足湯下車(シーズン2)⑭
子供たちが自動改札機のパネルをSuicaでタッチしたときにピヨピヨと可愛らしいひよこが鳴くみたいに、私たち特殊電話オペレーター(TDO)が素数の印刷されたマジックナンバーカードを改札機のパネルにかざせば、遠く離れた自然界の時と場所とが入れ替わったかのように、辺りには水のせせらぎが一瞬の安らぎのごとく流れていきます。
それは間違えても駅構内に設置されたトイレの音ではありません。たぶん千人に一人ぐらいの割合で駅の利用客が予期せぬ清らかなせせらぎの響きに、「今のはなんだったのかしらん?」と、首と耳を一緒にかしげて足を止めることでしょう。でもそれだけです。その千分の一の利用客は駅から出るにしろ入るにしろ、すぐにまた歩きはじめるのです。だってそこは改札口という、人の往来を宿命付けられた場所なのですから。電車や世の中の動きを止めらないのと同じ理由で、乗客たちの流れを勝手に堰止めするわけにはいきません。
それでも千分の一なるその利用客が通勤客であった場合には、水のせせらぎを改札口で耳にしてしばらく日が経ったあとに、ふたたび透明で柔らからなその流れを夢想させる響きを耳にする可能性があります。なぜなら私たちTDOも同じ駅を利用している勤め人だからです。両者の間には時間的な規則性が共有されているかもしれません。
そうなれば、その勤め人はそれからあとにも「改札口のせせらぎ」をたびたび耳にする機会がありそうで、ついには「その自然界のクリークめいた環境音は、決まってある若い女性たちが自動改札機をタッチしたときに流れる」という新たな規則性を発見するにいたるかもしれません。
その場合に一つ考えられるのは、新たな規則性の発見者が想像力豊かな利用客であった場合に、彼や彼女は、おそらく謎のせせらぎを発生させる女性たちになにかしらの名前を付けて呼ぶのに違いないという展開です。
例えばそれは、自由自在に水を操れるという伝説の海底国アトランティスに住む人々に因んでアクアウーマンという名前であるのかもしれません。
ただし、文字通り水を差すようで気が引けるのですが、そのせせらぎの女性たちが自動改札をとおるたびに奏でているのは、水ではなくてじつは足湯のせせらぎなのです。
さて、就職の最終テストに合格した私は、西西荻窪駅の改札で素数の定期券をかざし、アクアウーマンよろしく、生まれてはじめて足湯のせせらぎの洗礼を浴びたのでした。
それから今度は上りの影帽子電車に乗り込んで、ふたたび荻窪駅でべつの上り電車に乗り換えたあとに中野駅で降り、ようやくコールセンターの一員として同僚のオペレーターたちに紹介されるのかと思いきや、公子さんにはまったくべつの思案があるらしいのでした。
「これからキミちゃんにはコールセンターにもどる前に、小学校の中にある図書館に立ち寄ってもらいます」
公子さんは帰りの電車の車内で言いました。名字で呼んでほしいと頼んだはずなのに、私のリクエストは綺麗さっぱり忘れ去れているようでした。
結局のところ私の呼び名は、そのあとオペレーターによって名字だったり「ちゃん付け」だったり、同僚によって変わる事態になるのですけど、それはいいとして公子さんの説明では、小学校に帰ったあとに、私が足湯の女性から受けとった黒い皮表紙のノートブックを図書館に届けるのが先決らしいのです。彼女は私の手元にある、大学ノートよりも少し厚く、大学ノートよりも一回り小ぶりな黒い表紙を指して言いました。
「まずノートブックを図書館の受付けの人に預けるの。それが終了したら本当に中野コールセンターのオペレーターの一員になれるという段取り。それぐらい中野コールセンターのオペレーターにとって図書館とノートブックは大切な存在になってるの。図書館はオペレーターにとっての頭脳であり、ノートブックは私たちのハートとも呼べるものだから」
どの小学校にもたいてい図書室は併設されているものですけど、リサイクル廃校オフィス内にリノベーションされた図書室は、そこで働く各企業の社員たちだけでなく中野区の住民にも解放されているので、図書室とは呼ばずにわざわざ図書館と命名されているようです。
それはよく分かるのですけど、謎なのは、どうして電話オペレーターにとって図書館の存在がそれほどまでに重要であるのかという点です。
なにしろ電話オペレーターとして雇われたはずなのに、それは後回しにして先ずは「図書館詣でをしなさい」というのですから、公子さんのその話しぶりからも重要度は推測できそうでした。
そこで私は一先ず下手な質問はせずに、手にしたノートブックの表紙も開かずに、見たまま感じたままをそのまま受け入れようと心に決めたのでした。
小学校の建物は図書館や区民のためのレクレーション室、レストランやカフェなどが入った南校舎と、それぞれの企業のオフィスが入っている北校舎の二つに分かれています。二つの校舎の建物がいくつかの通路によって繋がっている構造です。図書館は通路から階段を上った二階にあります。
公子さんのあとについて、私が階段を上っていこうとすると、通路の奥に学校の校舎内によく見かけるような、昔ながらの売店が営業しているのが目に入りました。文房具類やパンやおにぎりなどを取り扱っていて、大抵はおじさんやおばさんが一人で切り盛りしているような小さな店舗です。
似たような店は私が通っていた中学や高校の校舎内にもありました。懐かしいと思って、階段の上り口に立ち止まって覗くようにして眺めていると、異変に気がついた公子さんが上りかけた階段を降りてきて私に尋ねました。
「キミちゃん、どうしたの?」
「あの女性です」私は売店の店先に腰掛けている女性の横顔に釘付けになった状態で静かに、それでもハッキリと答えました。「西西荻窪の足湯で私が出会った女性はあの人です」
つづく




