足湯下車(シーズン2)⑬
西西荻窪の街への入り口となる駅のおしゃべり扉が、バタンと開く音が聞こえて顔を向けると、ひらひらと妖精めいた公子さんがこちらの方向に歩いてくるのが見えました。
カラフルなその光景は、就職のための最終テストが終了したタイミングを知らせる合図でした。遠目からも公子さんがニコニコと顔をほころばせているのが分かったので、テストは合格らしく、彼女が親指を立てたOKサインを送りつつやってくるのが見えました。
電話オペレーターとしてスカウトされてきたつもりだったので、OKサインをだされても、仮に私の中のなにかが水をお湯に変身させるという一大事を起こしたとしても、なにをいまさら感の方がよほど大きかったのは事実です。
それより私は、生まれてはじめての足湯をともにした、詩を披露したばかりのロンTの女性の存在が不安だったのでそちらに視線をもどすと、案の定と言うべきか、やはり彼女の姿はすでにそこには見当たりませんでした。シスターXよろしく、まるでそこ西西荻窪の街の住人たちは六次元か七次元か、別の次元で生活している人々よろしく、影が薄いというか、「あるべきものがそこになく、ないはずのものがそこにある」といった印象なのです。目を離しているうちに忽然と姿をあらわしては、つぎの瞬間にはもう消えているといった感じです。仮に足湯からすでにあがって、あっという間に立ち去ったとしても、普通に考えてたら周囲には飛んだお湯の跡が残っていてもよさそうなものです。その濡れた箇所がどこにも見当たらないのです。
子供だった頃に鬼ごっこをして遊ぶ相手としては、ずいぶんと厄介な存在だったはずです。
「いい湯加減じゃない」
公子さんはお湯に足をつけている私の横に立って、さっきまでは噴水の水であったはずの広場の足湯に手を入れて言いました。
そのときの私の心境としては、「なにをどう答えていいのか分からない」というのが正直なところでした。二人の女性が目の前から知らないうちに消えていて、噴水の水は本人の知らない間にお湯になっているのです。とても公子さんに向かって「ありがとうございます」と言える環境ではなさそうでした。どちらかといったら、「この状況を分かりやすいように説明してほしい」といった心持ちで、湯加減どころの話しではありません。
そしたら公子さんが、尋ねたいことが山ほどある私に向かって、逆に質問を投げかけてくるのです。
「膝の上のそれはなに?」
ようやく気がついて視線をおろすと、私のスーツの上には一冊の黒いノートがのっているのでした。
ノートは黒い皮製のブックカバーが付いて、厚さは普通の大学ノートよりも厚めにできていました。どう考えてもロンTの女性が詩を朗読する際に膝にのせていた黒いノートであるのに違いなさそうでした。
皮の表紙を開いてみて、ページに中学生が書いたみたいな詩の一節でも見つかれば持ち主を特定できるわけですけど、そもそもそこは、あるいはその足湯は、西西荻窪というなにやら得体の知れない街に存在するものであるわけです。タイムマシンに乗って過去の世界を訪れたタイムトラベラーに、その時代に属するものを未来世界へと持ち帰る行為が御法度なように、テストを受けている立場の私が、はたして勝手にノートを開いていいものかどうか迷うところですし、そこに書かれている文字が見たことも聞いたこともないような奇妙奇天烈な形をした列を成していたのなら、それはそれで話しがよけいにややこしくなってきそうでもあります。
「このノート、たぶんさっきまで近くにいた女性が持っていたものだと思うんです。私と一緒に二人で足湯につかっていたんです。それがにいつの間にか姿を消してしまって」
「ううん、そうじゃないの。私が尋ねてるのは、そのノートに挟んであるのはなにかしらったこと。それ定期券でしょ。おめでとう、これでテストは合格ね。書かれてある数字を教えて」
私の膝上をあごで指して公子さんは言いました。
黒い皮製の表紙をしたノートブックのページに白いカードが挟まっていました。プラスチック製の磁気カードのようでした。引き抜いてみると、表面にはただ一つだけ、白い表面に黒い素数が真ん中に印刷されていました。
「7です」
「また随分な数を想像したのね。知ってたかしら。1と7は素数の中でも特別な数字なのよ。これまでその二つの素数を足湯テストで想像できたオペレーターは一人もいなかった。マジックナンバーは必ずしも数字の形をしているとはかぎらないの。それは様々なものに姿を変えて私たちオペレーターの前にあらわれる。たとえば人の姿をしていたり、歌や詩の一章節だったりすることもある。あなたが足湯で出会った女性こそ、素数の7だったのかもしれないわね」
つづく




