114話:並ぶ影
控え詰め所の板壁に、新しい紙が一枚貼られていた。
北部偵察兼資源回収。一泊。小隊長——志場鉄心。第二班、及び土御門班。
朔は文字を二度読んだ。先日報告した灰輪南部の分布異常を受け、北部にも変動がないかを確認する偵察任務。総宰司の戦略指令として降りてきた編成だった。虎太郎の第一班との小隊は何度も組んできたが、第二班は初めてだった。
善次郎を見た。掲示の前に立ち、紙面を読んでいる。表情は変わらなかった。ただ右手が練薙刀の柄紐に触れ——すぐに離れた。朔は何も聞かなかった。聞かなくても壊れない。聞かないほうが正確に伝わるものがある。
凌が掲示を覗き込んだ。「善の親父か。初めてだな」
善次郎が短く応じた。「……ああ」
蓮が小首を傾げた。「鉄心さんの班って、静かな班なんでしょ」
「……ああ」
---
翌朝。鉄心が門柱に右手で触れ、言葉なく歩き始めた。善次郎はその背中を見ている。幼い頃から見てきた背中だった。いまは同じ装備を纏い、同じ門をくぐっている。
早瀬が前に出て、絡脈術の法力を地面に流した。「前方、異常なし」。鉄心「うむ」。それで済んだ。声が一つ返るだけで小隊が動いた。虎太郎は声と笑顔で全体を動かす。鉄心は沈黙で全体を律する。善次郎が鉄心に似ているのだ、と朔は思った。
石牙丘陵は灰色の岩が牙のように天を突く地形だった。光政が足元の法石の小片を蹴った。「この辺は拾っても七位だ」。低く無骨な声で、仕事の話しかしない。
丘陵の北端に差し掛かったとき、早瀬の指が止まった。
「鉄心さん——前方三百歩、地中反応。大きい」
同時に、朔の燭明術が穢れの塊を拾った。岩陰に蹲っている。色が濃い。五位。
鉄心は足を止めた。背後を見ずに、一言。「志場」
善次郎が応じた。「はい」
鉄心が善次郎を苗字で呼ぶのは、外采使としての呼びかけだった。家では苗字で呼ばない。善次郎は練薙刀を構え、前に出た。
光政が善次郎の横に並んだ。「初めてか、こいつは」
「いえ——五位は何度か」
「こいつは、硬い」
獄縛鬼が岩陰から這い出してきた。通常の個体より一回り大きい。二本の錆びた刺又を握り、穢れが体の上を煙のように流れている。
鉄心が練薙刀を地に突いた。樹相術。法力が岩の間の土に流れ、木の壁が生えた。太い幹が絡み合い、岩と岩の間を塞いでいく。深い色合いの樹皮。長年の法力が染みこんだ厚い壁だった。
善次郎も練薙刀を地に突いた。鉄心の壁の横に第二の壁が立ち上がる。善次郎の壁は白かった。若い。だが根が四方に走り、岩に食い込んでいる。二つの壁が岩場の隙間を塞ぎ、獄縛鬼の退路を断った。
凌が壁の内側に踏み込んだ。光政が反対側から回り込む。獄縛鬼が刺又を振り上げた——凌が正面から間合いを詰め、軌道を読んで軸をずらした。すれ違いざまに練刀を一閃、右脚の腱を断つ。体が傾いた瞬間、光政の大鉈が横から胴を打った。凌の一撃が速さなら、光政は質量だった。よろめいた獄縛鬼の胸に凌が踏み込み、切先が核を砕いた。法石が転がり出る。
鳴弦が上空から鳴いた。キィ——敵影なし。全工程、三分に満たなかった。
---
夜。石牙丘陵北縁の窪みに野営した。風域と呼ばれる地形で、岩壁の陰が穢れを払う。
朔は手帳を開いた。今日の燭明術の読みを記す。石牙丘陵北縁の穢れ分布に大きな変動はない。南部の異変は北部には波及していなかった。ただ——七位の反応が記録より薄い。以前は丘陵の北縁にも毬栗蟲の群れが点在していたが、今回は遭遇しなかった。一行だけ書き足す。
——七位、微減の兆候あり。
菫が火のそばで蓮に声をかけた。
「蓮ちゃん、さっきの弓、見てたけど——筋がいいね」
蓮が顔を上げた。「ありがとうございます。菫さんは巴さんと同期ですか」
「うん。巴は前で、私は後ろ。型は違うけどね」
蓮が頷いた。言葉は返さなかった。
見張りが交代した。善次郎が野営地の端で座り込み、地面に手を置いた。岩場の間に溜まった土。絡脈術を流す。里の農地を診たときと同じ手法だった。
指先の下で、微かな反応があった。
灰輪の土は穢れに侵されて植物を支えない——そう教わってきた。だがこの岩の下には法力が通っている。ごく微かに。里の農地の十分の一にも満たないが、根を張れる可能性のある痩せた「生」がある。里の畝で土に触れたとき、それは里の中の問題だった。いま灰輪の岩の下で、善次郎は里の外にも土壌があるという事実に手で触れた。
もう一箇所。善次郎は立ち上がり、野営地の反対側に歩いた。岩壁の根元に手を当てる。こちらは——反応がなかった。同じ丘陵なのに、五歩離れただけで土が死んでいる。法力が通る場所と通らない場所が、まだらに存在している。善次郎は中腰のまま二つの地点を見比べた。法力の有無を分けるものが何なのか——水か、地脈か、それとも穢れの滞留の偏りか。わからない。だが、差があることだけが手に残った。
善次郎は何も言わずに戻った。
岩壁に背を預けた鉄心は、目を閉じていた——ように見えた。善次郎が二箇所目に手を当てたとき、鉄心の目が薄く開いていた。善次郎は気づいていない。
---
二日目。帰路で問題が起きた。
灰の野を横切る小隊の前方に、早瀬の絡脈術が反応を拾った。
「……五位。泥這。帰路の直線上にいます」
泥這——巨大な山椒魚。四肢が人間の腕で、体表の粘液が刃を滑らせ炎を防ぐ。灰の野に棲息する五位の中では、最も厄介な部類だった。
鉄心が足を止めた。朔の燭明術が位置を捉える。百五十歩先。地面に伏せて動かない。帰路を迂回すれば半刻の遅延になる。
鉄心が善次郎を見た。
壁の向こうに見知った色の目があった。善次郎と同じ深い墨色。鉄心は善次郎の何を見ているのか——朔にはわからなかった。
「善次郎」
善次郎の足が止まった。鉄心が善次郎を名前で呼んだ。昨日は「志場」だった。
「——任せた」
二語だった。小隊長の指令ではなかった。善次郎が何を読み取ったのか、朔には見えなかった。ただ善次郎の右手が練薙刀の柄を握り直し——握りが変わった。受けの構えではなく、穂先が前を向いていた。
善次郎が歩いた。早くはない。いつもの歩幅で、いつもの速度で——一人で。
凌が動こうとした。鉄心が片手を上げて止めた。
泥這が大きかった。全長二間半はある。灰色の粘液に覆われた体表が地面と同化し、善次郎が二十歩の距離に入ったとき、初めて頭が持ち上がった。人間の腕のような四肢が泥を掻き、体が弓なりに反る。突進の予備動作だった。
善次郎は走らなかった。
練薙刀を地に突いた。樹相術——拒木。地面から太い幹が三本、泥這の突進線を塞ぐように隆起した。泥這が突っ込んだ。粘液まみれの体が丸太に衝突し、木が軋んだ。突進は止まった。だが泥這の粘液が木の表面を覆い、体が丸太の隙間を滑り始めた。粘液が刃も壁も滑らせる——泥這の最も厄介な特性だった。
善次郎が動いた。丸太を足場にして泥這の背面に回る。練薙刀の穂先を泥這の背甲の亀裂——粘液が薄い一点に当て、法力を流した。
破砕根。
穂先の接触点から根が侵入した。甲殻の隙間に極細の根が食い込み、奧へ奧へと潜り込む。根が太さを増した瞬間——甲殻が内側から裂けた。乾いた音が灰の野に響いた。爬虫類の鱗が剥がれるように背甲が割れ、穢れの蒸気が噴き出す。泥這が咆えた。粘液が飛び散り、善次郎の防穢衣の樹鎧の内張が弾いた。
甲殻が裂けた箇所から、核が露出していた。
善次郎は練薙刀を引き、穂先を地面に突いた。
穿木。
足元から鋭い木の槍が急成長した。善次郎の樹相術の翠色の光を帯びた槍が、泥這の裂けた甲殻の内側を貫いた。核が砕けた。体が崩壊し、法石が粘液の中から転がり出た。
善次郎が法石を拾い上げ、粘液を防穢衣の裾で拭った。
振り返った。二十歩先に、小隊が立っていた。
光政が腕を組んでいた。早瀬が口を半分開けている。凌は練刀の柄を握ったまま。蓮が「善次郎くん」と声をかけようとして、止めた。
鉄心だけが表情を変えていなかった。
善次郎が歩いて戻ってきた。法石を朔に渡した。
「一個」
朔は法石を受け取った。善次郎の手は汚れていた。粘液と土。掌に根を生やした痕跡が、赤い線になって残っていた。
---
灰の野が開けた区間で、善次郎が鉄心の横を歩いていた。意識して並んだのではない。地形が開け、隊列が広がっただけのことだった。二人の影が灰色の地面に伸びている。歩幅が同じだった。同じ身長、同じ骨格が、同じ速度を作っていた。
光政がほとんど聞こえない声で早瀬に呟いた。「……似てる。でも、あれは鉄心さんにはない手だな」
早瀬が頷いた。「壊して、貫いてた。鉄心さんは壁しか作らないですよね」
外采門が見えた。結界の琥珀色の光が薄く滲んでいる。
鉄心が歩きながら、善次郎に一言を発した。
「——うむ」
それだけだった。善次郎の何に対する「うむ」なのか、善次郎にも分からなかった。壁か。泥這か。あるいは——昨夜の、土に触れた手か。
広場で素振りの型を一巡見せたあとの「うむ」と同じ一音だった。子供の頃の最大の褒め言葉。何が良くて何が足りなかったかは言わない。ただ見ていた、ということだけが、あの一音の中に入っている。だが今回の「うむ」には、もう一つ入っていた。「任せた」のあとに来る「うむ」は——任せた結果を見て、認めた音だった。
善次郎は答えなかった。鉄心も、それ以上何も言わなかった。
---
門が開いた。穢れ検査。全員、第零期。
「石牙丘陵北縁、五位一体を討伐。帰路で五位一体、六位一体を処理。法石三個の回収を確認。北部の分布は、先日報告した南部ほどの変動はありません。ただし七位の数に微減の兆候があり、引き続き確認が必要です」
書記官の筆が走った。鉄心はその横で黙って立っていた。
装備を返納し、外に出た。
門の横で凌が壁に背をつけて待っていた。
「善。さっきのはずるいだろ」
善次郎が足を止めた。「……何がだ」
「見てるだけっつうのが一番きつい」
凌の声に怒りはなかった。唇の端が少しだけ持ち上がっている。善次郎が一人で倒したことへの、率直な悔しさだった。
「……次は早い者勝ちだ」
善次郎が言った。凌が鼻で息をついた。
「飯」
「……ああ」
二人は歩き始めた。善次郎の手はまだ粘液に汚れていた。掌の赤い線が、根を生やした痕跡として残っている。壁だけの手ではなくなっていた。




