116話:漏れる灯り
善次郎が地面に手をつけていた。
野営の朝。灰輪北東部の結界外側際。善次郎は目を覚ますと真っ先に土に触る。もう誰も不思議に思わない。
「……痩せてる。昨日の野営地より薄い。水が足りてない」
朔は手帳を開き、座標の横に善次郎の所見を追記した。護帯の光を確認する。法石五つ、残量は十分。
「今日の目的地は標点十四番の手前。午前中に法石を回収して、午後に帰還する」
手帳のページをめくると、前回の走り書きが目に入った。高橋班遭遇地点(標点十四番)、要確認。その下の殉職者累計の数字を一瞬見て、閉じた。
凌がすでに荷をまとめ終わっていた。「行くぞ」
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標点十四番の手前に差しかかった。朔は燭明術で穢れの分布を読んだ。
南に二里ほどの区域は、法力の波がまだらに乱れている。灰輪南部で報告した偏向の延長だった。北東に来ても同じ傾向が続いている。手帳に記録した。
法石回収は手慣れた作業だった。善次郎が地錬術で掘り起こし、蓮が法力残量を確かめ、朔が品質を分類する。凌が外周を警戒している。
七位の法石を一つ掌に載せたとき、蓮が首を傾げた。
「……朔くん、これ」
蓮が差し出した七位の法石は色が薄かった。通常の七位は乳白色に近い。この法石は透き通りかけている。法力が抜けている——というより、最初から法力が薄いまま結晶化したように見えた。
「善次郎。この辺の土、さっき何て言った」
「水が足りてない。力が薄い」
朔は法石と地面を交互に見た。善次郎が診た土壌の衰弱と、法石の法力が薄い現象。偶然の一致かもしれない。だが二つの断片がここで重なったことは手帳に残しておくべきだった。法石の法力量と土壌の状態の間に相関があるなら、善次郎が各地で土に触っているデータが意味を持ち始める。
一行書いた。——七位法石の法力減衰。善次郎の土壌所見と同一地点。
「七位が十二。六位が二。法力の薄い七位が三つ混じってる」
蓮が数え終えたとき、鳴弦が鋭い声を上げた。
キィッ——。
凌が振り返った。朔は燭明術の感知を広げる。南東——穢れの塊が一つ。五位。
「一体。南東。——凌」
「聞こえてる」
凌が練刀を抜いた。法力は薄く——戦刃術の最低限の纏いだけ。雷火術は使わなかった。獄縛鬼が枯木の向こうから這い出す。凌が踏み込み、刺又の軌道を読んで懐に入り、柄を断つ。返す刃が腹腔の核を砕いた。
十五呼吸。善次郎の壁も、蓮の弓も不要だった。
蓮が崩れた体から法石を回収した。「無事」
朔は出現位置を手帳に記した。標点十四番の北東側。南部で見た個体とは別だった。五位の活動圏が、南部だけでなく北東にも広がりつつある。
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午後。外采門が開いた。穢れ検査を通り、法石を提出する。
「標点十四番付近で五位一体を討伐。出現位置は北東寄りです。南部の分布変動と合わせると、五位の活動圏が広がっています。法石は七位が十二、六位が二、五位が一。ただし七位のうち三つは法力が通常より薄い。回収時点で結晶の色が抜けかけていました」
書記官の筆が止まった。法石の品質劣化を報告に含めた班長は初めてだったのかもしれない。筆はすぐに動き直した。
虎太郎が横で聞いていた。報告が終わった後、一つだけ聞いた。
「その五位、朝型だった? 昼型だった?」
「……朝型です。日が高くなる前でした」
虎太郎が頷いた。「灰輪の五位に朝型が増えてきたね。去年までは昼型ばかりだったのに」
朔は手帳を開いた。五位──朝型。書きながら、もう一つの問いが浮かんだ。
「虎太郎さん。朝型が増えたのは、五位だけですか。六位や七位にも変化はありますか」
虎太郎が少し考えた。「……いい質問だね。六位・七位はもともと日中型が多いから、変化があっても気づきにくい。でも今年の冬は、朝の排撃波で弾ける雑妖の数が去年より多い気がする。門番も同じことを言ってた」
朝の排撃波で弾かれる雑妖が増えた。つまり結界に接近する雑妖の活動時間帯が朝に寄っている。五位だけの現象ではない可能性がある。
「分布が変わっているだけじゃなくて、行動の時間帯も変わっている。両方が同時に起きているなら——何か一つの原因が両方を動かしているかもしれません」
虎太郎は答えなかった。ただ朔の手帳を見ていた。数秒の間があった。
「朔くん、その手帳の記録、次の巡哨報告のときに書記官に写しを出せる?」
「はい」
「出して。——俺の言葉で上に伝えるより、データが並んでるほうが話が早い」
朔は頷いた。断片を記録しているだけだと思っていた。虎太郎はそこに別の使い方を見ていた。構造を指す矢印はまだない。だが断片を並べる場所が手帳の外に広がった。
「お疲れ様。今日は帰宅日だ」
班員に声をかけた。蓮が「やった」と背を伸ばした。善次郎が頷いた。凌が「先に行く」と短く言い、外采棟を出ていった。
善次郎が凌の背中を見送った。「……今日は早いな」
「凌、帰宅日っていつもあんな感じだっけ」
蓮が首を傾げた。善次郎は答えなかった。朔も即答はできなかった。凌の帰宅日の足取りをそこまで注意して見たことがない。ただ今日は、振り返らなかった。
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凌は一人で歩いていた。
外采門から里の中央に向かう道。朔たちとは方角が違う。冬の夕暮れが早い。日はもう落ちている。灯りの漏れる家々の間を抜けた。
久我崎家の門をくぐった。幼い頃から歩いた敷石。足裏が覚えている道。
玄関に向かう途中で、目の端に灯りが入った。
書斎。父の書斎の窓に、灯りが漏れていた。
凌の足は止まらなかった。そのまま横を通り過ぎた。穏やかに灯る灯火。遅い時刻に、まだ灯っている。
嶺壱がいる。
父が遅くまで書斎にいるのは、里の運営を検討しているときだ。配属命令。帰還報告。法石の配分。——殉職者が出た後なら、高橋班の補充人事も。
通り過ぎた。書斎に入ったことはない。「承認する」——配属発表の一言だけだった。止めも応援もしなかった。入っていいという合図はない。
灯りが漏れていた。いつからだろう。帰るたびに、あの窓は灯っている気がする。
今日、初めて意識した。灰輪では高橋弦之介が帰れなかった。灯りが一つ帰らなかった夜があった。
帰らなかった灯り。帰っている灯り。嶺壱が書斎にいるということは、嶺壱は今日も生きている。当たり前だ。結界の中にいて、怪異とは戦わない。当たり前のことだ。
凌はその当たり前を、今日初めて意識した。言葉にはならなかった。
部屋に入った。練刀を壁に立てかけ、防穢衣を脱いだ。窓の外を見た。書斎の灯りがまだ漏れている。
三つ数えて、窓を閉じた。
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土御門家。朔は手帳を開いていた。
ページをめくる。善次郎の土壌所見と法石の法力減衰が同一地点で重なった記録。五位の朝型化。門番の排撃波での雑妖の増加。分布の変動と行動時間帯の変化。別々の断片がどこかで繋がっている感覚がある。まだ線にはなっていない。
虎太郎に手帳の写しを出す。明日のうちにまとめておく必要がある。手帳の記録が、自分の中だけのものではなくなった。
鳴弦が枕元で丸くなっていた。ピィ、と小さく鳴く。もう眠い声だった。
手帳を閉じ、灯りを消した。
この夜、里のどこかでまだ灯りが漏れている窓がある。朔はそれを知らない。




