126話:走る前に
外采門を出た八人は南西に歩いていた。灰色の斜面が左右に拡がり、乾いた光が地表の粉を白く照らしている。風は弱い。穢れの匂いも薄い——穢れ灯の曇りは朝と変わらなかった。
朔班の四人に加え、千早の班が四人。先頭を歩く千早の班長——線の細い中年の外采使だった。朔が「よろしくお願いします」と一礼すると、班長は穏やかに頷いた。
「合同は助かる。南西は此処のところ鉄食みが増えてるんでな」
「班に癒し手は——」
千早が先に答えた。
「いない。あたしたちの班にはいないよ」
声に力がある。背筋が伸びている。教導寮時代と変わらない姉御肌だった。だが視線の奥に、あの頃にはなかった重さがある。門の外に出続ける日々が千早を変えたのか、それとも郁の死がそうさせたのか。
蓮が小さく頷いた。
「じゃ、あたしが両方見るね」
軽く言った。だが蓮の目は笑っていなかった。弓を肩にかけた左手が、弦の位置を微かに確かめている。
凌が千早の班の前衛構成に目を走らせた。千早——木行の盾が一人。あとは矛と索敵。壁が一人いれば形にはなる。凌は鼻で短く息をつき、前を向いた。
八人が南西に向けて歩き始めた。朔班は左翼、千早の班は右翼。蓮は二つの班の中間に位置取った——左右どちらにも走れる場所。朔はそれに気づいていた。何も言わなかった。
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鉄食みが現れたのは、灰色の斜面を半刻ほど歩いた頃だった。
全身に錆びた武器が突き刺さった巨大な猪。土を蹴り、砂塵を巻き上げて斜面を駆け下りてくる。五位。穢れの放出はないが、刺さった武器の錆びた先端が鈍く光っている。
班長が叫んだ。
「任せるぞ!」
千早が前に出た。足を踏み込み、両手を地に向ける。木行の壁が立った。善次郎の壁のような深い色ではない——薄いが、形は整っている。鉄食みが突進し、壁に激突した。衝撃で刺さった武器の先端が数本散る。千早が壁を維持したまま声を飛ばした。
「詰めろ!」
千早の班の矛が側面から走った。千早が壁の端を捻り、退路を塞ぐ。狭まった空間で矛が二度突く。核が砕けた。鉄食みが崩れ落ち、錆びた武器の残骸が乾いた音を立てて散った。法石を回収する。
朔班は援護のみだった。千早の班が手慣れた連携を見せる。壁で逃げ道を断ち、矛で仕留める。正しい判断で正しく帰す——千早の班にはその色が根づいていた。
善次郎が静かに見ている。千早の壁は薄い。だが薄さを承知で形を整え、役割を果たしている。善次郎の壁とは違う。善次郎は壁そのもので受け止める。千早は壁で導線を作っている。
蓮は弓を構えたまま、矢を放たなかった。今は撃たなくていい瞬間だった。
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間を置かず二体目。
灰の斜面の岩陰から形代綴り——紙と布の断片が人の形に縫い合わされた怪異。青白い目が三つ、千早の班の方を向いた。
朔が燭明術を展開した。穢れの気配を可視化する。岩陰の大きさ、形代綴りの位置、手足の構造が浮き上がる。
「右翼、岩の裏。形代綴り、単体」
声は千早の班長に向けていた。だが凌が先に走っていた。
汎用刀が鞘を離れる。形代綴りが岩陰から這い出し、裂けた口を開く前に凌が間合いを詰めた。一太刀——布が裂けた。二太刀——縫い合わせが千切れた。三太刀で核を断つ。穢れの煙が噴き、形代綴りの体が崩れ落ちた。
千早の班長が目を見張った。
「——速いな」
千早が薄く笑った。
「凌は昔からあんな感じです」
凌は汎用刀を鞘に収め、何も言わなかった。
蓮はこの交戦の間も弓を構えていた。矢をつがえたまま放たなかった。弦に添えた右手の指先が、僅かに白い。今は撃たなくていい瞬間だった。
だが蓮の指は弦に残っている。
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三体目は窪地だった。
灰の斜面を降りた先に、灌木の枯れ木が散在する浅い窪み。朔の穢れ灯が一瞬、曇りを深くした。
骨百足——二体。
左右から挟み込むように姿を現した。白い骨が百の節で繋がり、穢れの黒い筋が關節を走っている。甲殻が乾いた音を立てて擦れ合う。
「二体同時——左右に分かれる」
朔の声が八人に届いた。言い終わる前に動いている。
右の骨百足を千早の班が受けた。千早の壁が骨百足の前面を塞ぐ。班長が指揮を飛ばし、矛が側面に回る。
左の骨百足を朔班が迎えた。善次郎が前に出た。地面に足を踏み込む。樹相術——太い根が地面から噴き出し、骨百足の前進を受け止める壁になる。骨百足が壁に体を叩きつけた。善次郎の壁が軋む。だが崩れない。
凌が壁の隙間から入った。汎用刀が骨百足の甲殻に走る。法力を乗せた七割の一太刀——甲殻がひび割れる。二太刀目で節の隙間を突き、核に刃が届いた。
だが骨百足は死ぬ間際に嘶いた。
尾部が鞭のように撓り、体液を飛散させる。強酸性の体液が弧を描いて善次郎の右腕を掠めた。善次郎は声を上げなかった。壁を維持したまま、苦痛の表情を噛み殺す。右腕の皮膚が焼け、白い煙が上がっていた。壁が一瞬揺らぐ。
同時に——右翼で甲殻性の叩きつけが響いた。
千早の班の前衛——先輩班員が骨百足の甲殻の一撃を受け、吹き飛ばされた。肋骨の辺りを押さえて膝をつく。顔が歪む。
二人が同時に倒れた。
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蓮は弓を下ろしていた。
二人を見た。
善次郎——右腕。強酸で皮膚が焼けている。距離、五歩。千早の班員——肋骨付近。骨折と内出血の可能性。距離、十五歩。善次郎が近い。千早の班員が遠い。
蓮は走り出さなかった。
三つ、数える拍があった。
善次郎を見た。強酸の火傷が右腕に拡がっている。痛みに顔が歪んでいるが、壁を片手で維持しようとしている。善次郎には——。
朔を見た。
朔はすでに動いていた。善次郎の横に結界を展開している。薄い法力の膜が善次郎の右腕を覆い、穢れの追加浸透を遮断する。壁を維持する善次郎の代わりに、朔の結界が防御の層をもう一枚重ねていた。
善次郎には朔がいる。
千早の班員を見た。結界はない。癒し手もいない。血止め帯が腰にあるが、あれは「死なないだけ」の装備だった。千早の班員が息を吸い、それだけで顔を歪める。肋骨が折れている。
千早の声が飛んだ。
「蓮! こっちが先!」
蓮の足が動いた。
善次郎に背を向ける。十五歩を走る。善次郎は蓮の背を見ていた。何も言わない。後回しにされたことを理解している。それが正しいことも。
蓮が千早の班員のそばに膝をついた。手を当てる。癒除術の光が掌から広がり、傷口を走った。
「大丈夫。任せて」
声は震えていなかった。手も震えていなかった。菫が言っていた——「蓮ちゃんの班には蓮ちゃんしかいないんだから」。違う。蓮の班だけではない。今この場にいる八人のなかで、癒し手は蓮しかいない。
だから選ばなければいけない。
肋骨付近を診る。二本の骨折と内出血。致命傷ではない。癒除術で内出血を止め、骨の接合面を安定させる。痛みが和らいだのか、班員の呼吸がすこし楽になった。
蓮が立ち上がった。
善次郎のもとへ走った。
善次郎の右腕——強酸の火傷だが、朔の結界が穢れの追加浸透を防いでいた。
蓮が善次郎の右腕に手を当てた。癒除術の光が焼けた皮膚を覆う。
善次郎が口を開いた。
「……正しい」
短い一言だった。
蓮が小さく息を吐いた。
「——うん」
善次郎は後回しにされたことを怒っていなかった。蓮の判断が正しかったことを認めている。
朔は結界を維持したまま蓮の治療を見守り、治療が完了したのを確認してから静かに結界を解いた。
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帰路は静かだった。
八人が灰の斜面を東に戻る。千早の班員は蓮の応急処置で歩けるようになっていた。善次郎の右腕は癒除術で火傷の進行が止められており、里に帰れば浄身院で完治する。
凌が朔の横を歩いていた。しばらく無言だった。
「お前、蓮に任せたな」
低い声だった。
朔は前を見たまま答えた。
「蓮の判断だ」
短い一言だった。蓮が走り出す前の三つの拍——あの間に朔は善次郎に結界を展開し始めていた。蓮が善次郎を後回しにすることを予測して。蓮が選ぶべき判断を、朔は言葉にしなかった。蓮が判断を自分の領域としたことを、朔は無言で認めている。
凌は鼻で短く息をつき、前を向いた。
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外采門をくぐった。穢れの風が体の後ろで切れ、里の空気に変わった。
穢れ検査を終え、口頭報告。千早の班長が報告に一文を加えた。
「蓮くんの判断で全員帰れた」
蓮は少し顔を赤くした。
「くん……」
小声で呟く。凌が「くんだって」と鼻で笑い、蓮が凌の脛を軽く蹴った。善次郎は何も言わず、壁に寄りかかって腕を組んでいる。右腕はもう動かせる。
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控え詰め所の外。
朔が荷を下ろしていると、足音が近づいた。千早だった。
鳴弦が朔の右肩に止まっている。千早は鳴弦を見た。
教導寮の頃、鳴弦は千早にそっぽを向いていた。郁の肩にいる鳴弦に千早が手を差し出しても、ぷいと顔を背けた。郁が「千早さんのこと、嫌いじゃないんだけど……恥ずかしいみたいで」と困った顔をしていた。
今もそっぽを向いている。
千早が笑った。
「変わんないね。……鳴弦、元気?」
声が柔らかかった。千早は鳴弦に話しかけている。だがそれは——郁に話しかけているのと同じだ。
朔は一瞬黙った。
「元気だよ。……千早さんも、元気そうで」
千早は頷いた。
「元気よ。——ねえ、土御門。今日の蓮、よかったね」
朔は頷いた。
「うん」
千早の視線が遠くなった。
「あの子、走る前に止まったでしょ。……あたし、あのとき、あの子と同じものが見えたの。どっちが先か。あたしはそれしか考えてなかった——蓮も同じだった」
朔は黙って聞いていた。
千早の声が少し低くなった。
「……正しい判断って、いつもこうだといいのにね」
正しい判断。千早の正しい判断——抜穂の儀の撤退指示。あのとき千早の判断は正しかった。だが郁はそれに逆らって走り、朔の班を庇い、死んだ。正しい判断が全員を救えるとは限らない。千早はそれを知っている。
今日、正しい判断が両方を救えた。それは——嬉しいのではなく、痛い。
朔は声を探した。
「……うん」
千早が手を差し出した。鳴弦は——そっぽを向いたまま、片方の翼を微かに広げた。威嚇ではない。千早の手に向けたのでもない。ただ、翼が微かに動いた。
千早が笑った。
「……まだ駄目か」
手を引っ込めた。
「鳴弦は、千早さんのことを覚えていると思う」
朔の声は静かだった。
千早は一瞬だけ表情を止めた。それから、肩の力を抜いた。
「そう。——それだけでいいよ」
千早が背を向けて歩き出した。
鳴弦が一瞬だけ千早の方を向いた。朔だけが見ていた。
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夜。外采棟の自室。
朔は荷物の中から篝の手紙を取り出した。
巻いた和紙を広げる。篝の筆跡が灯の下に浮かぶ。癖のある丸い文字が並んでいる。浄身院での日常——薬典庫の整理、薬草園の水やり、「薬師が厳しいけど面白い」。篝の日々が詰まっている。
一箇所で手が止まった。
折り返して、もう一度読む。
手紙を畳み、懐にしまった。
「……法力が水に溶けたら、か」
声が低かった。篝の問い——法力って、水に溶けたらどうなるの?——篝は浄身院の薬典庫で水薬の調合法を見ていて、法力と水の関係に疑問を持ったのだろう。純粋な好奇心。だが朔にとって、この問いは何かに引っかかる。蓮が言っていた「方法がないから自分で作るしかない」——あの言葉と、篝の問いが、どこかで繋がっているような気がした。
まだ形にはならない。種が静かに落ちただけだった。
窓の外に視線を向けた。外采棟の廊下を、蓮が歩いていくのが見えた。足を止めず、自分の部屋に向かっている。今日の判断の重さを一人で抱えているのか、それとももう消化したのか——朔には分からなかった。
だが蓮の歩き方は朝と変わらない。背筋が伸びていて、歩幅が一定で、笑顔は見えないが暗くもない。
朔は窓から目を離した。
夏の夜が、外采棟の屋根の上に広がっていた。




