第七話
目が覚めたら、まず脚を動かす。
時計を見るより先に。
布団の中で右の足首を曲げる。
軽い。
左も。
ふくらはぎに力を入れて、抜く。膝を立てて、太腿の裏を軽く伸ばす。
昨日の張りは残ってない。
足裏も大丈夫。
股関節も――うん。
そこでやっと枕元のスマホに手を伸ばした。
五時四十三分。
アラームが鳴る二分前。
そのまま止める。
最初の記録会まで、あと十九日。
今週はまだ上げすぎなくていい。
今日速く走ったところで、十九日後に速くなるわけじゃない。
むしろ入学式で長く座って、脚が固まる方が面倒。
朝は軽く。
それでいい。
……甘奈は、もう上げてそうだけど。
「……むかつく」
まだ何もされてないのに腹が立った。
高校に入るからって、あいつが練習を緩めてるところなんて全然想像できない。
多分、私が寝てる間にも走ってる。
そういう奴だ。
布団を蹴って起きる。
カーテンを開けると、薄い朝の光が窓に映った私の顔に重なった。
黒い髪の毛先が片方だけ外に跳ねている。
手で押さえる。
戻る。
もう一回押さえる。
また戻った。
「……あとでいいや」
どうせ走ったら崩れる。
ウェアに着替えて、顔にかかるところだけ手で直す。
部屋を出た。
*
階段を下りながら、一段ごとに脚の感触を見る。
一段。
二段。
軽い。
昨日よりいい。
リビングまで下りると、もう一人起きていた。
長谷川。
床に座って、左脚を前へ伸ばしている。
「おはよ」
「おう」
顔を上げた。
短い髪は寝起きのわりにあんまり崩れてない。
目は相変わらず鋭い。
少し細くて、猫っぽい。
こうして黙ってこっちを見てるだけなら、知らない人は多分ちょっと話しかけづらい。
「走る?」
「軽く」
「何分?」
「二十分くらい」
「入学式の日もやるんだな」
「入学式だから何?」
「いや」
長谷川の口元が上がった。
「一橋だなと思って」
その瞬間、目元まで一緒に緩む。
さっきまで猫っぽかったのに、笑うと急に犬みたいになる。
しかも、一気に幼く見える。
この顔してる時が一番ガキっぽい。
「何?」
「別に」
「今なんか思ったでしょ」
「思ってない」
「嘘つけ」
「朝からうざ」
「はいはい」
長谷川はまた左脚へ視線を戻した。
膝を曲げる。
一度止める。
ゆっくり伸ばす。
昨日より滑らか。
「今日どう?」
「何が?」
「脚」
「普通」
「張りは?」
「昨日よりない」
「ふーん」
「何」
「別に」
「お前もそれ使うじゃん」
「武田のじゃないし」
左膝に添えた手を少しずらして、長谷川がもう一度脚を伸ばす。
こういうところ、変なんだよな。
喋り方もふざけ方も雑なのに、やることだけ妙に丁寧。
料理の時もそうだった。
ずっとふざけてるくせに、包丁を置く場所とか、火とか、そういうところはちゃんと見る。
昨日だってクッション一個で本気で揉めたのに、最後は形を整えてソファに戻してた。
雑なくせに丁寧。
なんか変。
「行ってくる」
「おう」
玄関へ向かう。
靴を履いていると、後ろから声が飛んできた。
「転ぶなよ」
振り返る。
「転ばないし」
「昨日スーパーで段差引っかかってたじゃん」
「引っかかってない」
「見たけど」
「見間違い」
「はいはい」
「その返事うざ」
笑い声を背中で聞きながら、玄関を出た。
*
外は少し冷たかった。
でも、このくらいなら走ればちょうどいい。
最初はゆっくり。
肩の力を抜く。
腕も小さく。
今日は走るために走るんじゃない。
身体を起こすだけ。
足を置く。
足首。
膝。
腰。
問題なし。
住宅街を抜ける。
昨日より路面が乾いてる。
この道は少し上り。
反対から使えば下り。
朝のジョグならいいけど、速い動きには使いにくそう。
右へ曲がると歩道が狭くなる。
車も多そう。
ここはなし。
少し先の公園は平ら。
短いけど、流しくらいならできる。
こういうのは、一回走れば大体覚える。
景色が綺麗とかは、正直あんまり分からない。
走りやすいか。
危なくないか。
そっちの方が大事。
十分を過ぎたところで折り返した。
少しだけペースを上げる。
脚は軽い。
もっといける。
でも上げない。
今日気持ちよくなって、明日重くなったら意味がない。
十九日。
最初の記録会。
そこに全部合わせる必要はない。
本番はもっと先。
でも、遅い記録は出したくない。
十二秒前半。
今なら、それくらい。
問題はそこから。
甘奈なら――
気づいた時には、少しだけ速度が上がっていた。
「……違う」
落とす。
今じゃない。
あいつのこと考えると、すぐこれだ。
中学最後のレースも。
その前も。
もっと前も。
前にいた背中は同じだった。
だからって、朝のジョグで勝手に張り合っても仕方ない。
家の近くまで戻って、最後に少しだけ動きを入れる。
腿を上げる。
切り替える。
接地。
姿勢。
腕。
一本。
もう一本。
最後に短く流す。
悪くない。
身体がちゃんと前へ出る。
今日はこれでいい。
*
「ただいま」
「おかえり」
キッチンから返事。
長谷川。
フライパンを傾けて、目玉焼きを皿へ滑らせている。
縁に当てないように、最後だけ少し手首を返した。
こういうところだけ妙に静か。
「もう朝ごはん?」
「腹減ったから」
「何作ってるの?」
「見て分からん?」
「目玉焼きなのは分かる」
「じゃあ聞くなよ」
「他にもあるのかなって」
「朝から会話下手だな、お前」
「うるさ」
汗が冷える前にシャワーへ行こうとしたところで、階段から足音がした。
赤間が降りてくる。
「おはよう」
「おはよ」
片手にマグカップ。
俯いた拍子に暗い髪が頬へ落ちて、空いている手で耳へかけた。
その時、中指の横に小さく硬くなったところが見える。
前に見た。
筆を持つところらしい。
私には手にはない。
足ならあるけど。
「走ってきた?」
「うん」
「今日も?」
「今日も」
「入学式なのに?」
またそれ。
「入学式だから走らない理由ある?」
「ないね」
赤間はそのまま頷いた。
こういうところは楽。
「シャワー行ってくる」
「うん」
*
シャワーを浴びて戻ると、武田もいた。
ソファに座ってスマホを見ている。
「おはよ」
声をかけると、顔を上げた。
「おはよう」
振り向くのに合わせて、淡い桃色の髪が肩の上を滑る。
ゆるく編んであるところだけ、少し遅れて揺れた。
目はまだ眠そうなくらい細いのに、視線だけ妙に強い。
朝から見た目が強い。
でも昨日、ピアノの前に座ってた時は全然違った。
鍵盤に触れてた手だけ、変なくらい静かだった。
今はその指でスマホを動かしてる。
「一橋」
「何?」
長谷川がテーブルを指した。
「朝」
私が買っておいたおにぎりとヨーグルト。
その横に、目玉焼きが一個。
「……これ」
「何」
「私の?」
「違いまーす」
「じゃあ誰の?」
「観賞用」
「またそれ?」
「今日は現代アート」
赤間がテーブルへ寄ってくる。
目玉焼きを覗き込んだ。
「昨日より丸いね」
「赤間、そっち乗るの?」
「事実だから」
長谷川がちょっと嬉しそうにする。
「ほら」
「何がほらなの」
箸を取る。
目玉焼きへ伸ばす。
皿が、すっと逃げた。
「……」
長谷川が自分の方へ引いてる。
「何?」
「何」
「それ私のでしょ」
「観賞用です」
「食べる」
「自分のあるじゃん」
「それも食べる」
「欲張り」
「朝はちゃんと食べるの」
「昨日ポテチ二袋持ってた人が言ってもな」
「関係ないし」
もう一回箸を伸ばす。
また避ける。
反応速い。
こういう時だけ。
「返してよ」
「俺の」
「私のじゃないって言ったじゃん」
「観賞用」
「じゃあ食べないんでしょ」
「まだ見る」
「何分?」
「三十分」
「冷めるじゃん」
「芸術に温度を求めるな」
「赤間」
「何?」
「どう思う?」
赤間は少し考えた。
「食べた方がいいと思う」
「ほら」
長谷川が赤間を見る。
「裏切り!」
「味方になった覚えないけど」
「またそれ!?」
ちょっと面白い。
その時、階段からまた足音がした。
「おはよう」
ジュンだった。
昨日あれだけ遅くまで荷物を触ってたはずなのに、声は普通。
階段を下りながら、長い明るい髪を片側へ流す。
最後の一段で顔を上げると、紫っぽい目に窓の光が入った。
朝なのに全然崩れてない。
ずるい。
というか、あれだけ髪長くて邪魔じゃないのかな。
走ったら絶対邪魔。
「おはよ」
「おはよう」
「おう」
長谷川だけ適当。
ジュンがそっちを見る。
「昨日、あのあと何時に寝た?」
「十一時前」
「早いね」
「お前が遅い」
「仕事ある時は普通だよ」
椅子を引く前に、ジュンが髪を肩の後ろへ払った。
そのまま身体の向きを変えて冷蔵庫へ向かう。
細い。
でも歩いても軸がぶれない。
走る身体じゃない。
それでも姿勢はいい。
ずっと人に見られてると、ああなるのかな。
「一橋さん」
「何?」
「もう走ってきた?」
「うん」
「何時から?」
「六時前くらい」
「……今日、入学式だよね?」
「それみんな言うんだけど」
「私は言ってない」
武田がスマホを見たまま言った。
「思ってはいたけど」
「同じじゃん」
「違う」
ジュンが笑った。
「毎日?」
「だいたい」
「すごいね」
「普通」
少なくとも、私には。
*
結局、目玉焼きは食べた。
長谷川が最後は普通にこっちへ寄こした。
多分、最初からそのつもりだったんだと思う。
だったら、あんなに逃がさなくてもいいのに。
そういうところがガキ。
「観賞用どうしたの?」
ジュンが聞く。
「一橋に破壊されました」
「食べただけじゃん」
「作品だったのに」
「卵でしょ」
「ひど」
口ではそう言いながら、長谷川は空いた皿を重ねていく。
私のも一緒に持とうとしたから、その前に取った。
「何」
「自分でやる」
「えら」
「その言い方やめて」
「成長しましたねー」
「ほんとうざ」
「怖」
またふざけてる。
私は皿を流しまで持っていく。
食べた量はちょうどいい。
おにぎり二個。
ヨーグルト。
卵。
水分も取った。
午前は座ってる時間が長い。
食べすぎて身体が重いのも嫌だし、昼までに空っぽになるのも嫌。
これくらい。
時計を見る。
まだ余裕。
部屋へ戻った。
*
制服に着替える。
シャツ。
スカート。
鏡の前で一回しゃがんでみる。
「……動きにく」
別にスカートが嫌なわけじゃない。
ただ、走る服じゃない。
当たり前だけど。
ローファーはもっと苦手。
足裏が一枚遠くなる感じがする。
黒い髪を手櫛で整える。
顔の横へ落ちてきた毛先を直す。
チョーカーをつける。
鏡の中で首元が締まった。
爪を見る。
少し短い。
昨日切ったから。
ちょっと物足りないけど、まあいい。
記録には関係ない。
バッグを持つ。
書類。
財布。
スマホ。
水。
ある。
今日は新しいクラス。
入学式。
高校生活の最初の日。
そういうのも、一応楽しみではある。
どんな子がいるのかとか。
先生とか。
部活とか。
でも時計を見ると、結局そっちへ戻る。
十九日。
今週は上げすぎない。
来週からもう少し。
その次。
そこで一回ちゃんと走る。
甘奈が何秒出してくるかは知らない。
でも、遅くなってるわけがない。
だったら私も。
「よし」
部屋を出た。
*
下へ降りると、長谷川はまだ制服じゃなかった。
Tシャツのまま、食器を拭いている。
こっちが階段を下りきる間に、一枚拭いて、棚へ戻して、布巾の端まで揃えて畳んだ。
やっぱり変。
「まだ着替えてないの?」
「今から」
「遅くない?」
「お前が早い」
「私もう行くよ」
「もう?」
「グラウンド見たい」
長谷川の手が止まった。
「入学式の日に?」
「何?」
「いや」
口元が少し緩む。
「一橋だなと思って」
「それ朝も言った」
「便利だから」
「それ私のなんだけど」
「証拠は?」
「そういうとこ!」
笑い声を背中で聞きながら、玄関へ行く。
ローファーを履く。
やっぱり好きじゃない。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
赤間。
「気をつけてね」
ジュン。
「ん」
武田。
最後に、
「走んなよ」
長谷川。
振り返る。
キッチンからこっちを見てる。
「走らないし」
「本当か?」
「制服で走るわけないじゃん」
「一橋ならやりそう」
「やらないって!」
また笑ってる。
「何笑ってるの」
「別に」
「それも私の」
「知らなーい」
「ほんとうざ」
玄関を開ける。
冷たい朝の空気が頬に当たった。
脚にはちょうどいい。
外へ出る。
ドアが閉まる。
一人。
今日から高校生。
新しい学校。
新しいクラス。
新しい部活。
多分、今日はそういうものを楽しみにする日なんだと思う。
私だって、別に楽しみじゃないわけじゃない。
ただ。
最初の記録会まで、あと十九日。
甘奈は、多分もう走ってる。
だったら。
私も、止まってる暇はない。




