133話:やはり気づいたか
総宰司の廊下は、外采棟とはまるで空気が違った。
音が軋まない。板張りの床は磨き上げられ、壁に貼られた紙は白く、余計な掲示がない。窓の障子越しに差す光は清潔だったが、朔は廊下にいるだけで喉が詰まるような圧を感じていた。
前を歩く剛丈の背は大きい。右頬の古い傷跡が窓の光で白く浮いている。剛丈は歩き慣れた調子だったが、声だけを落とした。
「数字はそのまま出せ。余計なことは言うな」
「はい」
「嶺壱は数字の先を読む」
それだけ言うと、剛丈は前を向いたままもう口を開かなかった。朔は報告書を胸の前に抱えて歩いた。手帳から転記した数字だけの紙——法石回収数の年次推移、水位の月次変動、灰界端の後退距離。分析の欄は空白のままだ。
廊下の突き当たりに木の引き戸があった。剛丈が立ち止まった。引き戸に掛け、引く。
部屋の空気が変わった。
書斎は広かった。三方の壁に棚が据えてあり、帳面が背の高さまで並んでいる。紙の匂いと、微かに線香の残り香がする。机が一つ。天板に筆と硯。開いたままの帳面——分厚い綴じの台帳の上に、数列がびっしりと並んでいた。灯りは一つ。暖色の行灯が机の隅に置かれ、部屋の半分を薄い影に沈めている。
嶺壱が机の前にいた。
椅子に座り、台帳に顔を落としていた。剛丈の気配に顔を上げる。
嶺壱の顔を見るのは二度目だった。一度目は守篝の法石を願い出たとき——あのときの朔は、篝のために頭を下げる子供だった。嶺壱の顔も声も、覚えているはずなのに遠かった。
今は違う。書斎に座る嶺壱は「凌の父」でも「法石を許可した人」でもなかった。鋭い目——凌の赤銅色とは違う深い鉄紺の色をしていた。額が広く、頬が削げていて、顔の線が鋭い。痩せた男だった。それは衰えではなく、削ぎ落としたものの多さに見えた。
「連れてきた」
剛丈が短く言った。嶺壱が頷いた。剛丈が朔の脇を通り過ぎて——書斎を出た。引き戸が閉まる音がした。
朔は入口に立ったまま動けなかった。
「座りなさい」
嶺壱の声は低く、静かだった。命じているのに、圧がない。だが逆らえない。朔は机の前に膝をつき、座った。
「剛丈から聞いている。見せなさい」
朔は報告書を差し出した。
嶺壱が報告書を受け取り、開いた。紙の上を、嶺壱の指が動いた。法石回収数の列。左から右へ、年を追って目が移動する。次に水位の列。同じように左から右へ。灰界端の列。
朔はその指の動きを見ていた。嶺壱が数字を読んでいるようには見えなかった。数字の並びを確認しているように見えた。知っているものと照らし合わせるように。
嶺壱の表情が変わらなかった。
報告書を閉じた。机の上に静かに置いた。そして朔を見た。
「やはり気づいたか」
朔の息が止まった。
嶺壱の声は平坦だった。驚きも、称賛も、落胆もない声だった。事実を確認する声だった。
「この数字は、私も知っている」
間があった。灯りの芯が微かに音を立てた。
「もう二十年は知っている」
朔の頭の中で何かが空転した。一年半。手帳に書き続けた日々。法石の帳簿を自分の目で読み、井戸の縄の長さを記録し、壮介と帳簿を突き合わせ、善次郎の畝を数え、三方向の灰界端を地図に書き込んだ。一年半かけて積み上げた数字の全体像が——この人には、二十年前から見えていた。
「——二十年」
朔の声がかすれた。
嶺壱が頷いた。
「天蓋歴二〇六年に、先代が最初の試算を立てた。私が引き継いで修正し続けている」
嶺壱の掌が台帳の表紙に触れた。朔が見つめているその台帳に、二十年分の数字が入っていることを、朔はこの瞬間に理解した。
「お前の数字は正確だ——私の計算と二年しか違わない」
正確だ。その言葉は褒めているのではなかった。嶺壱が二十年かけて積み上げた計算と、朔が一年半で導き出した数字が、ほぼ同じ場所を指している。それは朔の分析力への信頼であると同時に、朔が辿り着いた先に——答えがないことの宣告でもあった。
朔の喉に言葉が詰まった。
「——……知っていて、ずっと」
嶺壱は答えなかった。
答えないことが答えだった。朔が問い直したい言葉がある。知っていたなら、なぜ——。だがその問いの答えは、目の前にあった。机の上に台帳が開きっぱなしになっている。棚には帳面が三方の壁を埋めている。深夜まで灯りが消えないと凌が言っていた書斎に、この人は座り続けている。
知っていて、なお座り続けている。
何もしていないのではない。何をしても間に合わないことを知りながら、それでも計算を止めていない。二十年間、ただの一日も。
朔はその重みに触れて、声が出なかった。
嶺壱が報告書を取り、朔に返した。
「これは持っていろ。お前の数字だ」
朔が両手で受け取った。体の芯が冷えていた。
「壮介と引き続き照合しなさい」
嶺壱の視線が朔から離れた。台帳に戻る。
「——継ぎ足す者が増えるのは、悪いことではない」
それ以上、嶺壱は何も言わなかった。分析を求めなかった。結論を求めなかった。朔の数字は正確だと認めた上で、「続けろ」とだけ言った。
朔が立ち上がった。一礼した。嶺壱は台帳に目を落としたまま、それを受けた。
引き戸を開け、書斎を出た。廊下に出ると、春の夕方の光が障子越しに流れ込んでいた。
---
凌は、夜の廊下を歩いていた。
訓練場から帰ったのは日が落ちてからだった。速度型の足捌きを一人で試していた——烈の動きを記憶の中で追い、脚に法力を流す。火が弾ける。雷が散る。速くはなるが、炎が消えない。出力の半分が光と熱に逃げていく。十回繰り返して、十回とも炎が出た。
靴を脱いだ。久我崎家の板張りの廊下は冷たかった。疲労が床の冷えで引き締まる。
自分の部屋に向かう途中で、書斎の前を通る。
凌が立ち止まった。
灯りが消えている。
あの夜は灯りがついていた。冬の終わり、朔と別れた帰り道の先に——書斎の障子にぼんやりと橙色の光が透けていた。嶺壱の影が中にあった。凌は遠くから見ただけだった。立ちすくんで、三つ数えて、背を向けた。
今夜は暗い。
障子の向こうに光がない。木目の框が暗がりの中で浮いて見えるほど、廊下は静かだった。嶺壱はいない。
凌は歩いた。
止まった場所からではなく——その先に。書斎の扉の前まで。あの冬の夜には立たなかった場所に、今夜、凌は立っていた。障子の桟の木目が目の前にある。腕を伸ばせば触れる距離だった。
一つ、息を吐いた。指が微かに動いた。
二つ。拳が握られた。
三つ。
腕は伸ばさなかった。扉は開かなかった。
いないなら——
凌の中のどこかで、安堵と失望が同じ形をしていた。灯りがないことで、初めてわかったことがある。灯りがあった夜——あれは嶺壱がそこにいたのだ。机の前に座り、帳面を広げ、筆を取っていたのだ。凌が門をくぐって帰る日も、灰輪を歩いている日も。毎晩。
通り過ぎていたのは凌だった。通り過ぎるたびに、灯りは変わらずそこにあった。
凌が、扉の前から離れた。自分の部屋に向かう。板を踏む音だけが廊下に残った。
書斎は暗いままだった。
---
朔は里の道を歩いていた。
春の夕暮れだった。日が傾いて、家々の屋根の影が長く伸びている。空気はまだ冷たかったが、陽の名残りが石畳に温もりを残している。
報告書を懐に入れて歩いていた。嶺壱に返された自分の数字。「お前の数字だ」。
頭の中で、分析が回り始めていた。止まっていた分析ではなく、新しい問いだった。
嶺壱は二十年知っていた。法石の減少も、水位の低下も、灰界端の後退も。嶺壱はとうの昔に見ていた。そして二十年間、座り続けている。毎晩灯りを消さずに、帳面に向かい続けている。
あの台帳に書かれた数字は、すべて右肩下がりだった。二十年間、一度も反転しなかった数字。それでも嶺壱は計算をやめなかった。
なぜか。
答えは書斎にあった。嶺壱は何もしていないのではない。何をしても間に合わないことを知りながら——それでも、まだ探しているのだ。
何を。
手帳を開いた。法石、水位、灰界端。三つの数字の列が下がり続けている。その下に空白がある。壮介に「まだいい」と言われた空白。剛丈に「数字のまま出せ」と言われた空白。嶺壱が何も書かなくていい、とは言わなかった空白。
朔は空白の下に、一行だけ書いた。
——守るだけでは、間に合わない。
書き終えて、朔は筆を止めた。この一行は分析の先にある直感だった。嶺壱が二十年座り続けていることの意味——それは諦めではない。まだ探している。何かを。
朔にはまだその「何か」が見えなかった。だが問いだけは手帳に残った。
手帳を閉じた。報告書を懐に入れ直して、歩き続けた。
春の風が石畳の上を吹いていた。少しだけ温かかった。急いでも答えが出るわけではない。だが歩く先は家に向いていた。
---
久我崎家の書斎に灯りが入ったのは、夜が更けてからだった。
総宰司から戻った嶺壱が、自室の机の前に座った。行灯の芯を起こし、火を移す。灯りが机の天板を照らした。
机の引き出しを開けた。奥から帳面を一冊取り出す。表紙には何も書かれていない。紐を解いて開いた。
帰還簿だった。
外采使の帰還記録——日付、班名、帰還人数、法石回収数。数列が縦に並んでいる。嶺壱が頁をめくった。視線が止まったのは、特定の行だった。班名——土御門班。
帰還数。法石回収数。活動日数。穢れ検査の結果。
嶺壱がその列をなぞった。総宰司の机で朔の報告書をなぞったのと同じ動きだった。だが今度は確認ではなかった。確かめていた。
二十年分の衰退の数字が、頭の中にある。法石は減り、水位は下がり、灰界端は後退している。総宰司の台帳に刻まれた右肩下がりの線を、嶺壱は目を閉じても描ける。
帰還簿の数字は違っていた。凌の班は毎回帰還している。法石回収効率が他の通常班より高い。穢れ汚染率は著しく低い。活動日数は多い。
二十年間、右肩下がりの数字だけを見てきた嶺壱の前に、右肩下がりでない数字があった。
今日、総宰司の書斎にあの少年が来た。自力で組み上げた数字を持って。嶺壱の二十年の計算と二年しか違わない数字を。外采使の班長——凌の相棒が、あの机まで数字を運んできた。
嶺壱が小さく息をついた。
「——変えるとすれば」
台詞は途切れた。文は閉じなかった。嶺壱は結論を言わなかった——朔に対してそうだったように、自分に対しても。だがこの未完の一言に、二十年間変わらなかった数字への、初めての揺らぎがあった。
嶺壱が帰還簿を閉じた。
行灯の芯を沈めた。灯りが細くなり、書斎が暗くなった。
帰還簿が机の上で闇に沈んでいく。夜が深くなっていく。
書斎の灯りが、消えた。




