103話:噛み合わない翼
非番の朝。門をくぐらない日。
朔は鍛錬場に向かった。法力が里の空気に馴染んでいる。掌を開いて閉じた。昨日までの灰色の空の下で削った感覚がまだ残っているが、今日の体は軽い。
---
控え詰め所、横の広場。
善次郎が木の下に座っていた。練薙刀を膝に横たえ、布で柄を拭いている。朝日の中で太い指が布を柄に沿わせていく。凌は広場の向こう側で予備刀の素振りをしていた。
朔は鳴弦を止まり木から外し、右肩に乗せた。琥珀色の結縁紐が朝日に光った。
鳴弦との連携訓練。結界の中で穢れの検知はできないが、法力を流して飛行の型の調整はできる。灰輪では鳴弦の飛ぶ方角と朔の合図がずれ続けていた。少しずつ改善しているが、まだ足りない。
朔は法力を練錫杖に流し、環を鳴らした。鳴弦が飛び上がった。
蒼い翼が空を切った。朔が法力で「旋回」の合図を送った。
鳴弦が——少し遅れて旋回した。
半拍のずれ。朔がもう一度合図を送る。「下降」。鳴弦がさらに遅れた。首を振った。苛立っているように見えた。
朔が「上昇」を送ると、鳴弦は上昇したが軌道が不安定だった。朔が慌てて「旋回」に切り替えた——鳴弦が急旋回し、翼を叩きつけるようにして朔の肩に戻ってきた。
嘴で朔の耳をつついた。
「——痛い」
鳴弦の嘴が朔の耳の先端を挟む。軽くではない。明確に力が入っている。もう一度。
「痛いってば」
朔は頭を傾けて避けた。鳴弦は嘴を離さなかった。今度は束ねた長髪の先端を咥えて引っ張った。ぐいと。朔の頭が引き戻される。
「……頼むから、やめてくれないか」
鳴弦は髪を離した。——が、朔の肩から飛び立った。広場の上空をぐるりと旋回し、木の枝に止まった。朔が肩を叩いて呼んだ。鳴弦は首を背けた。降りてこない。
凌が素振りの手を止めて、こちらを見ていた。
「……お前、鳥に説教されてるのか」
「説教じゃない。怒られてるだけだ」
「似たようなもんだろ」
凌の口角がわずかに上がっていた。
善次郎の声が聞こえた。
「……怒っている」
朔が振り返った。善次郎が立ち上がっていた。布を柄に巻きつけたまま、朔のほうに歩いてくる。大きな体が木の影から朝日の中に出た。
「怒ってる?」
善次郎が鳴弦のいる枝に手を伸ばした。大きな掌が、鳴弦の前に差し出される。鳴弦は——善次郎の手に移った。大人しい。善次郎の木行の法力が鳴弦の中に流れ込んでいるのが見えた。鳥にとって心地よい法力。自然に近い波長。
善次郎が鳴弦の胸元に掌を当てた。目を閉じた。しばらく沈黙。善次郎の太い眉がわずかに寄った。樹相術の派生——木行の法力で自然物の「状態」を読む。鳴弦は結縁紐で法力が通った霊鳥だった。善次郎の感覚なら、大まかな感情の方向がわかる。
鳴弦が善次郎の掌の上で——嘴を動かした。善次郎の指の腹を軽くつつく。二度、三度。善次郎が顔をしかめた。
「……こうされるのが嫌だそうだ」
善次郎の指の腹に鳴弦の嘴の跡がついている。鳴弦が善次郎を朔に見立てて怒りを再現していた。凌が吹き出した。短い、鼻から抜ける笑い。
善次郎が目を開けた。
「お前の法力が急に変わるから」
朔は少し戸惑った。
「急に——」
「鳴弦は『ここで曲がる』と思ったところで、お前が『まだ真っ直ぐ行け』と送ってくる。逆もある。拍が合わない」
「それは……僕の法力の流し方が郁と違うから——」
善次郎が首を振った。小さく。だがはっきりと。
「違う話だ。鳴弦はお前の法力が嫌だとは言ってない」
善次郎の目が鳴弦を見ていた。
「……急すぎるんだ。お前の燭明術は鳴弦にとって速い。郁は法力をゆっくり流してた。お前は速く流す。鳴弦の体が追いつかない」
一語で済むなら一語で済ませる善次郎が、鳴弦のために何語も使っていた。
朔は法力の速度を落としてみた。ゆっくり。意識して、法力の流れを緩める。
「もう一度、飛ばしてみていい?」
善次郎が鳴弦を朔に返した。鳴弦が腕に止まった。嘴はつつかなかった。朔は法力を流した。ゆっくりと。「旋回」。
鳴弦が飛んだ。旋回した——拍が、合った。
「下降」。鳴弦が下がった。合っている。朔の合図と鳴弦の動きが噛み合った。
だが——朔の索敵処理速度が落ちていた。法力を遅く流すと、情報の切り替えが鈍くなる。灰輪でこの速度なら、穢れの変化を捉え損なう。
「遅い……これじゃ実戦で使えない」
鳴弦が朔の肩に戻ってきた。今度は嘴でつつかなかった。ただ、首を傾げていた。
「……お前の速度に合わせると、僕が遅くなる。僕の速度に合わせると、お前が遅れる。どっちかを変えなきゃ、合わない」
善次郎が木の下に戻りかけていた。足を止めて、振り返った。
「鳴弦に聞いてみたらどうだ」
「……聞ける方法がない」
善次郎は薙刀の布を手にしたまま、静かに言った。
「だから俺がいるだろ」
朔が少しだけ笑った。声には出さなかった。口元が動いただけ。善次郎も——口元だけ。鳴弦が朔の髪を嘴でいじり始めた。怒りが収まったらしい。束ねた長髪の先端を軽く噛んでは離す。嘴遊び。
朔は鳴弦が髪をいじるのに任せたまま——善次郎を見た。
「善次郎、明日の巡哨で横にいてくれないか。鳴弦を飛ばしている間、鳴弦の状態を読んでもらいたい」
善次郎が朔を見た。一拍の間。
「……いいぞ」
短い返事だった。善次郎は木の下に座り直し、薙刀の手入れに戻った。
---
昼前。
凌が地面に座り込んでいた。右手に予備刀を握ったまま、刀身を睨んでいる。素振りの後だった。
虎太郎の太刀を再現しようとしていた。あの「構えない構え」——穿月を軽く持ち、自然体で立つ。力を抜こうとすると握りが不安定になる。法力の出力を落とすと刃筋がぶれる。虎太郎の「効率」は出力を下げることではない。最小の出力で最大の効果を出すこと——頭ではわかっている。だが体がついてこなかった。
二百本振って、予備刀が手から滑った。手汗。力を抜こうとして、逆に力の入れどころを見失っている。予備刀が凌の法力に馴染んでいないことも不安定さを加速していた。
蓮が広場を横切ってきた。
「なにしてんの、凌」
凌が蓮を見上げた。赤銅色の目が少しだけ翳っている。
「……虎太郎さんの太刀筋を練習してる」
「うまくいった?」
「いかねぇ」
蓮は凌の横に立った。腰に手を当てた。
「ふうん。——あたしも巴さんの真似しようとしたけど、全然だめだったよ」
凌が顔を上げた。
「お前が?」
「昨日、浄身院の薬典庫で走りながら治す技法の文献を探してみたの。——なかった。浄身院の治療って、患者が来る前提だから。走りながら治すなんて、巴さんみたいな人が自分で編み出すしかないんだよね」
凌の口角がわずかに上がった。
「文献にもねぇのか」
「ないの。——ねえ凌、ちょっと腕貸して」
凌が怪訝な目を向けた。蓮は凌の右前腕を取った。鍛錬の後の腕。筋肉がこわばっている。
「歩きながら法力を流す練習。じっとしてる相手ならできるんだけど——」
蓮が歩き始めた。凌の腕を軽く持ったまま。右手に癒除術の法力を薄く溜め、翡翠色の淡い光が手のひらに灯った。
三歩目で法力が散った。足が地面を踏む振動が手から流れる法力に干渉した。蓮の手が離れた。
「……だめだ」
凌が腕を引いた。
「止まってやりゃいいだろ」
蓮は首を振った。笑っていなかった。
「止まってたら、巴さんに追いつけない」
初めて口にした言葉だった。昨日の拳——掌に爪が食い込んだ一瞬が、言葉になって出てきた。
凌は蓮を見た。赤銅色の目が——少しだけ開いた。それから予備刀を見た。
「……俺もこの様じゃ、虎太郎さんには追いつけねぇよ」
低い声だった。悔しさではなかった。認めた声だった。
二人は黙って立っていた。言葉にする必要のない共鳴だった。先達の「完成形」を見て、自分との差を知り、再現しようとして失敗した。違う道だが、壁の形は似ていた。
蓮は凌の横を通り過ぎた。
「ほどほどにね」
凌は返事をしなかった。ただ予備刀を持ち直して、立ち上がった。もう五十本。体が言うことを聞かなくても——振ることは止めない。
---
午後。土御門家。
朔が帰宅した。篝の部屋の戸を引くと、篝が褥から起き上がって座っていた。本を膝に開いている。浄身院の薬典庫から借りた古文献。
「さくにぃ、くさい」
篝が笑った。鼻をつまむ仕草。朔は少しだけ顔を赤くした。
「……悪い。着替えてくる」
着替えて戻り、篝の部屋に座った。膝の上に影写しの感光紙を広げた。
感光紙の裏——影写しで風景を焼き付ける面の裏側に、小さな文字を一行だけ書いている。影写しは風景を焼き付ける。だが言葉は焼き付けられない。だから感光紙の裏に、小さく文字を書き添える。それが手紙になる。
朔は何を書くか迷っていた。任務の話は書けない。怪異や穢れの話は篝を心配させる。里の中の話も、篝は知っている。外の景色は影写しで見せる。では——言葉は何を。
筆を動かした。一行だけ。
篝が覗き込んだ。
「——え、なにそれ」
感光紙の裏に書かれていたのは——
『今日は鳴弦に耳をつつかれた』
篝が顔を上げた。黒い瞳が丸くなっている。
「さくにぃ大丈夫? 痛かったの?」
「大丈夫。怒ってただけだから」
「鳴弦ちゃんに怒られるさくにぃ、面白いね」
篝が笑った。声を上げて。好奇心が先に出た。「なんで怒ったの?」「善次郎くんが翻訳したの? すごい」。朔は一つずつ答えた。法力の速さが合わないこと。善次郎が鳴弦の感情を読み取れること。
篝がひとしきり笑ってから、膝の上の古文献を閉じた。
「ねえ、さくにぃ。あたし、最近面白いの見つけたんだ」
「面白いの?」
「浄身院の薬典庫から借りた文献に、『五行の循環と浄化速度の関係』の記述があったの。お母様に聞いたら、それは今の浄身院では使われてない技法なんだって。五行の法力の流れ方を変えると、浄化の速度だけじゃなくて、法力を流しながら体を動かすときの安定性にも影響するかもしれないって書いてあるの。面白そうだから、もうちょっと読んでみる」
朔は篝を見た。篝の知識の蓄積が着実に進んでいる。土御門家の書庫と浄身院の薬典庫。二つの書庫を行き来できるのは、土御門家の血筋と葛葉家の縁を持つ篝だけだった。
「篝も頑張ってるんだね」
「えへへ。さくにぃには負けるけどね」
負けるわけがなかった。篝の知識は朔が持っていない領域に根を張っている。だが朔はそれを言葉にしなかった。篝の「負ける」は本音ではない。照れだった。
二人は篝の部屋で午後を過ごした。朔が感光紙を整理し、篝が古文献の頁をめくる。南向きの窓から秋の光が差し込んでいた。
外からは鳥の声がした。鳴弦が屋根の上にいる。善次郎の木行の法力の余韻がまだ残っているのか——穏やかな声で鳴いていた。




