117話:墨の匂い
控え詰め所の窓際に、朝の光が差していた。
朔は手帳の写しを卓に広げていた。非番日。虎太郎に約束した通り——巡哨ごとの記録を、正式な報告書の補足資料として提出する。四回分の巡哨データ。標点十四番付近の穢れ分布、五位の出現位置と活動時間帯、七位法石の法力減衰。手帳から紙に書き写すと、断片の数が思ったより多いことに気づく。
書記官が写しを受け取り、末尾に受理の印を押した。
「虎太郎殿から伝言。『ありがとう。次の報告もよろしく』——だそうだよ」
書記官が軽く笑った。朔は手帳を懐に戻しかけた。
「……これ、全部お前が書いたのか」
声は書記官の隣から聞こえた。壁際の卓で生存地図の更新作業をしていた男——北斗衆第七班班長、須賀壮介。図長補佐。朔は名前と役職を知っている程度だった。穏やかだが低い声。筆を止めて、朔が書記官に渡したばかりの写しを横から見ていた。
「はい。巡哨ごとの記録を整理しました」
壮介が写しに目を落としたまま、ページをめくった。指が慣れた動きで行を追っている。
「分布の偏向と活動時間帯の変化を並列で追ってる。——こういう記録を自分で取っている班長は、今の北斗衆にもいないぞ」
その口振りは褒めているのではなかった。事実を確認している声だった。壮介が顔を上げた。朔を見る目に好奇心はなく——データの価値を測る目があった。
「確認するぞ。お前のこの記録、毎回の巡哨報告に添付してくれ。俺のほうで地図に反映する」
「……わかりました」
壮介は写しを書記官に戻し、再び地図の仕事に目を落とした。それ以上は何も言わなかった。朔は壮介の背中を一瞬だけ見て、控え詰め所を出た。手帳の記録が自分の中だけのものではなくなった。虎太郎の依頼で書記官に渡した。今日から壮介の地図にも載る。断片が、二つの場所に根を張り始めた。
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同じ朝。外采棟の奥、頭領執務室。
鉄心が立っていた。遠征の事後報告を終え、次の編成の打ち合わせに移ったところだった。剛丈が卓の向こうで腕を組んでいる。法石の配分表と小隊の編成案が広げられていたが、話題はすでにそこからずれていた。
「善次郎はどうだ」
剛丈が聞いた。鉄心はしばらく黙っていた。言葉を選んでいるのではない。短い言葉を出すまでに、鉄心はいつも間を取る。
「……壁を出した。俺と同じ壁だが、あいつのほうが根が太い」
剛丈がわずかに目を細めた。鉄心が続けた。
「……任せた、と言ったら、やった」
それだけだった。善次郎が実戦で単独の応対を任され、こなしたということ。鉄心にとってはそれで十分だった。
剛丈が鼻で笑った。嘲りではない。
「土御門の倅も面白い。書記官のところに巡哨ごとの分布記録を出してきた。壮介が——こんな記録を自分で取る班長はいない、と言ってたぞ」
鉄心が黙って頷いた。
「虎太郎の小隊にいた頃から目は光っていたが……あの班は全員がそうだ。凌も善次郎も蓮も。揃いも揃ってこれまでにない良い芽が出ている」
剛丈が椅子の背にもたれた。声に温かみが入った。
「ここ数年で一番いい風が吹いている」
鉄心は何も言わなかった。ただ、視線が窓の外——外采門の方角に向いた。
剛丈の表情が変わった。
「——だが鉄心。お前も感じてるだろう」
「……灰輪の匂いが変わっている」
「五位の朝型化。分布の偏り。法石の法力が薄い。——今年に入ってから変化が早い」
沈黙があった。長い間ではなかった。鉄心が口を開いた。
「予兆でなければ、いい」
剛丈が一拍置いた。「予兆でなければ——」声が低くなった。「以前にもあった。先代から聞いたことがある。こういう変化が続いた後に、凶星級が動いた」
鉄心の目が細くなった。何も言わなかった。
剛丈が立ち上がった。「杞憂ならいい。だが、巡哨の密度は上げておけ」
窓の向こうに、外采門の灰色い輪郭があった。冬の空の下で、門は今日も開いている。
「——全員を帰す。いつも通りだ」
「……うむ」
鉄心が背を向けた。足音が廊下に消えていった。
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午後。善次郎と農地に向かった。
里の南西部。冬枯れの畑の端に、善次郎の実験区画がある。十二月前に法石を土に埋めた一畝。その隣に、何も手を加えていない対照区画。
善次郎が膝をつき、土に掌を当てた。絡脈術の法力が指の隙間からわずかに光って消える。朔は手帳を開いて待った。
「根が張ってる。前より深い。——法力が通ってる」
善次郎が掌を引いた。土が湿っていた。法石区画だけ、地中の水分を根が引き上げている。枯れ色の中に青い茎が数本。冬に緑を保っているのは、この一畝だけだった。
朔は茎の本数と高さを記録した。先月は三本。今日は五本。根の深さは善次郎の体感で前回の倍。数字にすると、差は明白だった。
「こっちは変わってない」
善次郎が立ち上がり、隣の対照区画を見下ろした。冬枯れのまま。同じ土、同じ日当たり。法石の有無だけが違う。
朔は二つの区画を交互に見た。法石一つで一畝の成長がこれだけ変わるなら——法石の配置間隔を最適化すれば、複数の畝に広げられるかもしれない。頭の中で計算が始まった。声にはしない。まだ一畝の結果に過ぎない。
善次郎は多くを言わなかった。ただ掌の土を払う所作が、いつもより少し丁寧だった。
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夕方、土御門家に帰った。
門をくぐると、台所の匂いがした。粟飯と根菜の煮物。朔は衣を改め、奥の間に向かった。
篝が座っていた。膝の上に紙束を広げている。振り返って顔をほころばせた。
「おかえり、さくにぃ」
「ただいま。——何を読んでるの」
篝は紙束を閉じて差し出した。小さな綴じ紙の束。表紙に「記録帳」と墨書きがある。篝の筆跡だった。紙から墨の匂いが立つ。乾ききっていない墨——今朝書いたものが混じっている。
「ねえ、さくにぃ。穢れの脈ってあるでしょう。あたしが感じるやつ」
篝が膝を正した。声に好奇心が乗っている。守篝を作ったとき、篝が穢れの強弱を感じ取れることは家族も朔も知っていた。篝の感応体質そのものが守篝の設計の起点だった。
「うん」
「あれね、毎日同じじゃないって——前からなんとなく思ってたんだけど。記録してみたの。そしたら、日によって本当に違うの。波みたい」
朔は記録帳を開いた。日付と数値の羅列。篝の筆跡で、一日一行。場所——浄身院の庭。時刻——昼過ぎ。そして「感じた穢れの強さ」を、篝なりの基準で数値にしたもの。一から十の尺度。
約一月分の記録があった。数値は一定ではない。三と四のあいだを行き来しながら、ときどき五に跳ね、翌日には二に落ちる。
篝が穢れの脈動を感じ取れること自体は知っていた。だが、それが日によって違うということ——しかもこうして数字に起こしてみると、揺れには幅があり、一定の範囲を行き来している——それは知らなかった。
「浄身院の澄明さま——蓮のお父様に話したら、『面白いね、続けてごらん』って言ってくれた。だからもう少し続けようと思って。さくにぃにも見せたかったの」
朔はページをめくった。守篝を透過する微量の穢れが、日によって揺れている。それは——結界の外の穢れが変動していて、その影響が里の内側にも届いているということだ。外の穢れが増えれば、浄域膜を通して内に届く量も増える。
手帳の中の断片が頭をかすめた。五位の朝型化。分布の偏向。法石の法力減衰。門番の排撃波に弾かれる雑妖の増加。蓮が昨日「最近、矢の飛びが少し変わった気がする」と言っていた。——それらすべてが「外の穢れの変動」と呼べるものの、別々の顔ではないのか。
まだ仮説にもなっていない。繋がり方がわからない。ただ、篝が里の内側から記録したものと、自分が結界の外から記録したものが、同じ何かの表と裏であるような感覚が、頭の端に留まった。
「篝。これ、もう少し続けてもらってもいい? できれば朝と夕方の二回に増やしてほしい」
篝が目を丸くした。それから、花が開くように笑った。
「いいよ。あたし、毎日やるから」
朔は記録帳を閉じた。墨の匂いが指に移っていた。
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夕飯の後、蓮が来た。
「篝ちゃん、今日はなに読んでたの」
蓮は上がり框に腰を下ろしながら聞いた。篝が目を輝かせた。
「薬草園の記録! 新しく植えた苗のことが書いてあったの。冬でも育つ種類があるんだって」
二人の話は軽やかに跳ねた。蓮が朔の手帳の横に置かれた篝の記録帳を見つけた。
「……朔くん、二冊に増えた?」
「篝の記録を預かってる」
蓮は中身を聞かなかった。ただ篝のほうを向いた。「篝ちゃん、すごいね」
「蓮ちゃんも何か記録したら?」
「そうだね。弓の日記つけようかな。最近、矢の飛びが少し変わった気がするの」
篝が「どう変わったの?」と身を乗り出した。蓮が「うーん、ほんの少しだけ届かなくなる日がある気がして」と首を傾げた。朔はその一言を聞いていた。弓の法力効率が日によって変動する——蓮は感覚として捉えている。もし法力の質そのものが揺れているなら——。
鳴弦が篝の部屋に飛んでいった。篝が嬉しそうに手を伸ばすと、鳴弦は肩を経由して膝に降りた。ピィ、と穏やかな声。
「鳴弦、今日は髪いじらないの?」
篝が首を傾げると、鳴弦がその髪を嘴で一房つまんだ。ゆっくり引いて、離す。篝が声を上げた。
「やっぱりやる!」
蓮が「仲良しだね」と頬杖をついた。
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蓮が帰り、篝も部屋に戻った。
朔は一人だった。褥に座り、灯りの下で手帳を開いた。今日の記録——善次郎の畝の成長データ。法石区画の根の深さ。茎の本数。書記官に手帳の写しを提出した。壮介が地図に反映すると言った。
その横に、篝の記録帳がある。
もう一度、開いた。日付と数値の並びを目で追う。約一月分の穢れの脈動パターン。高い日と低い日。
手帳のページを繰った。五位の出現位置と活動時間帯。自分の巡哨記録の日付と、篝の記録の日付を照らし合わせ始めた。
一つの日付で手が止まった。
篝の記録——穢れの数値が五に跳ねた日。その日、朔の手帳には標点十四番付近で五位一体が朝型で出現した記録があった。
一日だけ、重なっている。
篝が里の中で感じた穢れの跳ね上がりと、朔が結界の外で遭遇した五位の朝型出現。同じ日。
偶然かもしれない。データは一月分しかない。一日の一致で何かを言うのは早い。——だが、偶然ではないかもしれない。もし外の怪異活動が活発化した日に、結界を透過する穢れの量も増えるのだとしたら——篝の数値はそれを内側から捉えていることになる。
朔は手帳を閉じなかった。篝の記録帳を開いたまま、手帳の隣に置いた。明日の朝、篝が最初の朝の計測をしたら、新しい一行が加わる。データが増えれば、偶然か必然か見えてくる。
一つだけ重なった。もっと確かめたい。
鳴弦が枕元で丸くなっていた。ピィ、と声がした。もう眠い声だった。灯りを消した。
闇の中に、墨の匂いが残っていた。




