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あやかしの海、硝子の揺り籠 〜結界術師の次男坊は、独自開発の『法具』と『小隊戦術』で平安異世界を圧倒する〜  作者: 鶯神楽
2部:2幕

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140/173

140話:揺れる壁

 控え詰め所の帰還予定表の横に、壮介の地図が掛かっている。


 灰輪北東部。穢れ灯の光が届かない岩峡の回廊入口——迷霧圏の外縁にあたる。朔は地図に記された等高線と穢れの濃淡域をなぞりながら、影写しの感光紙を数えた。三枚。回廊の奥にある霊木林の追加素材と、穢れ灯の追加配置候補地の下見。一泊二日の中期遠征。


 三班十二名。


 朔の班が筆頭で、千早の班と梶の班が随行する。北斗衆の帯同はない。朔が十二名の先頭に立つのは今回が初めてだった。


 控え詰め所の入口に影が差した。千早が入ってくる。防穢衣に練薙刀——木行の盾役として前衛防御の班に組み込まれた千早の装いは、最後に見たときより板についていた。


 千早が朔を見つけ、きびきびとした声を出した。


 「久しぶりだね。鳴弦は元気?」


 右肩で鳴弦がピィと小さく鳴いた。朔は口元を緩めた。


 「元気だよ。突然の遠征だけど準備はどう?」


 「うちの班は退屈してたからちょうどいい」


 蓮が後ろから身を乗り出して手を振った。


 「千早ちゃん!」


 善次郎は千早に小さく頷いた。凌は鶺鴒の鞘に手を置いたまま「千早か」とだけ言った。


 梶が続けて入ってきた。班の二人が後ろに続く。梶は控え詰め所を見回して、軽い口調で言った。


 「よっ。また一緒か」


 声は軽い。だが目が少し泳いでいるのを、朔は見た。


 全班の護帯を確認した。法石の光はどれも満ちている。門柱に右手で触れ、十二名が灰色の野に踏み出した。


---


 灰の野を北東に進む。


 朔が先頭で燭明術の索敵を薄く展開した。鳴弦が上空を旋回している。善次郎が後衛の壁を固め、凌が中衛。千早の班が右翼、梶の班が左翼。十二名の行軍は整っていたが、四人の班の呼吸とは違う重さがあった。


 六位が二体、灰の野の窪地から這い出してきた。骸狗。凌が歩調を崩さずに鶺鴒を一閃した。蒼白い光が灰色の空に線を引き、二体が同時に崩れた。


 岩峡の回廊入口が見えてきた。灰の大地を割るように岩壁がそびえ、両側の崖が回廊のように奥へ続いている。風が吹き抜けるたびに埃が舞い、視界が五十歩先で灰色に霞んだ。


 朔は鳴弦を先行偵察に飛ばした。鳴弦が高く舞い上がり、回廊の上空で一度旋回し、鋭い声を上げた。


 キィッ。


 一回。朔は右手の指を動かした。


 「前方二百歩に五位が一体。動いていない」


 千早が朔の横に来た。


 「待ち伏せ?」


 「わからない。動かない方向から回り込む」


 朔は手帳を開き、回廊の分岐点を確認した。岩壁の根元を辿れば五位の位置を避けて霊木林側に出られる。善次郎を振り返った。


 「善次郎、ここで試してみる?」


 善次郎が無言で頷いた。膝をつき、手のひらを地面に当てた。目を閉じる。


 絡脈術。


 農地では六歩の範囲で方角と水分量の濃淡を区別できた。善次郎はその感覚を知っている。毎日触れてきた四畝目の土壌は、法力の応答が安定していて、善次郎の手に馴染んでいた。


 だが岩峡の足元の土壌は違った。


 善次郎の指が微かに動いた。眉が寄る。


 「……聞こえない」


 法力が薄い。農地に七位法石で注いだ法力の残照はここにはない。外界の土壌は応えないのではなく、応えるだけの力がなかった。


 善次郎は手のひらを動かした。少しだけ——岩壁の根元へ。指先が岩の際に触れた。


 善次郎がわずかに目を開けた。


 「……三歩」


 三歩。農地の半分。方角はわかる。水分量の差もかろうじて拾える。だがそれだけだった。


 朔は手帳に書き留めた。善次郎は手のひらの土を払い、立ち上がった。落胆の色は善次郎の顔にはなかった。善次郎はそういう顔をしない。


 「……壁の前に立てれば、三歩で十分だ」


 千早が善次郎の横で見ていた。


 「何してるの?」


 善次郎は少し間を置いて答えた。


 「……足元から、敵の接近を読む」


 千早の目が光った。


 「それ、使えるなら教えてよ。うちの班にも木行がいる」


 善次郎は少し考えてから、


 「……ああ。畑でな」


 千早が「畑?」と首をかしげた。朔が農地改善の話とそこで育てている薬草、簡易浄水法のことを短く伝えた。千早は目を見開いた。


 「穢れた水が飲めるって? すごいじゃない」


 蓮が「にがいけどね」と笑った。千早も笑った。十二名の行軍の空気が少しだけ和んだ。


---


 回廊の奥に入った。岩壁が高くなり、空が細い線になった。


 霊木林。善次郎が樹相術で法力の通る枝を選定し始めた。掌を幹に当て、法力を流し、内部の応答を読む。善次郎の手が何本かの枝を示すと、蓮が蔓切りを手伝った。凌と千早の班が回廊の前後を固め、梶の班が退路に立った。


 朔が影写しを構えた。霊木林の分布と配置を感光紙に記録する。一枚消費。残り二枚。


 善次郎が三本目の枝を切り落としたとき、鳴弦が鳴いた。


 キィッキィッ。


 二連。


 朔の手から影写しの束が消えた。懐にしまう動作は体に染みついている。


 「三方向。五位が三体、同時に接近」


 声が変わらないのが朔の指揮の癖だった。平時と同じ声で、一番速い判断を出す。


 回廊の奥から二つの影が地面を揺らしながら突進してきた。鉄食み——大猪の輪郭に錆びた武器が装甲のように突き刺さっている。二体。そして左壁の岩棚を、白い骨の連なりが音もなく降りてきた。骨百足。全長二間。甲殻が乾いた音を立てている。


 十二名の配置が一気に千切れた。


 朔の判断は、声より先に動いた。


 「凌、裂光を左壁に。骨百足を止めよう。——鉄食みが先だ」


 三正面を同時に相手にはできない。鉄食み二体と骨百足一体。凌と善次郎で鉄食みを片づける間、骨百足を遅らせる——朔の頭の中で順序が組み上がるのに一呼吸もかからなかった。


 凌は鶺鴒を抜きながら、空いた左手で札帯から裂光の札を引き抜いた。岩壁を這い降りてくる骨百足に向けて札を投げる。札が空中で裂け、白い閃光が回廊の薄暗さを灼いた。


 骨百足の甲殻が軋み、降下が止まった。光に怯んで頭部を丸めている。三呼吸——もって五呼吸。


 凌はそのまま前に出た。鶺鴒の蒼白い光が回廊を割る。鉄食みの一体目に向かって踏み込む——速い。烈に教わった速度。紅葉に指摘された一撃必殺の癖が頭をよぎる。崩してから斬る。一撃目で鉄食みの装甲の側面を叩いた。布石のつもりだった。だが鉄食みは崩れない。猪の体躯が踏ん張り、錆びた武器の突起が凌の刃を弾く。


 二撃目。速度で入った。装甲の継ぎ目に鶺鴒が刺さり、蒼白い法力が体内を貫いた。鉄食みが崩れた。


 凌は鶺鴒を下ろした。


 「……まだ速いだけか」


 崩しは形にならなかった。実戦では、紅葉の三撃の構成が体に入っていない。速度で片づけられる相手だから間に合った。四位なら——。


 善次郎が拒木を展開した。


 樹相術で練薙刀の柄から根が地面に食い込み、足元に木の壁が隆起する。鉄食みの二体目が壁に突進してきた。衝撃で壁が軋んだ——だが善次郎は壁を「置いた」のではなかった。


 善次郎は足元に法力を流していた。三歩。三歩の範囲で、地面の震動を手のひらではなく足の裏で拾っていた。突進の方向が、体で読める。左の前脚が先に着いた——左から来る。


 壁の角度を半呼吸先に変えた。


 鉄食みの突進が壁の斜面を滑り、体勢を崩して横に逸れた。千早の班の前衛が逸れた鉄食みの側面に飛び込み、一太刀入れた。鉄食みが苦鳴を上げ、凌が隙を見切って鶺鴒で核を断った。


 朔は善次郎の足元を見ていた。今のは——壁が先回りした。善次郎は突進の方向を知っていた。目で見たのではない。足で聞いたのだ。


 壁が耳を持つ。その片鱗が、一瞬だけ戦場に現れた。


 だが——裂光の光が消えていた。


 骨百足が動き出している。岩壁から降り切り、梶の班に向かっていた。猶予は足りなかった。


 骨百足は速い。岩壁を這うように移動し、退路を固めていた梶の班に頭上から降りかかった。梶の班の前衛が練刀で受けたが甲殻に弾かれ、態勢を崩して壁にぶつかった。骨百足の尾が跳ね上がり、後衛の班員——木行適性の少年——の背中に毒棘が突き立った。


 短い叫びが回廊に響いた。


 梶が振り返った。毒棘を受けた班員が崩れ落ちるのが見えた。骨百足がその上に乗りかかり、甲殻の脚が少年の体を踏みつけようとしている。


 梶は動けなかった。


 一瞬。ほんの一瞬だった。足が石になった。手が震えた。逆さ冠の前で動けなかった日が、体の底から這い上がってきた。あのときと同じだった。足が動かない。目は見えている。体だけが止まっている。


 千早の声が聞こえた。


 「湊! 前!」


 怒鳴り声ではなかった。信頼の声だった。お前はやれる——そう言っている。


 梶は歯を食いしばった。


 練刀を握り直した。雷火術を纏わせる。いつもなら八割で止めてしまう。千早に「また八割で止めたでしょ」と言われる。出力を抑える癖が体に刻まれている。腰が引ける。最後の最後で力を抜いてしまう。


 「……俺に任せとけ」


 自分でも聞き慣れた嘘の口癖だった。だが今回は——嘘にしない。


 梶は雷火術を限界まで込めた。火行の法力が練刀に溢れ、白い閃光が刀身を覆った。十割。出し方を知らなかった。知らなかったというより、怖くて出せなかったのだ。出したら何が起こるかわからない——その恐怖を、今この瞬間だけ、計算に入れた。


 骨百足の甲殻の継ぎ目。一番薄い場所を目が拾った。


 梶の刃が叩き込まれた。雷火が甲殻の隙間から体内に走り、骨百足の内側で白く炸裂した。乾いた破砕音がして、骨百足が横倒しに崩れた。


 梶の手が震えている。


 震えは止まっていなかった。足も膝も、全部が震えていた。だが立っていた。


 千早が梶の横に来た。言葉は短かった。


 「……よくやった」


 千早が戦闘中に褒めたのは、梶の記憶の中では初めてだった。


 千早の視線が回廊全体を巡った。凌と善次郎が鉄食み二体を片づけている。だが梶の班の後衛が倒れている——毒棘の跡。毒が入った。


 千早の判断は速かった。


 「退く! 重傷者一名。帰路を確保。鳴弦、先行偵察」


 声は十二名全員に届いた。


 朔が応じた。


 「了解。蓮!」


---


 蓮は駆けた。


 倒れている少年の傷口に毒棘の残骸が刺さっている。骨百足の棘は根元が折れやすく、先端が肉の中に残る。蓮は棘の根元を指で確かめ、迷わず引き抜いた。


 「歯を食いしばって」


 少年が呻いた。蓮は両手を傷口に当て、癒除術を流した。水行の法力が傷口に浸透し、毒の流れを追う。背骨に向かっている。毒の侵食速度が速い——骨百足の毒は腐食系で、組織の奥に食い込んでから広がる。


 蓮の癒除術で毒の進行を食い止めた。だが傷口が深い。棘が筋肉の奥まで達していた。術だけでは塞がらない。血が止まらない。


 あたしの術だけじゃ足りない。


 蓮は片手を離した。腰の札帯に手を伸ばし、活紋の札を一枚取った。和紙に法力の回路が刻まれた白い札。蓮と朔と篝が三人で作ったものだった。


 傷口に貼った。


 癒除術で毒を抑えたまま、もう片方の手で札に法力を通した。札の回路が起動し、法力が傷口の組織に浸透する——蓮の術とは違う法力。札に封じた癒除術の残影が、傷口の表層を仮封鎖していく。蓮の術が深部の毒を止め、札が表層を塞ぐ。二つの法力が傷口の上で重なった。


 血が止まった。


 蓮は手の力を抜いた。少年の顔色を見た。蒼白いが、目に光がある。


 「一日。一日で里に帰れば浄身院で治せる」


 少年が弱く頷いた。蓮は手を離し、立ち上がった。


 朔が蓮の横に来ていた。


 「間に合ったか」


 「あたしの術だけじゃ毒に追いつかなかった。札だけでもこの深さは塞げない。——二つで足りた。一日なら帰れる」


 朔は頷いた。


 「帰ろう」


 蓮は弓を構えた。射つ気はなかった。構えているだけだった。帰るまでの間、この弓は蓮の意思だった。


 「帰るまで守る」


---


 帰路の行軍は速かった。


 善次郎が重傷者を背負った。少年の体が善次郎の広い背中に収まっている。蓮が善次郎の横を歩き、活紋の札の効果を確認しながら進んだ。札の法力は安定している。一日は持つ。


 凌が前衛を固め、千早の班と梶の班が左右に散開した。朔が燭明術で索敵を維持し、鳴弦が上空から帰路を見張った。六位が一体、灰の野に出たが、凌が歩調を緩めずに斬り捨てた。


 日が傾いてきたころ、門が見えた。


---


 門が開いた。


 十二名が門をくぐった。善次郎から少年が降ろされ、待ち構えていた浄身院の派出所に運ばれた。蓮が引き継ぎまでついていった。


 穢れ検査。十二名全員が通過した。


 控え詰め所に戻ると、梶が壁に寄りかかって座り込んだ。膝を引き寄せて手を膝の間に隠した。


 千早が梶の横に背中を預けた。立ったままだった。


 「手、震え止まらないでしょ」


 梶は膝の間を見たまま答えた。


 「……うるせぇ。止まるし」


 「止めなくていい。それが普通なの」


 梶は何か言おうとして口を閉じた。天井を見上げた。千早は何も言わなかった。ただ横にいた。


 朔は控え詰め所の書記官の前に立ち、口頭報告を終えた。霊木の枝三本回収。穢れ灯追加配置の候補地二箇所を影写しで記録済み。重傷者一名——活紋の札と蓮の癒除術の二重処置で帰還。全員生還。


 書記官が筆を走らせた。朔は手帳を開き、一行書き加えた。


 「外界土壌——岩根元で三歩。農地比で半減。方向感知は有効。壁の角度調整に実戦で使用」


---


 灯し飯の食卓に、十一名が座った。


 三班が入り混じっている。千早の班の前衛が梶の班の隣に座り、何か軽口を叩いている。朔の班の周りにも千早の班員が混ざっていた。遠征の後の食卓は班の境が薄くなる。


 ただ、一つの席が空いていた。梶の班の後衛はまだ浄身院にいる。その空席を梶がちらりと見た。すぐに飯に目を落としたが、箸が止まっていた。


 蓮が浄身院から戻ってきた。食卓の端に座り、皆の顔を見回して言った。


 「大丈夫。帰れるって。あたしの術と札、両方効いてた」


 梶の箸が動いた。


 千早が蓮に向き直った。


 「あの札、もう一枚もらえない? うちの班にも持たせたい」


 蓮は少し間を置いた。それから頷いた。


 「……作る。全班分」


 善次郎が黙って飯を食べている。凌が箸を置いた。


 「全員帰った」


 善次郎が微かに頷いた。


 鳴弦がピィと鳴いた。穏やかな声だった。


 窓の外は暗くなっていた。灰輪の方角に穢れ灯がぼんやりと灯っている。その光と、護帯の痩せた光が、同じ色をしていた。帰れた。全員帰れた。その安堵と、もう少し遅かったらという重さが、灯し飯の温もりの中で静かに同居していた。


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