119話:霧の底へ
——冬が溶けた春。剛丈が控え詰め所に現れたのは、装備点検が終わった直後だった。
「来い」
日常の響きがなかった。朔の班と虎太郎の班が頭領執務室に呼ばれた。
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板敷に十二名が膝を揃えた。虎太郎の班——彰吾、澪、巴。朔の班——凌、善次郎、蓮。壁際にもう一つの通常班。脇に壮介が生存地図の原本を広げている。
「灰輪の外の偵察を命じる。目標は迷霧圏外縁——回廊谷の入口手前まで」
灰輪の外。朔の班が踏み入ったことのない領域だった。
「原因がわからん以上、見に行くしかない——そういう話だ」
壮介が生存地図を指さした。
「土御門班の巡哨記録と各班の報告を照合しました。灰輪の西部から南東にかけて穢れの分布が偏移しています。原因は灰輪の中にはない。迷霧圏の奥で何かが変わっている可能性を確かめる偵察です」
壮介の指が灰輪の西端をなぞり、迷霧圏の境界線に触れた。朔の手帳の数字が生存地図に載っている。個人の記録が任務の根拠になっていた。
「行程は二泊三日。灰の野の西部から灰輪外縁で一泊、翌日に回廊谷入口手前で偵察、三日目に帰還。銀嶺峠には入りません」
「小隊指揮は虎太郎」剛丈が言った。
虎太郎が朔に目を向けた。「朔くんの班には索敵と帰還判断の一翼を担ってもらう。——灰輪の外は初めてだね」
穏やかな声だった。だが帯同ではない。見せてもらう側ではない。初めて対等な通常班として虎太郎の横に立つ——その意味が声に込められていた。
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召集が解け、控え詰め所に戻ると、武器庫の脇に木箱が四つ積まれていた。
壮介が箱を開けた。革帯が四本。腰回りと胸元に色分けされた差し口が並んでいる。赤、白、土色、青、紫——朔の班が見たことのない装備だった。
「札帯だ。北斗衆と正規の遠征班が携行する装備だが、今回の任務で土御門班にも配備する」
壮介の声は事務的だった。だがその意味は重い。灰輪巡哨しか経験のない新人班に札帯が渡される。灰輪の外に出るとはそういうことだった。
朔は受け取った。革の匂い。ずしりとした重さ。差し口に指を入れて中身を確認した。裂光が三、爆砕が六、浄煙が四、縛地が二、伝声が一組。
「各札の効果は知ってるな」壮介が朔を見た。
「座学は。ただ、実際に使ったことはありません」
「迷霧圏仕様で爆砕と浄煙を増やしてある。標準より各二枚多い。使い方は虎太郎の班を見ろ——だが残数管理は班長の責務だ。忘れるな」
凌が札帯を手に取った。差し口の並びを見て、赤い差し口から爆砕札を一枚抜いた。紐がついた赤い紙球。掌で重さを量るように握り、戻した。
「紐を引いて投げるだけか」
「紐を引いてから二、三呼吸で起爆する。半径五間。味方の近くでは使うな」壮介が言った。
善次郎が護帯の上から札帯を巻いた。帯の位置を調え、右腰の爆砕札に指を掛けて引き抜く動作を試した。引っかかった。位置を少し下げて、もう一度。今度は抜けた。戻す。三度目。指が通りを覚えていく。
蓮が浄煙札を抜いて、薄青い筒を見た。
「これ、癒除術の封入? 浄煙四枚で、持続は合計どれくらいですか」
「術の封入ではない。風がなければ各三分。霧の中なら流れにくい分、もう少し保つかもしれない」
朔は札帯を巻き終えた。腰に重みが加わる。護帯と練錫杖に加えて、十七枚の札。新しい道具が増えた——ならば戦い方が変わる。
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「札の使い方を決めたい」
凌が顔を上げた。善次郎が手を止めた。蓮が浄煙札を戻した。
「今まで灰輪の巡哨では札なしで回ってた。術と武器だけで足りてた。でも迷霧圏は違う。札があることで何が変わるか——そこを整理しておきたい」
凌が腕を組んだ。「何が変わる」
「まず、爆砕六枚で下位の群れを術なしで片づけられる。群れの排除に凌の雷火術も善次郎の拒木も使わなくていい。法力を温存できる」
凌の目が動いた。法力の温存——今まで下位の群れに雷火を撃っていた消費が丸ごと浮く。浮いた分を五位級に全力で使える。
「浄煙四枚で護帯の負荷を下げられる。そのぶん法石の寿命が延びる。ただし四枚は有限だから——二枚を野営用に確保、残り二枚は遭遇戦の退避用。浄煙が一枚を切ったら帰る」
「厳しいな」凌が言った。
「護帯だけで迷霧圏の穢れを防いだら、法石が一ヶ月持たない。浄煙が切れた時点で任務の前提が崩れる」
凌は黙った。それから短く「わかった」と言った。
「裂光は撤退の最終手段。三枚全部を残しておく。——問題は縛地だ」
朔は善次郎を見た。
「善次郎。縛地は地面に設置してから起動するまで三十呼吸かかる。でも善次郎の拒木で先に根を張っておけば——」
善次郎が顎を引いた。考えている。
「……根の上に縛地を重ねて起動すれば、棘が根に沿って伸びる。拘束範囲が広がるのと、五位でも五呼吸は止まる。ただし——」
善次郎は指で膝を叩いた。
「根を張るには俺が先に前に出てないといけない。縛地が要る場面は撤退戦だ。俺が前にいて根を張り、その上に札を投げる——投げるのは俺がいい。自分の根の位置がわかるから」
朔は頷いた。善次郎の提案は正しかった。術と札の連携は、術者本人に札を持たせたほうが精度が上がる。
「善次郎に縛地を二枚預ける。蓮、浄煙はどうする」
「あたしが持つ。治療中に浄煙を焚いてから蓮の弓が届く距離で治療する、って形にしたい」
蓮の声は明るかったが、提案は合理的だった。浄煙の中で治療すれば、治療者と患者の双方が穢れの追加蓄積を抑えられる。
「伝声は虎太郎の班との連絡用。朔くんが持ってて」蓮が続けた。
朔は頷いた。紫の差し口から伝声札を確認した。二枚で一組。片道一回きり。もう片方は虎太郎の班が持つ。使う瞬間は「合流しろ」か「撤退しろ」のどちらかだ。
札帯の中身が四人に振り分けられた。道具が増えたことで、班の戦い方が一段変わった。灰輪では術と武器だけで回していた。ここからは術と武器と札で回す。
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四半刻後。控え詰め所の隅で、朔と澪が向かい合った。虎太郎が索敵の打ち合わせを指示した。
澪は手帳を持っていない。菌糸から得た情報はすべて感触として澪の中にある。指先が膝の上で微かに動いていた。
「僕の燭明術は上から穢れの濃淡を走査します。鳴弦が空から位置を絞る。でも迷霧圏の霧の中では法力が散乱して、精度が落ちるはずです」
「地中は関係ない」澪が言った。「根と菌糸で振動と法力の流れを追う」
「じゃあ、僕が上から照らして、澪さんが下から押さえる。二つの索敵が重なる場所だけが——」
「重なる場所が確実な情報になる。でも菌糸の展開は遅い」
澪が朔の言葉を先に回収した。考えはすでに先に進んでいた。
「到着前に仕込む時間が要る。怪異が近づいてるとわかるのはいつ」
朔は懐から穢れ灯の試作品を出した。掌に収まる小さな灯具。感応素材が周囲の穢れの流速に反応し、光の明滅に変える。
「穢れ灯は足元の穢れ濃度を光に変えます。怪異が近くにいれば穢れが濃くなる——灯が速く明滅すれば、何かが寄ってきている合図になる。方角も距離もわからない。でも澪さんに『探してください』と伝える合図にはなる」
「合図があれば射程を絞れる」
朔は頷いた。だが澪は指先の動きを止めた。
「足りない」
「……何が」
「仕込みに百五十呼吸は要る。穢れ灯が明滅してから怪異が来るまで、何呼吸ある」
朔は考えた。穢れ灯が濃度の上昇を拾ってから、怪異が接敵距離に入るまでの猶予。それは怪異の移動速度と穢れの拡散範囲に依存する——だが実測したことがない。試作品だ。
「……わからない。まだ実測していません」
澪は朔を見た。表情は変わらなかったが、質問の角度が変わった。
「じゃあ灰輪の端で測って。穢れ灯が変化を拾ってから接敵まで何呼吸あるか。それがわからないと、菌糸の仕込みをいつ始めるか決められない」
朔の思考が止まった。一瞬ではなく、三呼吸ほど。澪の言っていることは正しい。計画の前に実測がいる。朔は設計者の頭で考えていた——澪は実戦者の頭で考えていた。
「……灰輪外縁の一泊目で測ります。穢れ灯の反応速度を記録して、翌朝までに猶予時間を出す。それを澪さんに渡します」
澪の指先が再び動き始めた。肯定だった。
廊下から足音がして、蓮が顔を覗かせた。
「何してるの?」
「索敵の設計。灰輪の端で穢れ灯の猶予時間を実測してから組み立てることになった」
蓮は控え詰め所に入ってきた。少し離れた場所に腰を下ろした。
「……あたしは弓の射程が心配。霧の中で的が見えるのかな」
「見えるようにする。蓮の弓が届く範囲には、僕が位置を伝える」
蓮は朔を見た。唇の端がわずかに上がった。笑顔ではない——信頼の形だった。
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夕餉を済ませた後。善次郎が護帯の法石を取り出し、光にかざした。琥珀色は均一だった。
「まだ三分は残ってる。交換は出発前にする」
法石を戻す手つきに迷いがない。確認が善次郎の日課になっている。
凌が練刀を膝に載せていた。修繕跡を指でなぞり、法力を流しかけて——やめた。「まだ持つ」。低い声だった。
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朝。外采門の前に十二名が集結した。
朔は門柱の前で一瞬だけ足を止めた。右手が上がりかけて、下ろした。まだ触れない。
門が開いた。穢れの混じった風が頬を打った。今日は西に向かう。
「西の風はありがたい」虎太郎が言った。
十二名が灰の野に踏み出した。
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灰輪の西部を行軍した。標準巡回路の西端を過ぎ、さらに進む。朔は手帳を開いた。最後の記録点を通過した。ここから先は白い頁だった。
手帳を閉じ、穢れ灯を取り出した。感応素材の表面に微かな色の変化がある。灰輪の中では動かなかった光が、ここでは揺れている。穢れの濃度は灰輪内部の約一・七倍。迷霧圏ではない。灰輪の「端」を歩いている。
前方で澪が片膝をつき、地面に手を触れた。
沈黙があった。
「南南西、約三百歩に動くもの。小さい。七位が二」
朔の燭明術はまだその距離に届いていなかった。穢れ灯は——手元の灯具を見た。明滅していない。三百歩先に七位がいるのに、足元の穢れ濃度は変わっていない。澪の菌糸だけが、二人の目より先に前方を捕らえている。
小隊が歩き続けた。百歩ほど進んだとき、穢れ灯が微かに揺れた。明滅が始まった。穢れの流速が上がっている——何かが近い。
「穢れ灯が動いた。今。——澪さんの探知から約百歩歩いた」
澪が小さく頷いた。百歩。歩速から換算すれば約百五十呼吸。菌糸の仕込みに百五十呼吸は要る——ぎりぎり間に合う猶予だった。
虎太郎が手を上げた。七位二体は回避して問題ない。小隊が弧を描いて迂回した。
虎太郎が空を見上げた。「今日はここまで。野営の準備を」
灰輪の西端外縁で、焚き火が組まれた。
朔は結陣杭の設営を手伝いながら、手帳の白い頁に最初の数字を書き込んだ。「穢れ灯の猶予——菌糸探知から約百歩(約百五十呼吸)で濃度上昇を検知」。菌糸が先に見つけ、穢れ灯が追いつく。百五十呼吸は菌糸の仕込みにぎりぎり足りる。だが迷霧圏では穢れの地が濃い——猶予はもっと短くなるかもしれない。
鳴弦が右肩に降りた。ピィ、と短く一声。嘴で朔の襟をつまんで離す。
焚き火の向こうで凌が練刀を膝に置いたまま、灰色の西の空を見ていた。明日、あの先に入る。




