
浄身院派出所の検査場に四人が並んだ。外采門の内側、木造の仮設小屋に簡易の幕が垂れている。穢れ検査の列は短い。検穢使が一人、白い面を被って立っていた。
凌が先だった。腕を広げ、検穢使の手が防穢衣の上を滑る。穢れの残留を探る定型の所作。
「異常なし」
善次郎。同じ手順。根張を壁に立てかけたまま動かない。
「異常なし」
蓮。防穢衣の袖を少し引き上げ、腕の内側まで検査を受ける。
「異常なし」
朔の番になった。
白面の検穢使が近づいた。面番号は見えない。朔は息を止めなかった。手の動き。首の角度。面の縁から覗く顎の輪郭。
知っている。
検穢使の手が朔の防穢衣の表面を滑った。右肩から左肩、胸元、腰。穢れの残留を探る——いつもと同じ所作。法力の微かな波動が指先から伝わってくる。察役の手は的確で、無駄がない。
「異常なし」
定型の声。面の奥で響く声は低く平坦だった。
だがその後、手が一秒止まった。
検穢使の指先が朔の防穢衣の襟元に触れた。繕うような仕草——防穢衣に付いた目に見えない乱れを直す素振り。だがそれは検穢使の手順にはない動作だった。指先が襟の裏に触れて止まり、何かを残す。小さな。指の腹で押す程度の印。
凌も善次郎も蓮も、振り返っていない。検査を終えた三人は外采門の方に歩き出している。
検穢使の手が離れた。次の班に移ろうとする。足が朔の前を通り過ぎようとした。
朔が口を開いた。
「……晶さん」
声は低かった。自分でも聞こえるかどうかわからないほど。
検穢使の足が止まった。
一拍。
白い面の向こうの顔は見えない。だが面の下の呼吸が変わった。吐く息の間隔がほんの少し伸びたのを、朔の耳が拾った。
返事はなかった。声も返らなかった。
検穢使は歩き出した。背中が小屋の奥に消えていく。白い面の後ろ姿を朔は見送った。
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外采門を出た。
凌が振り返った。
「遅かったな。何をぼーっとしてた」
朔は首を振った。何も言わなかった。蓮がちらりとこちらを見た。何かを言いかけて、目を逸らした。善次郎は前を向いたまま歩いている。
外采棟への帰路。四人の足音が灰色の道に落ちる。
朔は手帳を開かなかった。開いても書くことがない。数字にできるものが何もない。護帯の法石残量は記録できる。巡哨中の数値は記録できる。だが今——。
手帳の表紙に掌を置いて、やめた。
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帰還後、控え詰め所で壮介が朔を待っていた。
「来たか。見てほしいものがある」
壮介が帰還予定表の横に貼った灰輪地図を叩いた。新しい印が加えてあった。灰界端の後退記録——西方、南方、北方、東方それぞれの後退距離を矢印の長さで示した線。長い矢印が何本か地図を横切っている。
朔は地図を覗き込んだ。壮介が指で示す位置を見た。北東。昨日、石版が発見された灰界端の地点に印がある。
朔が矢印の長さを追った。方角ごとに後退距離の差がある。西方は短い。南方はやや長い。北東方は——長い。他の方角より速く後退している。
「壮介さん、この石版が出た場所——北東の灰界端と、後退が速い方角が重なっている」
壮介が頷いた。
「ああ。気づいたか」
朔が灰界端の矢印を指でなぞった。全体として「内側に向かっている」のは変わらない。だが方向が一定ではない。ある方角に偏っている。
壮介が古い地図を重ねた。朔が今まで見たことのない地図だった。紙が黄ばんでいる。
「ここ、旧坑道の跡がある。里ができる前に掘られていた鉱脈の坑道だと、篝の古文献にあった」
壮介の指が黄ばんだ地図の上を走った。坑道の跡が北東から南西に向かって細い線で描かれている。その線と、灰界端の後退が速い方角とが——重なっている。
「灰界端の後退方向と旧坑道の位置が……線で繋がっている」
壮介が腕を組んだ。
「穢れは地形に沿って食い込む。善次郎が灰輪の土壌で言っていた。旧坑道の空洞が穢れの通り道になっているとすれば——」
「後退は均一じゃない。弱い場所から崩れている」
朔は手帳を開いた。
石版の回路図があった頁は空白だった。鋼一に渡した。二枚分の穴が綴じの真ん中に開いている。
その隣に、新しい頁を開いた。灰界端の後退方向を書き始めた。矢印の長さ。方角ごとの数値。旧坑道の位置を重ねる。
壮介が言った。
「踏破行が決まったら、旧坑道の位置を先に確認したほうがいい。穢れの通り道がわかれば、安全な道筋が変わる」
朔は頷いた。書いている。数字は書ける。灰界端の記録は書ける。手帳には新しい情報が積み上がっていく。
だが頁をめくると、石版の頁が抜けた空白が目に入った。渡したものは、もう自分の手にはない。それは良いことのはずだ。個人の記録より、内工座の解析のほうが正しい。
朔は頁を閉じた。
鳴弦がピィと鳴いた。控え詰め所の天井の梁に止まっていた鳴弦が、朔の右肩に降りてきた。羽が腕に触れた。
手帳の中に新しい数字と、渡した後の空白。灰界端は均一には崩れない。弱い場所から食われていく。その構造が見える。見えた以上は——書く。
手帳を開き直した。新しい頁に書き足した。矢印の長さと旧坑道の線。まだ足りない。足りないものの一覧は、また少し長くなった。




