138話:変わる境
壮介の地図が変わっていた。
控え詰め所の壁、帰還予定表の横。穢れ灯を配備した日に壮介が貼った一枚の灰輪図は、二十日のあいだに何度も鉛筆の線を引き直され、書き込みで紙面が窮屈になっていた。石牙丘陵の五位反応は赤、六位以下は鉛筆の薄い丸。穢れの濃い帯を避けて引かれた経路が実線と破線で色分けされている。穢れ灯の記録が日ごとに積もるたびに、灰輪は少しずつ「読める」ものに変わりつつあった。
朝班が出発前に地図を確かめていく。それが日常になっていた。
朔は控え詰めの卓で壮介と向かい合い、手帳を開いていた。
「確認するぞ」
壮介のいつもの声。卓の上に法石の出納帳と、壮介自身の記録帳が並んでいる。
「穢れ灯を入れてから二十日分。六位以下との遭遇が減ってるのは灯りの記録で回避しているからだが、五位との遭遇件数は変わっていない。変わったのは——遭遇の前に方角がわかっていることだ」
壮介の指が記録帳の行を追った。
「事前に避けられる分、護帯の法石に余裕が出ています。帰りに石牙の穢れ灯を確認して戻っているので、翌日の班にも伝わる。その分だけ巡哨の動線が詰められて——」
壮介が記録帳を一頁めくった。帰還時の護帯法石残量平均。壮介が読み上げた数字に、朔は手帳の記録を照らした。
「……僕の記録と同じです」
「だろうな」
壮介は声を変えなかった。確認するぞ——と続けた。「灰輪の担当班数、四から三に減らしても数値上は回せる。法石の消耗と経路の合理化で一班分の余力が出ている」
壮介の卓の端に、紙の束がある。善次郎の農地の状況が記された報告書だった。総宰司が管理する配給と農地の帳簿の写しと、善次郎が壮介に預けた畝ごとの収量記録。紙の束は半年前より厚くなっていた。朔の視線が紙の束に触れて、離れた。壮介はそれを見ていたが、何も言わなかった。
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外采棟の広間に班長が集まっていた。
剛丈の声は粗いが簡潔だった。北斗衆の班長七名が一方の壁側に立ち、通常班の班長たちが反対側に並ぶ。朔は通常班の班長の一人として、壁に背を預けていた。虎太郎が北斗衆の列の先頭にいる。腕を組んだまま、目を閉じている。
「穢れ灯の記録が使えるようになった」
剛丈は壮介の地図を壁に掛けていた。指は使わない。全員がすでに見ている地図を背にして、まっすぐ前を見ている。
「灰輪巡哨は四班体制から三班に減らす。浮いた一班分は遠征の廻りに組み込む」
広間に動揺はなかった。壮介の地図と記録を見ている班長たちは、数字が何を意味しているかをすでに知っていた。
「怪異の位置が事前にわかる分、無駄な遭遇が減った。護帯の法石がもつ。——だから灰輪に四班張り付けておく理由が一つ減った」
剛丈は灰輪担当を三班に再編成する班の名を挙げた。次に、遠征の廻りに加わる班を挙げた。灰輪専任だった通常班が含まれていた。
凪が口を開いた。
「遠征の廻りに入る通常班の任務形態は」
「当面は灰輪北部の外縁」
剛丈は名前を挙げた班の班長に視線を向けた。班長たちの顔には困惑も喜びもなく、静かな受容だけがあった。灰輪の巡哨と結界の外縁の遠征では、遭遇するものの質が違う。彼らがそれを知らないはずはなかった。
「鉄心の班が初回は帯同する。一回目は連れていく」
鉄心が腕を組んだまま一つ頷いた。
「二回目からは自分たちで行ってもらう」
朔の手帳を持つ指に、わずかに力がこもった。灰輪専任の班は灰輪の六位相手の巡哨に慣れている。だが灰輪の外縁は四位が出る。癒し手のいない彼らの班に、蓮が作った活紋の札は行き渡っている。それでも——。
手帳を開きかけて、閉じた。
この場で開くものではなかった。
剛丈の目が全員を一巡した。虎太郎は最後まで口を開かなかった。朔はその沈黙の重さを、理由がわからないまま感じていた。虎太郎の沈黙には意味がある。朔はそれをこの二年で学んでいた。
散会。班長たちが広間を出ていく。剛丈が壁の地図を外しながら、独り言のように呟いた。
「人を減らすのは楽にすることじゃない。出す場所が変わるだけだ」
朔の背中にその声が届いた。足を止めなかった。足を止めなかったが、その一言の重みが肩に乗った。穢れ灯は灰輪を楽にした——門番が「楽になったな」と言った夜からまだ二十日しか経っていない。楽にすることじゃない。出す場所が変わるだけだ。
里の人の数は変わらない。灰輪を薄くした分は遠征に注がれる。余裕ではない。再配分だ。
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夜の外采棟は静かだった。
寝台に座り、朔は手帳を開いていた。灯りのそばに手帳を寄せ、穢れ灯の二十日分の記録を左の頁に並べた。石牙丘陵の穢れ変動、灰の野中央の穢れ変動、泥骨沼の南稜線、枯蔦の外周路入口——四灯が拾った穢れの濃淡の推移を、日付順に並べている。
右の頁には灰界端の記録がある。朔が手帳に書き続けてきた境界石の後退。西の二一九。北の二三七。東方の二四五。追加された壮介の南方記録。すべてが右肩下がりだった。
穢れ灯を配備してからの二十日分を加えた。
朔の指が止まった。
灰界端の後退速度は——変わっていない。穢れ灯がある区域も、ない区域も、同じ傾きで右肩下がりが続いている。
穢れ灯は巡哨を変えた。人が動く経路を変えた。怪異を避ける精度を上げた。護帯の法石に余裕が出て、灰輪の担当を四班から三班に減らし、遠征の廻りが広がった。——変わった。確かに変わった。だがそれは人間の側の話だった。
灰輪そのものは、穢れ灯を置く前と同じ速度で痩せ続けている。
穢れ灯は穢れを見せる。見せるだけだ。穢れそのものには何も触れていない。灰輪が痩せる速度に、朔が作ったものは何一つ影響を与えていなかった。
——変わったのは、僕たちの方だけだ。
右の頁の隅に、古い一行がある。「守るだけでは間に合わない」。嶺壱の書斎を出た夜に書いた字だった。
数秒、その一行を見つめた。
手帳を閉じた。書き加えるものがなかった。
鳴弦が肩の上で穏やかに鳴いた。ピィ。
朔は灯りを消した。寝台に横たわると、窓の外に灰輪の方角が見えた。闇の底に、穢れ灯の橙の明滅が一つ。灰の野の中央丘の灯りだった。
灯っている。
灯っているが、灰輪はそれを見ていない。ただ同じ速度で、痩せ続けている。
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同じ夜。
総宰司の書斎は、灯りが一つだけ灯っていた。
忌部朧が帳簿を抱えて入室した。書斎の扉を閉め、嶺壱に一礼する。
「嶺壱様。本日分の帳簿をお持ちいたしました」
書記官の声。穏やかで事務的な音だった。嶺壱は机の前に座ったまま、手元の資料から目を上げた。書斎には他に誰もいない。忌部は帳簿を机の端に置いた。
一拍の間があった。
「——では」
忌部の声がわずかに変わった。柔らかさは同じだが、底にある温度が違う。書記官の顔が、もう一つの顔に静かに移った。
嶺壱は帳簿を開いた。だが帳簿の数字を読む前に、別の帳面を引き出した。嶺壱の手元にある帳面には、外采寮の運用記録の抜粋が記されていた。法石の出納。護帯の交換頻度。浄身院の穢れ検査結果。農地の収量報告。すべてが嶺壱の筆跡で転記されている。
「護帯の量産以降、穢れの第二期進行の報告件数は半減した」
嶺壱の声は淡々としていた。数字を読むときの声だった。
「影写しは外采寮の偵察記録に使われている。浄身院は穢れの検査記録に転用を始めた。鎮護寮も結界の歪みの記録に採り入れたと基から聞いている。——一つの法具が三つの寮に渡った」
頁を繰る。
「穢れ灯の配備後、灰輪巡哨の法石消耗率が下がり、本日の再編に至った。活紋の札の配備で、癒し手不在の班の遠征時負傷致命率が下がっている。志場の農地改良で自給率が上がった」
嶺壱の指が帳面の頁をさらに繰った。数字が並んでいる。どの数字も同じ書斎の机の上で整理されたもので、どの数字も一つの班に繋がっていた。
「内工座の帳面を見たか。護帯の循環回路の原理を、鍛冶が独自に合金配合に転用している。斎具所では起爆速度の改良に手をつけた。——あの班が持ち込んだ原理が、職人の手で勝手に育ち始めている」
忌部は黙って聞いていた。帳簿を抱えていた手を下ろし、嶺壱の手元の帳面に視線を落とした。
「一つの班がこれだけの数字を動かしたのは、私の記憶にはない」
嶺壱は帳面を閉じた。
「影写し、護帯の設計者。穢れ灯の設計者。活紋の札の設計者——すべて同一人物だ。あれの新しい刀、鶺鴒の法力回路も。この班が欠ければ、帳簿の数字が元に戻る」
間。
「替わりが利かない。——検穢使の保護対象に加えたい」
忌部は瞬きを一つした。
「承知しました」
書記官の声ではない。忌部は一拍の間を置いて、続けた。
「ただ、保護対象にするとなると、察役の巡回に組み込む必要があります」
忌部の視線が嶺壱に向いた。
「察役の定員を満たせていないのは、嶺壱様もご存じかと」
嶺壱は答えなかった。その沈黙が肯定だった。
「……ただ、考えようによっては」
忌部の声が低くなった。感情のない声だったが、声の底に長い時間が沈んでいた。
「護帯が普及したことで、穢れの進行そのものが減りつつある。察役の定期検査の間隔を広げる根拠にもなりましょう。減りゆく察役の負担を——あの班の成果が、結果として軽くしている」
嶺壱は忌部を見た。忌部は嶺壱を見ていた。総宰官と書記官の視線ではなかった。この里の影を動かす二人の男の視線だった。
「では、察役に通達を。——帳簿の件はこれで」
忌部の声が書記官に戻った。一礼。退室。扉が閉まる音が静かに書斎を満たした。
嶺壱が一人で残った。
灯りの前で帳面を開いたまま、数秒動かなかった。窓の外に視線を向ける。灰輪の方角に、橙の明滅が一つ。灰の野の中央丘の穢れ灯が、夜の底で呼吸していた。
あの灯りを設計した少年が、今夜同じ光を見ていたことを、嶺壱は知らない。




