スナフキンの帽子
もしもあなたのもとに四角いダンボール箱に入った〈スナフキンの帽子〉が届けられたなら、飾り羽根が横に付いたその帽子をかぶって、あなたは一週間以内に旅にでなければなりません。
特に理由はありません。これは私とあなたとの約束事でしかありません。そして私はあなたに対してなんら強制力も持ち合わせていないことを最初に断っておきたいと思います。私はとある団体の代理人なのです。あくまでも代理人です。決してその団体を代表する者ではありません。
その団体は〈編み人知らず〉といって、大胆不敵にも、まるで矛盾しているのを承知しながらもなお、名前を持たない意志を正式に世間に対して表明している、おかしな名前の集団です。そして私はそのおかしな名前をした団体の代理人といった、少々微妙な立場にいる顧問弁護士になります。周囲からはよくもの好きな弁護士と呼ばれています。
〈編み人知らず〉と名乗るからには、彼女たち(そう私の知るかぎり、その集団はまさに彼女たちなのです)は編み物を主体とした集団のようです。ただその人数や活動範囲の実態はひどくあいまいであり、しかも私自身が編み物が得意どころか、数字の苦手な人々が黒板の上に並んだ白墨で殴り書きされたかのような数式の羅列を見ると蕁麻疹を引き起こすように、あるいは爬虫類の苦手な人々が蛇柄を見るなり貧血を起こしてしまうように、あるいはマラソンの苦手な子供がその体育の授業が近づいてくると急に腹痛になるように、曼荼羅の呪文のごとき複雑な網目模様が苦手なのです。編み図と様々な記号が描かれたを四角い白紙を手にすると私の指先はしだいに震えだし、額には脂汗がじんわりと浮きだしてくるのです。いまとなっては学校の授業にあった家庭科の授業がどんなふうであったのかまったく思いだせません。
もしかしたなら、彼女たちはそれを主な理由に星の数ほどいる弁護士の中から私を選びだしたのかも知れません。可能性はありそうです。なにしろ彼女たちにとって編み物とは、お相撲さんにとっての土俵の砂のように、野球選手にとってのグランドの芝生のように、新鮮な野菜をつくりだす料理人にとっての水や土のように、神聖不可侵な場所であって、にわかファンに下手に立ち入ってもらって、あれやこれやと口煩く批評してほしくない秘密の領域であるようです。
それよりも法律の専門家であるのなら、テキパキと過分も不足もなく社会的な雑務をこなして、それが終わったならとっとと蚊帳の外にでていってもらいところでしょう。
さて法律のプロとしましては、仰せのとおり業務をこなして終わりにしたいところなのですが、ただ法律を生業とする者が畑違いである広告業の真似をするのはいささか首を傾げたくなるところではあるかもしれません。そのような批判につきましては、ありもしないような大袈裟な誇大広告よりは、それに向かって目を光らせることを生業とする者が発した言葉の方が、いくらかは信憑性がありそうだとだけ申しおきたいと思います。
肝心の〈スナフキンの帽子〉についてですが、なにぶん世界的に有名なファンタジーですし、わが国では昔からアニメ作品にもなって何世代にもわたり親しまれている作品ではありますので、私の口からそれについてくどくどと説明する必要はないと思います。ここではそれがどういう形であなたのもとに届けられるのか、またそれが実際に届いたなら、なぜ一週間以内に旅にでなければならないのか、それについてだけご説明したいと思います。
まず第一に、そもそもどうして頼んでもいない〈スナフキンの帽子〉が手元に届けられるのかという根本的な疑問なのですが、それにつきましては〈編み人知らず〉という団体はそういう団体なのだとしか申しようがありません。なんにつけ彼女たちは自分たちが編んだもの、こしらえたものを、密かに人々に届けたがる、ありがた迷惑な匿名の団体なのです。
人々にとって唯一の取り柄なのは、彼女たちの行為がすべて無料でなされているという点です。〈編み人知らず〉は非営利団体であり、少なくともあなたは〈スナフキンの帽子〉それ自体には一円も支払う必要はありません。
〈編み人知らず〉はなにかしらの理由であなたを、もしくはなんの理由もなしにあなたを、選び、そしてある日まったく突然に、なんの予告もなしに、〈スナフキンの帽子〉は届けられます。
届け人があなたの部屋のドアをノックすることはありません。例えはいささか悪いのですが、ダンボール箱はポストに投函されるチラシのごとく、あなたの家のドアの前になんの断りもなく人知れず置き去りにされています。
それはガムテープで閉じられた四角いダンボール箱に入っています。扉を開けますと、中にいつかアニメやイラストで見たのと同じ草色した山高帽が収められています。説明書の類いは付属していません。
ついでに言ったなら、本当のところそれは〈スナフキンの帽子〉ですらありません。それは名前の付いていない草色した、ほぼ手作りに近い山高帽であり、あるファンタジーに登場する人物がかぶっていたものによく似た品物です。帽子の横のところに飾り羽根が一本付いています。
たとえそうであっても、箱の中身を手にした途端、あなたは物語の中の登場人物へと変身します。その帽子はあなたを身も心も一心させます。それは「帽子が届けられてから一週間以内に旅にでなければならない」という謎のミッションにも関連しています。
でもそれだけではまだ十分ではありません。たとえあなたの心が物語の中の登場人物と一体化しても、じつのところあなた自身はまだなにも変わってはいません。
大切なのはそこからです。そこからが本当のスタート地点です。真実の魔法の効果が発揮されるときです。
さあ勇気をだして〈スナフキンの帽子〉をかぶって外へと飛びだしましょう。人々が行き交う街中の通りを歩きましょう。大きなスーパーマーケットで買い物をしましょう。満員電車に乗って、学校へ会社へと、向かいましょう。教室でも職場でも帽子を頭から脱がずにかぶりつづけましょう。
あなたにそれができますか?もしもできたなら、あなたの旅はすでにはじまっているのも当然です。毎朝の通勤電車の発車メロディーとは違う、どこかのプラットホームで鳴りはじめた、まだ行き先の定かでない列車の発車ベルが聞こえてきそうです。
最初はあなたの姿を見て、学校や職場の人々は笑いはじめるでしょう。もしかしたらあなたの肩を叩いて「上出来」と褒め称えてくれるかもしれません。「でもハロウィンにはまだちょっと早いんじゃない?」とか言いながら。誰もがその山高帽を見た記憶があり、それをかぶったキャラクターを知っているからです。
三日か四日が経ってもなお、あなたが山高帽をかぶりつづけていると、周囲の反応は変わってきます。でもそれはあなたの仮装を人々が飽きはじめたからではなくて、あなたがその山高帽をかぶっている本当の意味を周囲が勘づきはじめているからです。いつも融通のきかないあなたの職場の上司ですらがそうなのです。その上司は職場の隠れた場所であなたにそっと耳打ちしてくるかもしれません。「その帽子、どこで手に入れたの?」と。
山帽子をかぶりはじめた六日目には、ついに友人や職場の同僚があなたに尋ねてきます。
「で、旅にでるのはいつ?」
翌日、〈スナフキンの帽子〉が届いてちょうど一週間目の朝に、あなたは旅にでます。
私からのお話しは以上でおしまいです。心の準備はできましたでしょうか?さあ、家の玄関のドアを開けてください。もしかしたらそこにダンボール箱に入った四角い荷物が届けられているかもしれません。
届いていたら大変です。どんな事情があったとしてもあなたは一週間以内に旅にでなければいけません。
大袈裟に言えば、たとえ奥さんが妊娠中でも、旦那さんが失業中でも、仕事上の大きな商談がまとまりそうでも、〈大学入学者選抜に係る大学入学共通テスト〉が間近に迫っていても、あなたは旅にでなければならないのです。
その頭に草色した山高帽をかぶって。
おしまい




