102話:走る手、止まる手
巡哨は日課になりつつあった。
朔は鳴弦を偵察に出した。灰色の空に小さな鷹の影が滑る。今日は——鳴弦が右に飛んだ。朔が穢れの残り香を感じたのも右だった。合った。少しずつ——噛み合い始めている。
澪の声が走った。
「左前方。一体。五位」
虎太郎が穿月を抜いた。一閃。骸狗の上位個体の外殻と核を同時に断ち割った。法力の薄い、最小限の太刀。いつも通りだった。巴が淡々と法石を取り出し、彰吾が「次」と呟いて前方を確認する。
戦闘は、もう日常だった。
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帰還路の延長で灰の野の東端に差しかかったとき——澪の声が変わった。
「正面。二体。五位。——間隔が近い」
悪鬼が二体同時に姿を現した。獄縛鬼。青鬼。錆びた鉄の刺又を構えている。そしてもう一体——形代綴り。呪符と血泥で造られた獣の形。胸の核が暗赤色に脈動していた。
虎太郎の声が切り替わった。
「俺と彰吾さんで獄縛鬼。——朔くんの班は形代綴りの足止めを」
足止め。後方固めではない。二体目の悪鬼に対して、直接的に動きを止める。部分参加期に入って——初めての、攻撃的な任務。
朔は練錫杖を構えた。環が鳴った。
「凌、前衛。善次郎、左から。蓮、後方」
形代綴りが動いた瞬間、朔は結界の骨格を空間に張った。
——ただし、六角の格子をそのまま張らなかった。
形代綴りは直進型の怪異だった。突進して棘を振るう。枯草の腐泥を蹴る脚の向きが、次の突進の経路を示す。朔はその経路を読み、結界の壁を斜めに張った。右側を封鎖する壁——ではなく、右前方から左後方に向かって楔のように角度をつけた壁。
形代綴りが突進した。棘が結界の壁に衝突し——弾かれた。楔形の壁は衝撃を「止める」のではなく「逸らす」。形代綴りの突進が左に流れた。善次郎の樹鎧の正面へ。
善次郎が受け止めた。練薙刀を構え、形代綴りの体当たりをそのまま壁で止める。怪異は楔の壁と善次郎の壁に挟まれ——身動きが取れない。
凌が跳んだ。予備刀を抜いた。本来の練刀ではない。法力を抑えて振る必要がある。凌の歯がわずかに噛み合わされていた。だが——朔の結界と善次郎の壁が作った隙間は、凌の突きを通すのに十分な空間だった。予備刀の切っ先が正確に呪符の束を貫いた。核が砕けた。形代綴りが崩壊した。血泥の残骸が地面に広がり、呪符の切れ端が風に散った。
同じ瞬間——虎太郎と彰吾が獄縛鬼を仕留めにかかっていた。穿月が閃き、刺又の柄を断った。獄縛鬼が体勢を崩す。
獄縛鬼の尾が——振れた。死に際の痙攣。太い尾が横に薙いだ。彰吾は避けた——だが着地のとき、右膝が地面の石に打ちつけられた。砂利が散った。彰吾の顔が一瞬歪んだ。捻挫。
虎太郎がもう一太刀で核を砕いた。
二体、終わった。
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凌の左前腕に浅い傷があった。形代綴りの棘の先端がかすめた跡。深くはない——だが黒い穢れの付着がある。
蓮が凌のそばに駆け寄った。前腕を両手で掴み、癒除術の法力を手のひらから流し込んだ。翡翠色の淡い光が蓮の手から凌の肌に浸透していく。傷口が塞がる。穢れを浄化する——丁寧に。確実に。
その瞬間——視界の端で、何かが動いた。
巴が走った。
蓮は凌の穢れ浄化に集中していた。両手が凌の前腕を握っている。法力を流している最中に——目の端が巴を捉えた。巴が虎太郎の横を走り抜けた。
巴の手が彰吾の膝に触れた。
一瞬だった。走り抜けながら膝に手を当て、法力を流し込み、手を離した。巴の手が彰吾の膝に触れていたのは——息を一つ吸い込む間だった。それだけで、彰吾が立ち上がった。膝を伸ばし、体重をかけた。
巴はそのまま虎太郎の後方に戻った。定位置。何事もなかったように。
蓮の手は——まだ、凌の前腕を握っていた。
穢れの浄化は終わりかけていた。蓮の治療は正しい。丁寧で、確実で、残滓を一筋も残さない。
——速い。
蓮の中に浮かんだ言葉は、それだけだった。
蓮の手が凌の前腕から離れた。凌が腕を動かし、手首を回した。
「……ん。大丈夫だ」
蓮は頷いた。口角が上がった。
「よかった」
声は明るかった。
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帰還路。
灰色の空の下を隊列が歩いている。全員無事。任務としては成功だった。
蓮は歩きながら——善次郎の足元を見ていた。善次郎の歩幅がわずかに狭い。いつもの善次郎は大きな歩幅でゆったり歩く。今日は二寸ほど短い。蓄積疲労。脚の筋肉がこわばっている。
傷ではない。疲労だ。癒除術で治せるものではない。
——でも。
蓮は善次郎の横に並んだ。歩きながら、右手に癒除術の法力を薄く溜めた。手のひらに翡翠色の淡い光が灯る。走る必要はない。歩いているだけだ。歩きながら、善次郎の右脚のこわばりに手を伸ばした。
法力が——散った。
足が地面を踏む振動が、手から流れる法力に干渉した。歩幅が変わるたびに法力の経路がずれる。精度が落ちる。蓮は手を引いた。
「……だめだ」
小さな呟き。歩くだけなのに。巴は走りながら治した。蓮は歩きながらですら法力を維持できなかった。
善次郎は蓮が何をしようとしたか、気づいたようだった。何も言わなかった。歩幅がわずかに広がった。
蓮は自分の手を見た。拳にした。ほんの一瞬。爪が掌に食い込んだ。すぐに開いた。
朔は蓮の横を歩いていた。一瞬の拳を、見ていた。何も言わなかった。
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外采門が開いた。里の空気が流れ込んだ。法力が軽くなる。
苗札を棚から取った。帰ってきた。穢れ検査を通過した。凌の前腕は蓮が完全に浄化していた。残滓はなかった。
虎太郎が蓮の横に並んだ。自然に。隊列が崩れ、班員がそれぞれ散っていく流れの中で——虎太郎だけが、蓮の横を歩いた。
「蓮くん」
蓮が顔を上げた。
「はい?」
「今日の凌くんの穢れ浄化——いい手だったね」
蓮の足が一瞬止まった。巴の「速さ」を見た直後だった。自分の「止まって治す手」が褒められた。
「……あたしは、止まって、時間をかけて治しただけです」
虎太郎は歩き続けた。蓮の横を。同じ歩幅で。
「止まって治すのも、走って治すのも、治す手には変わりないよ」
穏やかな声だった。柔らかい。けれど曖昧さはない。
「——丁寧さは、速さとは別の強さだ」
蓮は返す言葉を探した。見つけるより先に、虎太郎は前を歩いていた。彰吾が「おい虎、飯行くぞ」と声をかけ、虎太郎が「行くよ」と応じる。
蓮はその場に立っていた。
虎太郎の言葉が——巴の初対面の言葉と重なった。「蓮ちゃんだっけ。——いい手してるな。……うん、治す人間の手だ」。虎太郎が巴と同じ言葉を使ったのが意図的だったのか——蓮にはわからなかった。
蓮は手のひらを開いた。大きく広げて——灰色がかった秋の空にかざした。
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虎太郎が朔の横を通りがかった。足を止めずに——
「結界の角度、良かったね」
一言だった。朔は頷いた。楔形の壁。怪異の突進を逸らし、善次郎の正面に誘導した結界。「どこに張るか」を考えた——初めての結界だった。
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幕板小屋に寄った。三方に板を張っただけの吹きさらしの小屋。先輩外采使が数人、木の長椅子に座って黙々と飯を食っていた。
朔の班が入った。目が合った。一瞬だけ。水が出された。無言で。「お疲れ」とも「大丈夫か」とも言わない。一人前には声をかけない。言葉にすると特別視になるから。
握り飯と漬物と汁物。帰還した日に食べる飯は、灯し飯だった。門をくぐって里に帰り、灯りの下で食べる飯。仲間の灯し飯。
食事の後、班で帰った。夕暮れの残り光が水路に映っている。秋の夕風が四人の間を通り抜けた。
蓮が口を開いた。
「巴さんってすごいね」
自然な声だった。
善次郎が短く応えた。
「……ああ」
凌が前を向いたまま言った。
「速ぇよな、あの人」
朔は少しだけ考えてから——
「巡哨中に巴さんの動きを見ておくといいかもしれない」
蓮に向けた言葉だった。
蓮は朔を見た。翡翠色の目が笑っていた。だがその奥に、さっきの一瞬の拳と同じ熱があった。
「うん……見てる。見てるよ」
蓮の声は明るかった。だが「見てるよ」の言い方が——少しだけ重かった。




