115話:名前のない帰還
控え詰め所の空気が、いつもと違った。
朔は卯の刻に外采門へ向かった。非番日で、自主鍛錬の予定だった。幕板小屋に入ると人が少なかった。板壁の前で立ち話をしているはずの先輩たちが、今朝は声を落として固まっている。
壁の帰還簿に目がいった。昨日の欄。高橋班。名前が三つ書かれ、四つ目の欄は空白だった。書記官の字で三文字——未帰還。
虎太郎が控え詰め所の奥から歩いてきた。
「朔くん。——昨日、灰輪南部を巡回していた高橋班の一名が、帰れなかった」
いつもの柔らかい声が、すこし低い。
「高橋弦之介。四位の群れに遭遇した。班員三名は帰還した」
灰輪南部。石牙丘陵の南東域——以前の巡哨で分布変動を報告した圏域と重なる。五位の移動に伴い下位が減少し、空白に四位の群れが入り込んだ可能性がある。朔は虎太郎の目を見た。虎太郎はそれ以上何も言わなかった。同じ推測に至っているかどうかは、穏やかな表情からは読めなかった。
高橋弦之介。朔は顔が浮かばなかった。控え詰め所ですれ違ったかもしれない。だが「かもしれない」以上のものがない。知っている人の死には顔がある。知らない人の死には数だけがある。
四人で門の脇を通った。殉職碑が並んでいる。碑の前の地面に、小さな白い花が置かれていた。
凌は碑を見なかった。視界に入れずに通り過ぎた。善次郎が一歩だけ遅れ——歩き出した。蓮が碑の前で膝をつき、花に手を添えた。
「……明日、あたしも一つ持ってこよう」
立ち上がり、何も言わずに歩き出した。
控え詰め所の端に、見覚えのない外采使が座っていた。壁に背をつけ、右腕に包帯を巻いている。左手で湯呑みを持っていたが、湯気はもう立っていなかった。隣にもう一人、同じように壁に寄りかかっている。高橋班の帰還者だった。
朔は声をかけるべきか迷った。面識がない。班が違えば任務も編成も重ならない。声をかけたところで何を言えばいいのかも分からなかった。
足を止めずに通り過ぎようとしたとき、包帯の外采使が朔の腰元に目を止めた。護帯だった。
「——護帯、助かったよ」
朔は足を止めた。振り返ると、包帯の外采使が湯呑みを膝に置いて、こちらを見ていた。声は低かったが、穏やかだった。
「群れに囲まれたとき、あれがなかったら穢れで動けなくなってた。三人で帰れたのは、あれのおかげだ」
朔は何と返すべきか分からなかった。護帯は朔が設計し、玄外が量産した防穢法具だった。法石の定期交換が必要で、完璧な装備ではない。だが三人を帰した。帰さなかった一人の分は、護帯では埋められなかった。
「……ありがとうございます」
それだけ言った。包帯の外采使は小さく頷いて、冷めた湯呑みに口をつけた。朔は歩き出した。
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自主鍛錬は午前で終わった。善次郎と凌は組手、蓮は弓の素振り、朔は燭明術の精度訓練。昼前に切り上げた後、朔は控え詰め所に戻った。
帰還報告書の棚。高橋班の報告書は昨夜のうちに提出されていた。班長には他班の報告書を閲覧する権限がある。朔は書記官に声をかけ、一通を受け取った。
遭遇地点——灰輪南部・石牙丘陵南東域・標点十四番。
朔は手帳を開いた。三日前の巡哨で自分が記録した分布変動のメモ。石牙丘陵南縁の六位・七位が半数以下、五位二体が南東方向に移動中、地中穢れが南東に偏向。標点十四番はその偏向方向の延長線上にあった。
報告書の記述は簡潔だった。四位の業魔三体が群れで行動。通常、四位は単体で徘徊する。群れ化は上位怪異が不在のときに起きる——五位がそこを離れたから、四位が群れた。弦之介は後衛の索敵手だった。群れに包囲された際の離脱が遅れたと記載されている。
構造が見えた。
五位が移動したことで下位が減り、空白に四位が流れ込み、群れ化した。自分はそれを三日前に報告した。報告は書記官を通じて北斗衆の編成に上がる。高橋班が遭遇したのは、報告の翌日。処理と反映に最低二日かかる。一日足りなかった。
間に合わなかった。報告が遅かったのではない。処理のタイムラグが構造的に存在する。朔が一日早く報告していれば——という仮定が一瞬だけ浮かんだが、分析がそれを棄却した。自分の巡哨日程は虎太郎の編成で決まる。巡哨の日を自分では選べない。防げたかどうかの問いに答えはない。答えがないことは分かる。それでも構造が見えてしまった以上、見なかったことにはできなかった。
朔は報告書を閉じ、手帳に書き写した。弦之介の遭遇地点、四位三体、群れ化、後衛の離脱遅延。その下に一行——殉職者数の累計を書いた。控え詰め所の壁の記録を見れば数字は出る。今まで書き写したことはなかった。今日、初めて自分の手帳に書いた。
手帳を閉じた。
虎太郎がまだ控え詰め所にいた。書記官と話を終えたところだった。朔は報告書を返却し、そのまま虎太郎の前に立った。
「虎太郎さん。一つ聞いてもいいですか」
「うん」
「巡哨報告が小隊の編成に反映されるまで、どのくらいかかりますか」
虎太郎が一瞬だけ目を細めた。咎めではなかった。朔が何を読み、何を計算したかを理解した目だった。
「書記官の処理に半日。図長への上申に半日。編成の見直しに一日。——最短で二日だね」
二日。朔の報告から高橋班の遭遇まで、一日。一日足りなかった。
「短くする方法は」
「今のところは、ない」
虎太郎の声は穏やかだった。だが「今のところは」という言い方に、現行のしくみの限界を認めている響きがあった。
「朔くん。——知っておいたほうがいいことがある。報告は早ければ早いほどいい。でも早く報告しても、反映が間に合わないことはある。それは報告した君のせいではないし、処理した書記官のせいでもない。今の仕組みの限界だ」
朔は頷いた。虎太郎は朔を子供扱いしなかった。構造に目を向けた班長に、構造の限界を教えた。
「わかりました。——ありがとうございます」
虎太郎が微かに笑った。「うん」
控え詰め所を出て、殉職碑の裏手に回った。考えながら歩いていて、気づいたら碑の向こう側にいた。
無塗装の木造鳥居が立っていた。灰色に近い木目。支柱の根元が苔むしている。鳥居の向こうに小さな祠——送還社。名前は知っていた。初めて見た。
朔は鳥居の柱の根元に座った。座ろうとしたのではない。足が止まって、壁がなかったから滑り落ちるように腰を下ろした。
鳴弦が右肩で首を傾げた。
ピィ、と一声。安全の合図。
「……ここは静かだね」
鳴弦は羽を畳んで肩に深く座り直した。重みだけが返事だった。影が傾く前に立ち上がった。居心地は悪くなかった。表の喧騒とも違う。手帳の中にある数字とも、碑の前の花とも違う場所だった。
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夕暮れ。幕板小屋で四人が飯を食べていた。シフト待機日で帰宅はない。炊き出しの飯と汁と漬物。
善次郎の箸の運びはいつもと変わらなかった。ただ最後の汁を飲むとき、椀を口に運ぶまでに呼吸が一つ分だけ長かった。
蓮がそれに気づいていた。何も言わず、漬物の皿を善次郎の方に押した。善次郎が蓮を見た。蓮は笑わなかった。善次郎は漬物を取り、椀を飲み干した。
凌が先に食べ終わっていた。
「……汁、うまかった。普通の汁だけどな」
善次郎が「……ああ」と返した。
蓮が箸を置いた。
「今日、派出所で消耗品の棚整理してたら、穢れ検査の記録台帳が出しっぱなしだったの」
朔は蓮を見た。蓮は手元の椀を見ていた。
「高橋班の帰還検査の欄、三名分だけ記入があった。四つ目の欄が——空いてた」
蓮の声は静かだった。帰還簿の空白と、穢れ検査記録の空白は同じものだった。名簿にない名前は、検査も受けない。検査を受けるために帰ってくることが、できなかった。
「……癒し手が前線に——」
蓮はそこで口を閉じた。言いかけた言葉を飲み込んだ。蓮の目元がわずかに動いた。朔にはそれが見えた。何か言おうとした。蓮の視線がこちらに来る前に、朔はやめた。今この場で言える言葉はなかった。
凌が腕を組んだまま、蓮の方を見ていた。善次郎が黙っていた。沈黙が柔らかかった。責めている沈黙ではなく、蓮がそこにいることを認めている沈黙だった。
蓮が顔を上げた。
「明日の巡哨、石牙丘陵でしょ。あたし、矢の法力配分、もう少し絞ってみる」
「……頼む」
朔が答えた。蓮は頷いた。
食器を片した後、朔は寝所に入る前に手帳を開いた。明日の巡哨ルート——石牙丘陵南端。弦之介が帰れなかった圏域の縁。ルートは変えない。ただ一行だけ書き足した。
——高橋班遭遇地点(標点十四番)、要確認。
手帳を閉じた。幕板小屋の屋根の向こうに、送還社の鳥居の灰色が夕闇に沈んでいくところだった。
明日は巡哨の日だった。




