137話:灯りの網
朔は外采門の前で穢れ灯の矢を検めていた。矢軸の中ほどに据えられた穢れ灯の外殻。釉薬のなめらかな曲面と矢軸の間に、薄い緩衝材が挟んである。重心は矢の中央寄りに移した。展開脚の基部を肉厚にし、着弾時の衝撃を外殻ではなく脚が吸収する設計に変えた。
四本。矢筒の中で、穢れ灯の橙の光は消えている。法石はまだ繋いでいない。設置場所で法力を流し、初めて灯る。
壮介が地図を広げていた。灰輪の北から南東まで、灰界端の石柱を繋いだ手書きの線が引かれている。四つの印がある。石牙丘陵の見晴らし岩。灰の野の中央丘。泥骨沼寄りの南の稜線。枯蔦の森の外周路入口。
「ここに灯りが灯れば、灰輪の六割は見える」
壮介の指が四つの印を順に指す。
「六割……」
「残りは次だ。今日は四つ」
鶫が訓練場の方角から歩いてきた。翔月を背に、腰に矢筒を一つ。いつもの二つではなく一つ——もう一つの矢筒には穢れ灯の矢が入っている。朔が昨日の夕刻に渡した四本だった。
「直したんだって?」
鶫は矢筒から穢れ灯の矢を一本抜いた。指先で重心を探る。前回のような眉のしかめ方はなかった。矢を縦にして指の腹を軸に沿わせ、外殻と緩衝材の接合部を親指で押した。
「重心は悪くない。前のよりずっとまし。——緩衝材は何を使った?」
「玄外さんの工房で出た硬質鉱石の削り粉と、霊木の繊維を練ったものです。衝撃を潰すんじゃなくて、散らす方向に変えました」
鶫が矢を筒に戻した。
「いいよ。射ってみないとわからないけど、手触りは前より素直だ」
凌が門柱に背を預けて待っていた。鶺鴒の柄に右手を添えている。善次郎は薙刀を担いで門のすぐ内側に立ち、蓮は矢筒の紐を締め直していた。
朔が壮介に地図を返した。壮介はそれを受け取らず、代わりに小さく折った紙片を差し出した。
「四灯の設置座標と、巡哨路からの距離をまとめた。帰ってきたら穢れ灯の初日の記録を俺に持ってきてくれ」
朔は紙片を手帳に挟んだ。
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灰輪の朝は色が少ない。
結界を出ると空が灰色の勾配に変わった。地面の草は色を失いかけた枯れ草で、風が吹くと灰の粒子が混じっている。石牙丘陵へ向かう北の道を、五人と一羽が歩いていた。
鶫が朔の半歩前を歩く。普段の巡哨では朔の班は四人で動く。鶫は第三班の班長で、今日だけの合流だった。穢れ灯の設置は朔の班だけではできない。高所や遠隔地に灯りを届けるには、射手がいる。
六位が二体、道の脇の窪みから這い出てきた。毬栗蟲。殻の棘を立てて転がり寄ってくる。
凌が鶺鴒を抜いた。蒼白い光が一閃した。二体の外殻が裂け、法石が転がった。凌は刃を拭いもせず、蓮が法石を拾った。
鶫は振り返りもしなかった。
石牙丘陵が見え始めた。風化した岩が積み重なる低い丘陵で、見晴らし岩と呼ばれる突き出た一枚岩が丘の頂部にある。灰輪の北部一帯を見渡せる高台だった。
朔は見晴らし岩を見上げた。岩の頭頂部、人が登るには足場が悪い。四方に遮るものがなく、穢れ灯の感応板が穢れの変動を拾うには最適だった。
「あそこに据えたい。あの岩の上なら北部一帯の穢れ変動を拾える」
鶫は翔月を肩から下ろした。弦に手をかけ、距離を目で測っている。
「四十歩。風は左から。——あたしが射ちこむよ。足場が悪いなら矢で届けたほうが確実でしょ」
朔が頷いた。
鶫が矢筒から穢れ灯の矢を抜いた。矢を弦にかけ、翔月を引き絞る。鶫の背筋が弓なりに張り、呼吸が止まった。射手の手から弓に法力が流れ込み、矢軸が光を帯びる。
弦が鳴った。
矢が弧を描いた。岩の頂部に突き刺さる音が乾いた空気を裂いた。着弾の衝撃で展開脚が開き、三本の脚が岩肌に噛んだ。外殻に亀裂は走らなかった。緩衝材が衝撃を散らしている。
一呼吸の間。法石が電源管理回路に繋がり——灯が灯った。
橙の光がゆっくり瞬く。灰色の岩肌の上で、小さな灯りが呼吸していた。
鶫が弓を下ろした。
「灯いた。——前より安定してる。緩衝材が効いてるね」
朔は手帳を開いた。設置点一、北部石牙、正常稼動。筆が走る。
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灰の野の中央丘。二灯目。
丘の頂にある古い石柱の根元を狙って鶫が射った。矢は石柱の脇の地面に突き刺さり、展開脚が開いて固定された。橙の灯りが灯る。灰の野の中央は穢れ濃度が石牙丘陵より薄く、明滅がゆっくりだった。
泥骨沼寄りの南の稜線。三灯目。
稜線に上がるまでの道で、善次郎が地面に手を触れた。
「骨百足の痕。新しい」
善次郎が薙刀を構え、稜線の手前に壁を張った。朔が燭明術で索敵する。五位の穢れ反応は検出されない。痕跡は通過したあとのものだった。
善次郎の壁が維持される中、鶫が稜線の高い岩に向けて翔月を引いた。矢が飛ぶ。着弾。展開脚。三灯目が灯った。
枯蔦の森の外周路入口。四灯目。
森の縁に立つ枯れた高木の幹を狙った。鶫は距離を測り、風を読み、弦を引いた。射線が上を向く——幹の中ほど、枝が落ちた跡の平坦な面に向けて。
弦音。矢が飛んだ。幹に突き刺さった穢れ灯の矢が灯る。木肌に橙の光が滲んだ。
灰輪を一周して、四つの灯りが灯った。
蓮が振り返った。来た道の延長に石牙丘陵の見晴らし岩がある。そこから橙の光が見えるはずはなかった——日中の灯りは距離と光に紛れて届かない。
「夜になったら見えるかな、里の門から」
「近い灯りなら……見えると思う」
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帰路は南の稜線から里に向かう道を取った。
鳴弦が肩の上で首を動かした。朔のほうではなく、北東——石牙丘陵の方角に顔を向けている。
キィッ。
鋭い声だった。警戒の声。だが進行方向には何もいない。
朔は燭明術を伸ばした。目の前の道ではなく、石牙丘陵の方角に。穢れ灯に向けて術式の糸を伸ばすと、穢れ灯の回路から信号が返ってきた。感応板が拾った穢れの変動。通常の灰輪の穢れよりも明らかに濃い反応が、法力の糸を伝ってくる。
五位級の穢れ変動。
「北東に五位。こちらには来ないけど、石牙の穢れ灯が拾ってる」
凌が歩みを緩めた。鶺鴒の柄に手をかけたまま、北東を見た。
「……あいつが教えてくれてるわけか」
善次郎が朔を見た。
「避けるか」
「このまま帰る。明日の班が石牙方面を通る前にこの情報を共有すれば——朝の判断が変わる」
朔は手帳を開いた。石牙穢れ灯の反応。五位推定。北東寄り。帰還後に壮介に渡す記録に、一行が加わった。
鶫は翔月を背に戻しながら、朔の手帳を横目で見た。
「巡哨前に穢れの分布がわかれば、無駄に六位を踏まなくて済む。当たり前のことなのに、今まで誰もやらなかったんだね」
「やれなかった。灰輪に目がなかったから」
鶫が前を見た。
「いい目だよ、あの灯り」
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帰還。穢れ検査。
控え詰め所に入ると、壮介が机の上に地図を広げて待っていた。灰界端の石柱の位置が鉛筆で記された地図——朔と何度も記録を持ち寄った、あの地図だった。だが今日は四つの新しい印が書き加えられている。穢れ灯の設置点。壮介は朔たちが出発した後に、設置座標に基づいて事前に印をつけていた。
朔は手帳を開いた。四灯の稼動状況、各地点の明滅速度の概測、石牙丘陵の五位反応。
壮介は手帳を受け取り、地図の上に並べるように読んだ。
「灰界端の記録は、境界の後退を見ていた。穢れ灯の記録は、灰輪の内側の穢れの変動を見ている。——これを重ねると、怪異がどこから入ってきて、どこに溜まるかが見えてくる」
壮介の鉛筆が地図の上を走った。四灯の監視域を囲む円。円の重なりが薄い地帯を結んでいく線。穢れの濃い場所を避け、薄い地帯を縫うように引かれた一本の経路。
「ここを通れば、六位以下との遭遇をかなり避けられるはずだ。省いた分の法力と時間で、もう少し奥に行ける」
壮介は地図を傾けて朔に見せた。灰界端の記録——壮介と何巡も積み上げた右肩下がりの数字——と、穢れ灯の初日の記録が重なっている。境界の後退と、灰輪内部の穢れの濃淡。二つの層が重なることで、灰輪が初めて地図として読めるものになっていた。
「これを明日の班に共有すれば……」
「お前の記録だ。ここに持ってくるだけで十分。あとは俺が地図に落とす」
壮介は鉛筆を耳にかけた。
「確認するぞ——四灯で灰輪の六割。あと三灯で九割をおおよそ覆える」
朔は地図を見つめた。壮介がやってのけたことの意味が、静かに染み込んでくる。穢れ灯を設計したのは朔だった。設置先を選んだのも朔だった。だが灯りの記録と灰界端の記録を重ね、灰輪に経路を引いたのは壮介だった。
「ありがとうございます、壮介さん」
壮介は地図を帰還予定表の横に貼った。壁に掛かった帰還予定表の上——全ての班が任務に出る前に必ず目にする位置だった。
「確認するぞ——明日の補充用法石は?」
穢れ灯の法石交換の日程の話に移った。壮介の声は穏やかで、変わらなかった。何も特別なことはしていないかのように、次の手順に進んでいく。
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日が落ちた。
朔が外采棟に戻ろうとしたとき、外采門の門番が門の外を見ているのに気づいた。通常班の外采使が二人、門柱に背を預けて灰輪の方角を向いていた。
灰輪の闇に、橙の光が二つ瞬いている。灰の野の中央丘と、枯蔦の森の外周路入口。門から近い二灯だけが、夜の底に浮かんでいた。石牙丘陵と南の稜線の灯りは、丘の向こうで門からは見えない。
「……あれ、穢れ灯ってやつか。ずっと光ってるんだな」
「明け方に見てから出れば、どっちに行けばいいかわかるのか。——楽になったな」
朔はそのやりとりを背中で聞いていた。振り返らなかった。
外采棟に入った。鳴弦が肩の上で穏やかに鳴いた。ピィ。
朔は手帳を開いた。今日の記録を整理する。明日の早朝、帰還予定表の横の壮介の地図が更新されている。その地図を見てから出る班がある。
灰輪の闇に灯る四つの光のうち、門からは二つしか見えない。残りの二つは丘の向こうで、誰の目にも届かない。だが確かに、灯っている。




