122話:門柱に触れる手
善次郎が足を止めた。膝をつき、地面に手を触れた。
「……応える」
灰輪の痩せた土が、善次郎の掌に微かな温もりを返している。迷霧圏では沈黙した大地が、ここでは応える。善次郎が立ち上がったとき口元が引き締まっていた。まだ間に合う——その声は出なかったが、朔には見えた。
小隊十二名が灰輪を歩いている。菅原班の負傷者は血止め帯のまま自力で歩いていた。
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里の輪郭が光った。結界の面が陽光を弾き、その手前に石造りの門柱が二本立っている。外采門。
虎太郎が門前で法力信号を送った。結界紋が淡く光り、結界の網目が解けていく。
虎太郎が右手を伸ばし、門柱に触れた。二呼吸。手を離し、門をくぐった。
彰吾が続いた。澪が門を抜ける。菅原班が入る。善次郎が、蓮が、門をくぐった。
朔は門柱の前で足を止めた。右手を伸ばした。
石は冷たかった。手のひらが紋のくぼみに嵌まった。ここに帰ってきた。自分の足で灰輪を歩き、迷霧圏を抜けて、門の前に立っている。
手を離し、門をくぐった。
虎太郎が振り返っていた。穏やかな目だった。
「次は自分の判断で行くんだね」
一拍。
「——楽しみにしてる」
朔は「はい」と答えた。
凌が門をくぐった。門柱には触れなかった。ただ門を通る瞬間、練刀の柄を一度だけ握り直した。拳が白くなるほど強く——すぐに緩めた。
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穢れ検査を抜け、控え詰め所に移った。虎太郎が帰還予定表に十二名の名前を書き入れる。空白なし。
帰還報告。虎太郎が剛丈の前に立ち、簡潔に述べた。小隊十二名全員帰還。四位・朽宮一体、四位・鉄錫三体、五位一体を討伐。石柱「灰界端 二一九」の座標と、灰輪端からの後退距離・約四百歩。
壮介が壁際から進み出た。「手帳を見せてくれ」
朔は手帳を渡した。壮介が頁をめくりながら、生存地図の原本を広げた。石柱の位置を地図上に赤い印で落とし、後退距離を書き込む。朔の記録が生存地図の最前線に初めて入る瞬間だった。
壮介の手が止まった。土壌のまだら浸食の記録を見ている。
「この土壌の所見は誰のだ」
「善次郎です」
壮介が善次郎を見た。善次郎は壁際にいたが、名前を呼ばれて一歩出た。
「志場。具体的に聞かせろ」
剛丈だった。腕を組んだまま、善次郎を見ている。善次郎が呼ばれて報告するのは初めてだった。
善次郎は大きくは動じなかった。声は低いが明瞭だった。
「均一には枯れていません。露出した土壌から法力が抜け、岩の根元や古い樹の根の周りにだけ残っている。まだらの模様です。——灰輪の土壌劣化とは進み方が違います。灰輪は薄く広く減る。迷霧圏は、弱い場所から先に壊れていた」
剛丈が目を細めた。善次郎の観察を受け止めている。
壮介が地図に戻った。
「偵察目標の回廊谷入口には届いていない。だが境界後退の記録は得た」
壮介の声は穏やかだったが、地図を指す手には力があった。
「五年前に灰輪の端だった場所が、迷霧圏に取り込まれている。護帯の消耗の速さは灰輪の一・五倍。穢れ灯の濃度推移でも迷霧圏は地の穢れが高い——結論として、今回の穢れの偏移は灰輪側の問題ではない。迷霧圏から押されています」
剛丈が地図を見た。
「……次はもっと奥まで行く必要がある、ということか」
「はい。ただし今回の編成では外縁が限界です。回廊谷の入口までなら——護帯の法石を二組持つか、中継拠点を置くか。装備と行程の見直しが要ります」
護帯の法石二組。それは里の法石備蓄を直接圧迫する。剛丈の沈黙は、壮介の言葉の先にあるもの——深部遠征の負担——を咀嚼しているようだった。
菅原が虎太郎に近づいた。声は大きくないが控え詰め所に届いた。
「虎太郎さん。——あの班、次からは任せて大丈夫だ」
虎太郎が笑った。穏やかな、いつもの笑みだった。
剛丈が朔の班を見た。何も言わなかった。だがその目が朔を捉えた——見習い卒業のときとは質が違った。一人前の班を見ている目だった。
善次郎が朔に近づいた。
「朔。岩の根元の法力のこと——ちゃんと書いたか」
「書いた。座標と、周囲の土壌との比較も」
善次郎が頷いた。
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蓮は控え詰め所を出ると浄身院派出所に向かった。菅原班の負傷者が穢れ浄化処置を受けている廊下で、足が止まった。
「蓮ちゃん」
巴が廊下の奥から歩いてきた。蓮の目を見て、何かを読み取った。
巴は蓮の隣に並んだ。
「あの場面、俺なら走る。うちの班なら、俺が抜けても班は動く。——だから俺は走れる」
一拍。巴が蓮を見た。
「でも——蓮ちゃんの班には、蓮ちゃんの正解がある」
蓮は巴の顔を真っすぐ見た。何かを掴みかけている目だった。巴は蓮の肩を一度だけ叩いて、通り過ぎた。
帰路。懐に手が触れた。白紙札。活紋の札の失敗作。蓮はそれを掌で確かめて、また離した。
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翌朝。朔は内工座の斎具所を訪ねた。
炉の火が低く燃えている。鉄の匂いと、焦げた木屑の匂い。玄外が作業台の前に座り、木札の裏面に彫りを入れていた。
「玄外さん。凌の練刀を見ていただきたいと思って」
朔は凌から預かった練刀を差し出した。玄外が手を止め、受け取った。
刀身を光にかざした。親指で刃の面をなぞる。微細な光の筋——肉眼では分からないが、玄外の手はそれを捉えている。
「……この筋はいつからだ」
「昨日です。迷霧圏で四位の核を全力で——」
「朽宮か」
玄外の声にわずかな間があった。練刀を作業台に戻し、断面を指先で擦った。爪先が亀裂の溝に沈むのを確かめている。
「汎用品で四位の核を断ったのか。——よく保ったな」
それは凌への間接的な評価だった。だが玄外の目は刀身に戻っている。
「坊。これは修繕じゃ済まない。以前の亀裂の修繕痕の上に新しい筋が走っている。地金が限界だ。次に法力を全開で通した瞬間——折れる。戦闘中に。刃が飛べば凌の坊の手も周りも危ない」
朔は黙って聞いた。
「凌の坊に見合った刀は打てる。だが練刀の地金じゃ話にならない。質の良い霊鉄がいる」
「……どこで手に入りますか」
「灰輪の南東、石牙丘陵の奥だ。深いぞ」
玄外は亀裂を指先でもう一度なぞった。
「……亀裂の入り方でわかる。凌の坊の法力は相当なもんだ。この法力をすべて受け止めには素材の他にも相応の工夫がいる」
凌の法力に耐える地金。石牙の霊鉄。さらに膨大な法力を効率よく循環、増幅させるための工夫。
「素材が手に入り次第、設計を持ってきます」
「ああ」
玄外は札に視線を戻した。彫りの手は止まったままだった。
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控え詰め所に戻ったとき、善次郎と蓮が先にいた。凌は壁際で腕を組んでいる。練刀のない腰が、見慣れた姿から何かを欠いて見えた。
朔が玄外の診断を伝えた。次に全開で通せば折れる。凌は目を伏せたまま何も言わなかった。
善次郎が先に口を開いた。「……凌の刀が最優先だな」
蓮が続いた。「うん。凌の刀がないと活動にも支障がでる」
凌が鼻で短く息をついた。それが凌の「ありがとう」だった。
朔は手帳に書き込んだ。「凌の刀——素材:石牙丘陵。霊鉄」
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夕刻。土御門家の門を開けると灯りが漏れていた。
「おかえりなさい」
瑞の声だった。
「さくにぃ!」
篝が駆け寄ってきた。朔は「ただいま」と答えた。
食後、篝が冊子を差し出した。表紙に「記録帳 四」と書かれている。
「さくにぃがいない日も、ちゃんと測ったよ」
朔が記録帳を開いた。遠征中の三日間——他の日と比べて僅かに穢れの数値が高い。
「遠征の間、ちょっとだけ穢れが強かった。さくにぃが帰ってきた日にまた下がったの」
篝は穢れの数字で帰還を知っている。呼吸結界が安定すれば敷地の穢れが下がる。朔がいなければ上がる。その差を篝は数字で読み取った。
「……ありがとう、篝。大切な記録だよ」
篝が笑った。「えへへ。——さくにぃ、次はいつ帰れる?」
「近いうちに」
篝が寝た後、朔は縁側で手帳と記録帳を並べた。遠征三日分の迷霧圏の数字。篝の里内の数字。境界の後退。土壌のまだら模様。護帯の消耗の差。穢れ灯が示した濃度の推移。
そして——朔がいない三日間、里の穢れが揺れたこと。
迷霧圏が灰輪を侵食し、灰輪の穢れが里を圧している。二つの手帳が描く世界は、同じ里の外と内だった。
鳴弦が手帳の端を嘴でつついた。朔は手帳を閉じた。
空を見上げた。春の夜空が高く、星が遠い。迷霧圏の霧はここまでは来ていない。
——まだ。




