120話:視界の果て
紙片を澪に渡した。「穢れ灯が反応してから百五十呼吸」。
澪は数字を見て、指先で何かを数えるように地面に触れた。「百二十で足りる。三十は余る」
「三十呼吸で燭明術の走査が一周できる。上と下が揃います」
澪の指先が再び動き始めた。肯定だった。
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十二名が西へ。灰輪の端を越えた。
十歩で空気が変わった。灰色が乳白に落ち、視界が十歩に縮む。善次郎が鼻先に皺を寄せた。穢れの匂いが肌に粘る。
虎太郎が腕を上げて小隊を止めた。振り向きもせず言った。「この先は灰輪とは別物だ。間隔を詰めろ」
凌が前衛の距離を半分に縮めた。善次郎が左翼に入り直した。蓮が弓を片手に下げたまま朔の右後方についた。行軍の拍子が変わった。灰輪では三十歩の間隔——ここでは十歩。互いの背中が見える距離に全員が寄った。
朔は燭明術を展開した。——霧に吸われた。灰輪では二百歩まで届いた走査が、ここでは五十歩で白く濁って消える。
「見えない」
澪が地面に片膝をついた。二呼吸の沈黙。
「南南西、約二百五十歩に動くもの。六位が三、五位が一」
朔の燭明術では五十歩先が限界。菌糸は二百五十歩先を捉えている。霧は地上を塞いでも地中には入れない。上からの目が死んだ分だけ、下からの耳が生きた。
虎太郎が回避路を指示した。十二名が弧を描いて回り込む。鳴弦が低い高度で旋回し、キィ、と短く鳴いた。澪の探知した方角と一致した。
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回避行動の合間に、善次郎が地面に手を触れた。いつもの動作だった。だが手を引いた後の表情が違った。
「……何も残っていない」
灰輪の土壌は「痩せている」と善次郎は言った。法力が抜けて草を養う力が衰えている、と。ここは違う。善次郎は拒木を試みた。法力を地面に通す——根が形を成さない。法力が泥に染み込むように消えた。
善次郎の顎が引き締まった。それだけだった。隊列に戻り、練薙刀の柄を握り直した。
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穢れ灯の明滅が速まった。
迷霧圏に入ってから灯は常に揺れている——地の穢れが濃いからだ。だが今は違う。明滅が段違いに速い。何かが近くから穢れを撒いている。
「穢れ灯が跳ねた。——澪さん」
澪が地面から手を上げた。「右前方、推定二百歩。四位。単体」
朔は声を張った。十歩の間隔なら届く。「右前方二百歩——四位」
虎太郎が即座に応じた。「迎撃。凌くん前へ。善次郎くん左を押さえて」
凌が走った。善次郎が左翼の位置を取った。蓮が矢を番えた。菅原班が退路を固めた。
霧の向こうから地鳴りが来た。足元が揺れる。何かが地面を叩く音が等間隔に響き——崩れかけた社殿が歩いていた。
朽宮。瓦屋根の断片が背面を覆い、腐った柱が四本の脚として動く。高さ三間。社殿の内部から穢れの靄が吹き出し——周囲に壁が生えた。朽ちた鳥居、崩れた回廊、苔むした石灯籠。地面から突き上がるように穢れの構造物が出現し、十二名を分断していく。迷路だった。
護帯が腰元で激しく震え始めた。穢れの迷路の中は外より濃い。法石の消耗速度が跳ね上がっている。
壁が伸びた。すでに虎太郎班と菅原班が視界から消えている。迷路が班を分断している。朔の手が懐の伝声札に触れかけた——使えば虎太郎に声が届く。だが伝声は一度きりだ。ここで使えば撤退の合図が出せなくなる。朔は手を戻した。
四人だった。朔の班だけで目の前の四位と対峙する。
「善次郎——縛地!」
善次郎が札帯から土色の札を引き抜き、地面に叩きつけた。法力の棘が地中から突き上がり、朽宮の前脚二本を拘束する。柱が軋み、歩みが止まった。迷路の生成が途切れる。善次郎が指を五本立てた。五呼吸。
蓮が浄煙札を投げた。白い煙が広がり、穢れの壁が薄くなる。護帯の振動が僅かに軽くなった瞬間——壁に亀裂が走った。
朔が爆砕札の紐を引いて投げ込んだ。壁の根元で炸裂。穢れの構造物が崩れ、破片が霧に散った。隙間が開いた。
「凌——核だ!」
凌が隙間に突入した。社殿の内部、暗い奥で穢れの凝固体が脈打っている。
凌が練刀に法力を流した。全力。柄が震えた。刀身に光の筋が走り、金属の悲鳴のような高い音が霧を裂いた。
一太刀。核が砕けた。
朽宮が崩れる。柱が折れ、瓦が降り、穢れの迷路が端から煙のように消えていく。分断されていた視界が戻り、虎太郎班と菅原班の姿が霧の向こうに見えた。
「爆砕、残五。浄煙、残三。縛地、残一」
朔の声に虎太郎が手を上げて応じた。凌が練刀を引いた。刀身に筋が走っている。刃こぼれではない。法力の過負荷が刻んだ亀裂だった。
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菅原班の班員が迷路の壁に接触していた。擦過傷と穢れの軽度侵食。血止め帯を自分で巻いている。菅原班には癒し手がいない。
蓮が腰を浮かせた瞬間——巴が走っていた。走りながら穢れの除染と止血を同時に編む。菅原班の負傷者を歩かせたまま手当てを終わらせた。
蓮の手は弓の弦の上で止まったまま動かなかった。十二名に癒し手は二人しかいない。蓮が走れば土御門班に癒し手がゼロになる。巴がいたから走らずに済んだ。——巴がいなかったら。
菅原が朔のそばを通りがけに言った。「お前の目は使える。次も頼む」
朔は「はい」とだけ答えた。凌の練刀の亀裂が視界の端にあった。
「凌——その刀、次は保つのか」
凌は刀身を見た。答えなかった。
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帰路の分岐で、朔は足を止めた。
燭明術の走査。穢れ灯の数値。澪は菌糸を展開したまま待っている。朔はその全てを虎太郎に伝えた。
「左の道は穢れが薄い。菌糸にも怪異の反応がない。右は穢れがやや高く、岩場で行軍速度が落ちます。——左を推します」
虎太郎は二つの道を見比べた。右の道の岩場——苔と古い根が張りついた暗い斜面。左の道——開けた窪地に薄い霧が流れている。索敵の全てが左を示していた。
三呼吸の沈黙。
「右だ」
朔の口が開きかけた。「……虎太郎さん。左のほうが——」
「聞こえた」
虎太郎は朔のほうを向かなかった。振り向いたのは彰吾のほうだった。彰吾は何も言わず頷き、先頭を右へ切った。迷いがなかった。彰吾は理由を知っている。朔は知らない。
澪が菌糸を引き上げた。何も言わず右の道に踏み出した。澪も虎太郎の判断に異を唱えなかった。同じ班で何年も灰輪を歩いてきた三人は、数字の外にあるものを共有している。
小隊が右の道に入った。岩場は歩きにくかったが、足元は堅かった。善次郎が足裏の感触を確かめるように歩いた。「……右の地面のほうが、まだ少し応える」。声は独り言のように低かった。
朔は振り返った。左の道は霧の中に遠ざかっていく。穢れ灯は反応しない。菌糸にも異常はなかった。索敵が安全だと言っている道を、虎太郎は退けた。
数字が拾えないものがある。索敵術が「安全」と示す場所が安全とは限らない。——朔はそのことを理屈としては知っていた。だが理屈と実感は違う。数字を積み上げて出した結論が、声ひとつで退けられたとき、手帳に書くべき言葉が見つからない。
「朔くん」
虎太郎が初めて振り向いた。穏やかな目だった。
「間違ってはいない」
一拍の間。
「——でも、合ってもいない」
それだけだった。虎太郎は前を向き直した。
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二日目の野営地。結陣杭を打ち、十二名が簡易結界に収まった。
朔は手帳を開かなかった。
膝の上に手帳を置いたまま、左の道を思い返していた。穢れ灯も菌糸も燭明術も——全部が安全だと言っていた。虎太郎はそれを聞いた上で右を選んだ。彰吾は頷いた。澪は異を唱えなかった。
索敵では拾えないものがある。——わかってはいた。だがそれが何なのかに、まだ名前をつけられない。
鳴弦が右肩に降りた。ピィ、と低い声。嘴で襟をつまんだまま離さなかった。
手帳は閉じたままだった。




