101話:動かない背中
朝の控え詰め所で、虎太郎が声をかけた。
「今日から少し動いてもらうよ」
柔らかい声だった。だが四人の誰にも、その言葉の重さは伝わっていた。
「後衛の一角に入ってもらう。朔くんの班で結界を固めて、善次郎くんが左翼を支える形。——彰吾さんが配置を説明するよ」
彰吾が壁に寄りかかったまま、朔たちを見た。
「簡単に言うと、俺たちの後ろに壁を張ってくれればいい」
善次郎を見た。
「——まあ、壁は得意だろ?」
善次郎は顎を引いただけだった。それが善次郎の肯定だと、朔は知っていた。
蓮が護帯の法石に手を触れた。五つの法石の光を確かめながら、小さく頷く。
観察期が、終わった。
---
外采門が開いた。
隊形が変わっていた。虎太郎が先頭。彰吾が右翼。澪が後方。巴が虎太郎のすぐ後ろ。だが今日は——朔の班が北斗衆の布陣の中に組み込まれている。後方の半歩前。結界と壁で隊列の退路をふさぐ位置。
灰輪・灰の野に入った。
鳴弦が朔の右肩から飛び立ち、低空を旋回した。鳴弦が左に飛んだ——朔が穢れの残り香を感じたのは右だった。まだ噛み合わない。けれど昨日よりは近い。
澪の声が走った。
「正面。一体。五位」
悪鬼——獄縛鬼。体長一間余りの青鬼が、枯草の向こうから姿を現した。両手に錆びた鉄と骨の刺又を構えている。
虎太郎が歩みを止めた。穿月を抜いた——音がしなかった。
朔は練錫杖を構えた。環が鳴った。
「凌、右翼を警戒。善次郎、左翼。蓮、僕の横」
結界の骨格を空間に組み上げる。六角の格子が立ち上がり、隊列の後方を閉じた。法力が灰輪の空気の中で重い。だが手は止まらなかった。あの一拍の代償が——刻まれている。
前方で虎太郎が動いた。一歩。それだけだった。獄縛鬼が刺又を振り上げた瞬間に、虎太郎は獄縛鬼の左側面に入っていた。穿月が一閃した。刺又の柄と、獄縛鬼の左腕と、核に至る体の断面を——一太刀で斬った。法力は薄く、最小限の量だけが刃に纏われていた。獄縛鬼が崩れ落ちた。
凌が——息を呑んだ。
巴が淡々と遺骸から法石を取り出した。鶏卵大の乳白色。腰の袋に収める。虎太郎が穿月を振って刃を清め、鞘に収めた。振り返った。
「——うん。後衛固め、問題ないね」
朔は頷いた。結界は一拍の遅れもなく展開できた。善次郎の樹鎧は左翼に隙を作らなかった。蓮は後方で弓を構え、万一に備えていた。凌は右翼で練刀を抜いたまま——前衛には出なかった。配置を守った。
---
巡哨が終わった。帰還路に入る。
虎太郎が足を止めた。開けた草地だった。灰色の枯草が風に倒れ、地面が平らに広がっている。
虎太郎が振り返った。
「少し時間がある。体を動かすかい?」
彰吾がにやりと笑った。
「新人の腕試しか、虎?」
「腕試しじゃないよ。——組み手は一番の教材だ」
凌が動いた。
「……俺が」
迷いのない声だった。練刀の柄に手がかかっている。赤銅色の目が虎太郎を真っ直ぐに捉えていた。
蓮が凌に声をかけた。
「怪我したら治すのあたしだからね」
凌の口角がわずかに上がった。答えなかった。前に出た。
---
凌が練刀を構えた。正眼。腰を落とし、法力を足裏に沈める。
虎太郎が穿月を抜いた。
構えなかった。穿月を右手で軽く持ち、自然体で立つだけ。脚は肩幅。左手は腰の横に垂れている。力が——どこにも見えない。
一太刀目。
全力の踏み込み。上段からの斬り下ろし——教導寮の誰にも見えなかった速度。練刀に戦刃術の法力が奔り、刃が灰色の空気を裂いた。
虎太郎は穿月をわずかに傾けた。練刀の刃が穿月の腹に触れた瞬間に——滑った。力の通り道をずらされた。押し返されたのでも、弾かれたのでもない。力の方向だけを変えられた。練刀が空を斬った。
二太刀目。
切り返しからの横薙ぎ。雷火術の法力をわずかに乗せた連撃——刃が空気を焦がし、灰色の風に橙色の残光が走った。
虎太郎が半歩だけ退いた。穿月の柄元で凌の練刀を受けた。金属が軋んだ。鋭く、乾いた音。凌の法力が刀身を通り抜けようとして、練刀が悲鳴を上げている。
三太刀目。
雷火術の出力を開放した。炎推の片鱗——右足に法力を凝縮し、地面を蹴る力の倍以上の推進力で前に出た。練刀を正面に突き出し、全身の法力と体重と速度を一点に集中させた突進。灰色の空気が裂け、凌の軌道に沿って砂利と枯草が散った。
虎太郎は動かなかった。穿月を右手だけで立てた。凌の突進が穿月に衝突した。衝撃が弾けた。虎太郎の足元の地面が沈んだ——彰吾が事前に固めた地盤が衝撃を受け止めている。
虎太郎の体は一歩も退かなかった。
動かない背中。
凌の練刀が穿月から弾かれた。反動で体が二歩下がった。
三本。全力の三本が——一太刀も届かなかった。
凌の呼吸が荒い。だが膝はつかなかった。練刀を握り直した。赤銅色の目が虎太郎を見据えている。
四太刀目。
構えが——変わった。
凌は正眼を崩した。練刀の切っ先を下げ、下段に構える。虎太郎の足元に刃先を向けた。これまでの三本とは異なる構え、異なる呼吸。
法力の流し方が変わった。
戦刃術の法力を練刀の刀身に通す——だが、刃の強化ではなかった。法力が刃を伝い、切っ先から溢れた。飛刃の術理。だが射出しない。刀身に密着させたまま——切っ先の先に、法力の薄い膜を伸ばした。
練刀の刃渡りが——半尺伸びた。
見た目はほとんど変わらない。だが間合いが違う。虎太郎がこれまでの三本で読み取った凌の間合い——その「外」から届く刃。
凌が地を蹴った。下段からの斬り上げ。
虎太郎の目が——変わった。
穿月の角度が深くなった。これまでの「わずかに傾ける」でも「柄元で受ける」でも「片手で立てる」でもなかった。両手で握り、刃を正面に合わせた。朔が初めて見る——虎太郎の「構え」だった。
凌の斬り上げが穿月に衝突した。法力の延長を含んだ刃が穿月の刀身を這い上がり、虎太郎が刀身を回して法力の膜を削いだ。凌の練刀が弾かれた。
だが——虎太郎は動いた。半身をずらした。三本目まで微動だにしなかった体が、四本目で動いた。
凌の練刀が宙を走った。手から離れかけた刀を、凌が左手で掴み直した。掌が渇いた音を立てた。
膝が砂利についた。
虎太郎が穿月を下ろした。汗はなかった。呼吸は乱れていなかった。だが——右手の穿月の握りが、三本目までとは違っていた。わずかに深い。
---
凌は膝をついたまま、自分の手を見ていた。汗で滑っている。掌に練刀の柄の凹凸が食い込んで赤い筋がついていた。
悔しさは——来なかった。
凌は教導寮で一度も負けていない。素振りで凌より速い者はいなかった。虎太郎は——受けていなかった。力を受け止めたのではない。凌が全力で叩き込んだものを、存在しないかのように流した。同じ刃の、別の研ぎ方。
だが四本目。虎太郎は——構えた。動いた。あの一瞬だけ、凌の刃が虎太郎の計算の外に出た。
それが何を意味するのか、凌にはまだわからなかった。ただ、四本目の手の感触だけが掌に残っていた。
凌は立ち上がった。練刀を拾い、鞘に収めた。赤銅色の目が見開かれていた。怒ってもいなかった。驚嘆の目だった。
---
隊列が再び歩き始めた。灰色の帰還路。
虎太郎が凌の横に並んだ。二人きりにはしなかった。全員が歩いている中で——自然に、凌の横に。
「凌くん」
凌が顔を向けた。
「四本目、面白かったね」
虎太郎の声は落ち着いていた。
「あれは——飛刃か?」
凌の目がわずかに開いた。自分でも咄嗟の発想だった。だがそれを虎太郎が一目で見抜いた。
「刀身に乗せたまま伸ばした。射出しないで。——いい判断だ」
虎太郎の声は穏やかだった。だが曖昧さがない。
数歩の間、虎太郎は黙って歩いた。
「——一つだけ聞いていいかな」
凌は黙って虎太郎を見た。
「あの瞬間、周りに何が見えた?」
凌の足が止まりかけた。すぐに歩き直した。
一太刀目のとき——虎太郎しか見えていなかった。穿月の角度。虎太郎の足の位置。二太刀目。虎太郎の体幹の動き。三太刀目。虎太郎の正面。四太刀目——飛刃を応用しようとしたとき、意識のすべてが刀身と法力の流れに向いていた。
全てが——虎太郎だけだった。
「……虎太郎さんしか、見えてませんでした」
凌の声は低かった。
虎太郎は笑った。否定しなかった。
「うん。——俺はね、凌くんが四本目を打ったとき、善次郎くんが左にいて、朔くんが右後方にいて、蓮くんが五歩後ろにいたのが見えてた」
凌の歩みが止まった。四太刀目——あの全力の法力延伸を正面から受けながら、後ろにいる三人の位置を把握していた。
「凌くんの力は俺よりすごいかもしれない。四本目は——正直、驚いた」
虎太郎の声は変わらなかった。温かくて、柔らかくて、曖昧さがない。
「でもね——一人で斬る刃と、全員を帰す刃は、研ぎ方が違うんだよ」
凌は何も言えなかった。理解の入り口に立った者の沈黙だった。
凌は歩き出した。口を開きかけて、閉じた。「ありがとうございました」は凌の言葉ではない。「わかりました」もまだ言えない。
「……知ってます」
凌がぽつりと言った。何を知っているのか、凌自身にもまだ明確ではなかっただろう。だがそれが凌の精一杯だった。虎太郎が告げたことの重さを——少なくとも受け取ったという、不器用な返事だった。
虎太郎はふっと笑った。それだけだった。
---
帰還路が続いた。外采門が遠くに見え始めている。
虎太郎が善次郎を見た。
善次郎は隊列の左後方を歩いていた。練薙刀を担ぎ、大きな歩幅でゆったりと歩いている。着崩さない装束。急がない。急かされても急がない。
「善次郎くん」
善次郎が振り向いた。深い墨色の目が虎太郎を見た。
「……はい」
虎太郎は善次郎の姿を数歩の間見ていた。
「立ち方が鉄心さんそっくりだ」
善次郎の歩幅が——わずかに詰まった。
「……そうですか」
短い声だった。
虎太郎は柔らかく笑った。
「いい立ち方だよ」
それ以上は何も言わなかった。善次郎も何も聞き返さなかった。視線を前に戻し、歩き続けた。
だが——善次郎の左手が、薙刀の柄紐に触れていた。指先で結び目をなぞっている。
---
外采門が開いた。
里の空気が流れ込んだ。水路のせせらぎと竃の煙。法力が軽くなる。
苗札を棚から取った。朽ちていない。帰ってきた。
穢れ検査を通過した。法石を提出した。虎太郎が淡々と報告する。遭遇した怪異。遂行した巡哨区域。回収した法石の数。
「後衛固めは問題なし。次からもう少し前に出してみよう」
虎太郎の声が朔の班に向けられていた。書記官が筆を走らせた。
---
控え詰め所の隅で、凌が練刀を手入れしていた。油を含ませた布で刀身を拭いている。
布が——止まった。
凌の目が刀身の一点に留まっている。朔は凌の横を通りかかったところだった。
練刀の刀身に——亀裂が走っていた。髪の毛一本ほどの筋が、刃の中ほどから峰に向かって伸びている。四太刀目——飛刃の法力を刀身に密着させたまま保持したとき、練刀にかかった負荷の痕だった。
凌が指で亀裂をなぞった。
「凌、練刀——」
朔が声をかけた。
凌は朔を見なかった。刀身を見つめたまま——
「わかってる」
短い声だった。いつもの照れ隠しの「わかってる」とは温度が違った。
「……明日、内工座に修繕を出す」
凌は練刀を鞘に戻し、控え詰め所を出た。
蓮が朔の横に来た。
「凌の練刀、大丈夫?」
朔は首を振った。
「……亀裂が入ってた」
蓮の翡翠色の目が凌の出て行った方を見た。
朔は壁に掛かった帰還簿を見た。今日の名前が全て揃っている。虎太郎の班と、朔の班。空白はなかった。
——凌の刀は、凌に追いついていない。修繕で済む問題ではなかった。凌の法力に耐えうる刀身が要る。素材の強度。法力の伝導率。回路の設計。考えるべきことは多い。朔の錬器術で何かできるのか、まだわからない。だがこの問題を黙って見ているつもりはなかった。
朔は帰還簿から目を離し、控え詰め所を出た。明日、鍛錬の前に内工座に寄る。凌の練刀の合金組成を、自分の目で確かめるために。




