113話:鞘に納める
穢れの残滓が、沢底に二筋残っていた。
崩壊痕だった。六位の体が引き裂かれ、核が露出して自壊した跡——穢れの残滓が泥に染みて赤黒い線を引き、体液の滲んだ石に法石が二つ転がっている。親指大の、小さな六位の法石。五位が拾う知性はない。「喰い散らかし」ですらなく、通りがかりに潰しただけの暴力の痕跡だった。吐く息に鉄の味が混じっている。
朔は燭明術を起動したまま、沢壁に膝をついた。爪痕が二筋走っている。深さと間隔が異なる——二種。大型。五位の爪痕が二個体分。方向は南東。
三体目の穢魔を落とした午後。帰路の枯れ沢で、それを見つけた。
「善次郎」
善次郎が右手を地面に押し当てた。絡脈術の法力が泥と石に沁み込んでいく。目を閉じて、三呼吸。
「地中の穢れが偏ってる。南東に寄っている」
朔の中で断片が繋がった。巡哨の序盤から六位が少なかった。骸狗も錆朽縄も二群しか出てこなかった。七位の雑妖も薄い。鳴弦が穏やかに鳴くだけで、上空に怪異がいない。——答えが、この沢底にあった。五位が灰輪内を移動しているから、下位が減っている。
沢壁の爪痕を指でなぞった。少し前の痕跡。南東に向かっている。
「追うか?」
凌の声に力があった。沢壁に触れたまま振り返る。「五位二体なら——」
蓮が頷いた。「あたしもいけると思うけど」
法石二個。五位の法石は鶏卵大で、汎用的な法力量を持つ。里にとっては無視できない価値がある。凌の判断は戦闘者として合理的だった。蓮が「いける」と言うのは、癒し手として全員の法力残量と傷の状態を見た上での発言だった。
朔は護帯に目を落とした。橙色の光がゆるく脈打っている。法力は六割。五位二体を追い仕留めるまでに全員で三割は使う。残り三割で帰路。護帯の消耗の速さを加味すれば、帰還時に安全圏の境界を割る。
博打として成り立たないわけではない。
だが今日は灰輪の分布が動いている。下位が減り、地中穢れが偏り、五位が二体同時に徘徊していた。想定外の遭遇が起きやすい日。消耗した後にもう一つ来れば、博打は負けになる。
追撃と撤退のどちらが正しいかは、この時点では分からなかった。分からないまま、朔は安全な方を選んだ。
「帰る」
声は変わらなかった。理由を添えた。
「追撃に三十分、戦闘に二十分、帰路に一刻。護帯の消耗の速さだと帰還時に安全圏を割る。——今日の灰輪はいつもと違う」
凌が舌打ちを鳴らした。乾いた、短い音。
「……わかった」
反論はしなかった。だが練刀を鞘に戻す動作がわずかに遅かった。善次郎が頷き、帰路の確認を始めた。
四人が歩き出した。朔の視界の端に、沢底の法石が二つ残されたまま遠ざかっていく。回収の価値はあった。だが回収は追撃を意味し、追撃は安全圏を削る。
——正しかったのかは、帰ってからも分からないだろう。
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鳴弦が鋭い一声を上げた。
キィッ——短く、硬い、空気を裂くような声。警戒音。
朔が燭明術を広げた。法力が薄い膜のように前方に展開される。色の濃淡が穢れを可視化する。前方二百歩に穢れの塊。右手百五十歩にもう一つ。
二つ。
五位二体が、どちらも帰路方向に移動していた。追撃していれば先に潰せた。凌の言った通りだった。
だが追撃後にこの遭遇が来ていたら、法力三割で二体。——今は六割ある。
どちらが正しかったか、まだ分からない。
朔の声は変わらなかった。
「五位二体。前方と右。さっきの爪痕の主だ」
凌の目が朔に向いた。
「凌」
それだけだった。凌は前に出た。
前方の五位が姿を現した。獄縛鬼——善次郎より二回りは大きい。右手に錆びた刺又を携え、穢れが肌の上を煙のように流れている。
凌は走りながら練刀を抜いた。正面から斬り合わない。獄縛鬼が刺又を振り下ろした——その軌道を読んで、最小の身体移動で軸をずらした。重い刃が半歩先の地面に突き刺さる。土が裂けた。凌はすれ違いざまに右手を返す。戦刃術の法力が最低限だけ刃に纏い、蒼白い光が一瞬だけ走った。
一閃。
獄縛鬼の右肘の関節を正確に断った。刺又が地面に落ちた。法力の纏いが最低限だったから、練刀に負荷はかからない。斬れ味だけで通した。体勢を崩した獄縛鬼の胸元に踏み込み、練刀の切先が核を砕いた。蒼白い光が弾け、体が崩れた。法石が転がり出る。無傷。
十二呼吸。
凌は法力をほとんど使っていなかった。雷火術は使わなかった。使おうとも、思わなかった。
——右手を見た。
練刀を振った手。前は雷火で薙ぎ払っていた。そのほうが速くて確実だった。だが今、雷火が選択肢に浮かばなかった。虎太郎の言葉を思い出したわけではない。言葉ではなく、手が覚えていた。一人で斬る刃と全員を帰す刃は、研ぎ方が違う——そういう言葉だった。手の中に残っている感触が、それを選ばせたのだと思う。嬉しいのか怖いのかは分からなかった。
凌は手を下ろした。
息をつく間もなかった。
右手百歩の二体目が、突進の距離に入っていた。形代綴り——呪符と和紙が血と泥で貼り合わされた四つ足の獣。熊ほどの体躯。呪符の断片が体表で波打ち、低い唸りが腹の底を這った。
善次郎が動いた。
地錬術。足元から法力が地面に流れ、帰路脇の地面が壁のように隆起する。ただの壁ではない——突進の方向を読み、角度をつけて横に逸らす形で構築した。形代綴りの突進が壁に衝突し、体が横に弾かれた。
蓮が弓を引いた。残った法力を矢先に集中させ、善次郎が稼いだ隙に弦を離した。矢が形代綴りの肩甲部に命中する。呪符の外殻に食い込み——ぎりぎり貫通した程度で止まった。
通った。でも骨百足のときより浅い。
形代綴りが怯んだ。凌がその一拍を逃さなかった。善次郎の壁を踏み台に跳び、練刀を胸元に突き込む。刃が呪符の層を裂き、核に届いた。獣の体が痙攣し、呪符が乾いた音を立てて剥がれ落ちていく。
四人の呼吸が揃った。
凌が法石を二つ拾い、朔に投げた。
「二個」
「ありがとう」
善次郎が土を払った。「行くぞ」
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門が開き、穢れ検査を終え、口頭報告で灰輪南部の分布変動を伝えた。
石牙丘陵南縁の六位・七位が通常の半数以下。五位の移動の動きが南東方向に偏向。地中穢れにも同方向の偏りがある。書記官の筆が走り、朔は控え詰め所の壁の生存地図を見た。石牙丘陵南縁は白——安全確認済み。白い線が正しいのか、今日の時点では分からない。
装備を返納し、外に出た。
門脇の殉職碑の前を通る。
毎日通る場所だった。石の列が結界を背にして日の光を受けている。朔の足が一歩だけ緩んだ。碑の一番新しい列。まだ風化していない文字がはっきりと読める。
名前を一つ読んだ。知らない名前だった。班も知らない。いつ、どこで、何と戦って帰れなかったのか。何も知らない。
だが今日は、その「知らない名前」に別の重さがあった。灰輪の分布が変わっている。五位が里に近い圏域を歩いていた。この碑に刻まれた名前の持ち主も、「いつもと違う灰輪」で帰れなかったのかもしれない。追っていれば先に潰せた。追っていなかったから六割で迎えられた。——どちらが正しかったかは、たぶん、いつまでも分からない。碑の文字は何も答えない。
蓮が半歩後ろを歩いていた。朔の足が緩んだことに気づいている。声はかけなかった。
碑に名前は増えなかった。今日は。
凌の練刀は、鞘の中で静かに収まっている。




