141話:根張
秋の朝は鉄の匂いがする。
内工座の工房に、鞴の息が満ちていた。玄外が霊鉄の穂先を鍛えている。槌が打たれるたびに火花が散り、薄暗い天井に赤い光が跳ねた。朔は穂先と柄の接合部に法力循環回路を刻む作業に入っていた。金行の法力を指先に集中させ、霊鉄の表面に髪の毛ほどの溝を刻んでいく。
善次郎は工房の隅に座り、柄の霊木を膝の上に置いていた。
翡翠沢から持ち帰った古材。善次郎の掌が木肌をなぞるたびに、樹相術の法力が繊維の方向に沿って流れていく。農地の畝で毎日木に触れてきた手だった。四畝目の苗が応える感覚を、善次郎の指は覚えている。同じ木行の法力が、異なる木に、異なる場所で流れている。
霊木の繊維が微かに震えた。
木が、生きている。
玄外が槌を置いた。穂先が仕上がったのだ。朔に目配せし、善次郎に声をかけた。
「持ってこい」
善次郎が柄を運んだ。穂先と柄を接合する最後の工程だった。玄外が穂先を柄の先端に嵌め、朔が接合部の回路に法力を通した。金行の法力が回路を巡り、穂先と柄の法力の流れが一つに繋がる。
朔は手帳を開いた。翡翠沢で見つけた旧い術式の構造——法力が幹を巡り、根を通じて地面に流れる、あの構造。手帳の端に描いた仮説——「根が門を持っている?」。御門の原理と重なる何かが、あの霊木には残っていた。
「翡翠沢の霊木に残っていた旧い術式——法力が幹を巡って、根を通って地面に流れる構造。あれを柄に刻めないかと思って。善次郎が法力を通せば、柄そのものが地面に根を張る」
玄外が手を止めて朔を見た。長い沈黙の後、唇の端が動いた。
「……なるほどな」
善次郎が柄の接合部に手を当てた。目を閉じる。樹相術の法力を通した。柄の霊木が朔の回路を介して穂先に繋がり、穂先から反射した法力が柄に戻ってくる——循環が回り始めた。善次郎の法力が柄の木の繊維を共鳴させ、繊維の方向と法力の流れが一筋に揃う。
柄の下端から、微かな根が伸びた。
工房の土間に一筋の線が走った。根が土を割り、地面に食い込んでいく。土間の硬い地面を、霊木の根が這うように広がった。
善次郎が目を開けた。
「……繋がった」
玄外が穂先と柄の最終調整を終えた。善次郎に手渡す。善次郎が両手で受け取った。重い。練薙刀よりもはるかに重い。柄が太く、穂先の反りが深い。
「……重い」
構えた。棍の構えが変わった。重心が低い。足が地面を掴んでいる。石突を工房の土間に突いた。
柄を通して、足の裏に微かな振動が返ってきた。
練薙刀は善次郎の法力を通しただけだった。根張は違う。善次郎が足の裏の感触を確かめるように、もう一度突いた。土間の硬い地面の下に、法力の流れがある。石突から根が伸び、地面に食い込み、そこから返ってくるもの——土の声。
「……土が、応えてる」
玄外は善次郎の構えをじっと見ていた。寡黙同士の沈黙が工房に落ちた。鞴の残火が赤く揺れている。
「根を張る武器だからな。そのまんまだ」
善次郎の口角がわずかに動いた。
「根張」
玄外がそう言った。善次郎は根張を壁に立てかけ、一歩離れて見た。練薙刀と比べると、すべてが一回り太い。柄の木目が灯に映えて、翡翠沢の森の色をしていた。
「……ありがとうございます」
玄外は背を向けて工具を片付けている。答えなかった。だがその背中には、鶺鴒を打ち終えたとき以来の満足が漂っていた。
朔は手帳を閉じた。
「善次郎、おめでとう」
善次郎は頷いた。それだけだった。鳴弦がピィと鳴いた。
---
善次郎が根張を担いで工房を出ると、訓練場の端に人影があった。
鉄心が腕を組んで立っていた。何もしていない。ただ、立っていた。工房の出入口が見える位置に。
善次郎と鉄心の目が合った。
鉄心は何も言わなかった。善次郎も何も言わなかった。十五歳になった息子が、自分の武器を担いで工房から出てくる。その光景を鉄心は黙って見ていた。
顎を微かに引いた。
善次郎は根張を担ぎ直して歩き出した。訓練場の脇を通り、外采棟に向かう道に出た。鉄心は善次郎の背中を見送っていた。視線を外さないまま、小さく息を吐いた。
善次郎の歩幅が半歩だけ広い。練薙刀では出なかった足の運びだった。
---
訓練場の弓場に、弦の音が響いていた。
鶫が蓮の構えを見ている。両足の開き、肘の角度、弓手の位置。蓮が矢をつがえた。的は三十歩先に立てた藁束。
「引き手が低い。肘を上げな」
蓮が修正した。
「……蓮は癒除術で手首を柔らかくする癖があるでしょ。弓を引くときはその逆。手首を固定して、肩から引く」
蓮が射った。矢は的に刺さったが、中心から拳二つ分ずれた。
「もう一回。今度は息を吐ききってから」
蓮が深く息を吸い、吐ききった。肩の力が抜けた瞬間に弦を放した。矢が穂先を先にして飛び、藁束の端に刺さった。さっきより近い。
鶫が顎で矢を示した。
「呼吸が合ってきた。蓮の引き方、治療の手つきと似てるね」
蓮が首を傾げた。
「え?」
「あんたは弓を引くとき、的を『診てる』。壊すためじゃなくて、どこが急所か——どこを射てば止まるか、それを診てる」
蓮は弓を下ろして考えた。鶫が言ったことが頭の中で形を持ち始める。確かに、蓮が的を見るとき——怪異を見るときも同じだった——目が探しているのは壊す場所ではなく、止める場所だった。
鶫が続けた。
「弓が強くなくても、急所に正確に当たる一矢は十矢より怖い。治す手が的の急所を見つけるなら——治す手と射つ手が同じなのは、あんたの武器だよ」
蓮の手が止まった。弓を握ったまま、自分の手のひらを見下ろした。
「……あたしの弓は、診る弓なんだ」
鶫は笑わなかった。ただ、新しい矢を蓮に差し出した。
「だから基礎がいる。急所を見抜いても、矢がそこに行かなきゃ意味がない。——もう十射」
「はい!」
---
弓訓練の後、蓮は浄身院の薬草園裏手にいた。
菫が自分の腕に小さな擦り傷を作っている。蓮が来るのを待っていたらしく、袖を捲り上げた腕を差し出した。
「いつもどおり治して。ただし法力は七割に抑えて」
蓮が両手を菫の腕に当てた。癒除術の法力を傷口に向けた——そして、絞った。いつもなら全開にして注ぎ込む。法力を抑えると、傷口の治りが目に見えて遅くなった。蓮の手が震えた。
「……怖い。足りてない気がする」
「足りてなくない。治ってる。遅いけど、治ってる」
菫の声は穏やかだった。蓮の揺れる指先を見ながら、菫は問いかけた。
「蓮ちゃん、いまの法力で何分持つ?」
蓮が計算した。体の中を流れる法力の量と消費の速度を測る。
「……二十分は持つ」
「全力で治したら?」
「三分で治る。でもそのあと——」
「もう一人来たら?」
蓮の手が止まった。答えはわかっている。
「……五割しか残ってない」
「七割で二十分かけて治せば——次の一人にも七割残ってる。速さじゃなくて、何人を生かせるかで考えるの」
蓮は俯いた。菫が蓮の手を見ている。震えていた。だが——少しずつ落ち着いていく。七割の法力が傷口を這い、ゆっくりと擦り傷を塞いでいく。全力の癒除術とは違う速度で、けれど確実に。
菫が言った。
「蓮ちゃんのやってること、すごいことなんだよ。癒し手が弓も持って前線に出るなんて。——でもだからこそ、法力の使い方を覚えなきゃ」
蓮は手を離した。指先に法力の残響がある。三割残っている。あと一人、治せる。
訓練場の端に座った。手のひらを見た。鶫の言葉が浮かぶ——「治す手と射つ手が同じ」。菫の言葉が重なる——「何人を生かせるかで考える」。
弓の精度が上がれば、法力を癒除術に温存できる。癒除術を七割に抑えられれば、残りの三割を弓に回せる。
「あたしの武器は、あたしの手だ」
蓮は立ち上がり、練弓を握った。初期装備のままの弓。柄は細く弦は緩い。この弓では、まだ足りない。
---
夕餉。
外采棟の食卓に朔班の四人が座っていた。善次郎が壁に根張を立てかけた。隣に凌の鶺鴒が並んでいる。根張の方が背丈が高い。
善次郎が黙って飯を食べている。いつもの量を、いつもの速度で。だが今日は最後の一口まで残さなかった。箸が椀の底を拾い、最後の米粒まで口に運んだ。
凌が善次郎の空の椀を見た。
「完食じゃねぇか」
善次郎は答えなかった。顔を上げ、一瞬だけ目が壁の根張に向いた。凌はそれ以上何も言わなかった。
食後、朔が手帳を広げた。
「根張が完成した。次は蓮の弓だけど——」
蓮が箸を置いた。
「あたしの弓?」
「玄外さんと話してるんだ。弓本体は竹と霊木の二層構造で、霊木は翡翠沢の残りで足りる。弦は浄身院の浄糸で対応できる。でも問題がある——弓の芯材に使う霊銀が必要なんだ。蓮の癒除術の法力を矢に乗せるには、法力の伝導率が極めて高い素材がいる」
凌が口を開いた。
「霊銀か。鶺鴒に使った霊鉄とは違うのか」
「霊鉄は法力を通しても壊れない素材。霊銀は法力を通して増幅する素材——伝導率が桁違いに高いけど、その分脆い。蓮の弓は衝撃に耐える必要がないから脆さは問題にならない。でも霊銀は——」
善次郎が言った。
「……深い」
朔が頷いた。
「西の銀嶺峠。迷霧圏の最深部に近い。灰輪の巡哨圏外。今の遠征計画では届かない」
沈黙が落ちた。窓の外に穢れ灯が見えている。灰色の野の向こうに灯る小さな光。その光のさらに向こうに銀嶺峠がある。
蓮が言った。
「……待ってたら、いつまでも取りに行けないよね」
凌が身を起こした。
「踏破行か」
朔は手帳を捲った。
「踏破行と同時に——素材回収を組み込む。銀嶺峠が遠征の経路上にあるなら、可能だと思う」
善次郎が壁の根張を見た。自分の武器はここにある。蓮は練弓を手元に置いていた。初期装備のままの弓。
蓮が笑った。
「いいの。あたしは今の練弓でまだやれる。鶫さんに怒られてるうちは、新しい弓は早いって」
笑っていたが、手のひらを見ていた。鶫に射ち方を直されたばかりの手のひら。
朔は言った。
「僕の錫杖も少し限界を感じている。踏破行と同時に考える」
凌が朔を見た。
「じゃあ何を作る。朔」
朔は手帳を閉じた。答えはまだない。だが頭の中で通信法具の断片が像を結び始めている。踏破行のためには、通信が要る。遠征が長くなれば、班と本隊の距離が離れる。法力の届かない距離で仲間と繋がる手段が——。
「……まだ考えてる」
食卓を片付けた。
壁に、鶺鴒と根張が並んで立てかけてある。蒼白い光を宿す刃と、翡翠沢の木目の薙刀。その横に蓮の練弓と朔の練錫杖が並んだ。初期装備のまま。
凌が鶺鴒を手に取り、善次郎が根張を担いだ。朔と蓮がそれぞれ練錫杖と練弓を手に取った。四人が外采棟の出口に向かった。
鳴弦がピィと鳴いた。
外の空気は冷えていた。秋の夜の匂いがする。穢れ灯の光が灰色の野にぽつりと灯っている。四人の影がそこに伸びた——二つの最終装備と、二つの初期装備を持った影が。




