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第八話

制服は、思っていたより悪くなかった。

 鏡の前で襟を整える。

 一回。

 少し離れて見る。

 もう一回だけ触る。

 これ以上やると、逆に触った感じが出る。

 やめた。

 髪は昨日よりちゃんと時間をかけた。

 長いから、何もしないと何もしてないのが分かる。

 毛先だけ軽く整えて、前は残す。全部後ろへ流すより今日はこっち。

 仕事なら、ここから誰かが触る。

 前髪をもう少し薄くしたり、毛先を巻いたり、顔の横に一本だけ残したりする。

 多分今日なら、耳を出した方が制服には合うって言う人もいる。

 それも分かる。

 でも私はこっちがいい。

 だから今日はこれ。

 机の上に置いてあった小さなアクセサリーを一度手に取って、戻した。

 入学式だし、なくていい。

 何もつけない方を選ぶ日もある。

 最後に鏡を見る。

 紫がかった目の下に、寝不足が少しだけ残っていた。

 昨日寝たの、遅かったし。

 でもまあ。

 仕事じゃない。

 このくらいならいい。

 部屋を出た。

     *

 下に降りた時、長谷川くんはまだ制服じゃなかった。

 キッチンの前で食器を拭いてる。

 白いTシャツに部屋着。

 昨日も思ったけど、この人、家では本当に普通。

 というか、普通よりちょっと子供っぽい。

「まだ着替えてないの?」

「今やろうと思ってた」

「遅くない?」

「まだ余裕あるだろ」

「あるけど」

 長谷川くんは皿を棚へ戻した。

 置き方だけ妙に静か。

 そのまま布巾を畳む。

 端と端を合わせる。

 そこまでやるんだ。

 昨日もそうだった。

 喋ってる時は適当なのに、物の扱いは適当じゃない。

 多分この人、自分の中で分けてる。

 何を雑にしてよくて、何を雑にしちゃ駄目なのか。

 本人は考えてなさそうだけど。

 リビングでは、なおちゃんがマグカップを持っていた。

 今日もほとんど飾ってない。

 制服もそのまま。

 髪も、ちゃんと整えてはいるけど、それ以上は触ってない。

 何かを足した形じゃない。

 でも、何も考えてない感じもしない。

 こういう人もいる。

 足さないことを選ぶ人。

 その隣では、ハル――

 まだ、そう呼んでいいかは分からない。

 晴瑠奈がソファに座ってスマホを見ていた。

 顔を上げる。

 淡い桃色の髪が肩から少し滑った。

 編み込んだところだけ、ほかより重そうに遅れて揺れる。

 今日もやってる。

 昨日もだった。

 あれは寝て起きたら勝手にできてる髪じゃない。

 ちゃんと自分でやってる。

 チョーカーもつけてる。

 見た目なんてどうでもいい人じゃないんだ。

「何?」

 見てたのが分かったらしい。

「別に」

「そう」

 視線がスマホへ戻る。

 女子には普通。

 長谷川くんを見る時だけ、今も少し冷たい。

 分かりやすい。

 そこへ階段から足音がした。

 軽い。

 早い。

 最後の二段だけ、ほとんど間を置かずに下りてくる。

 彩愛だった。

 制服姿になっている。

 黒いボブが、最後の一段で頬の横へ跳ねた。

 昨日までスポーツウェアとか大きめのTシャツばっかり見てたから、制服だとちょっと違って見える。

 でも首元には黒いチョーカー。

 そこは残すんだ。

 手にバッグを持ち直した時、爪が見えた。

 短い。

 でも何もしてないわけじゃない。

 色はちゃんとある。

 服そのものにはそんなに興味なさそうなのに。

 爪と首元は残す。

 走るのに邪魔になるところは削って、邪魔にならない好きなものは残してるのかな。

 もしそうなら、結構分かりやすい。

「まだ着替えてないの?」

 彩愛が長谷川くんを見る。

「今から」

「遅くない?」

「お前が早い」

「私もう行くよ」

「もう?」

「グラウンド見たい」

「入学式の日に?」

「何?」

 長谷川くんの口元が緩んだ。

「いや。一橋だなと思って」

「それ朝も言った」

「便利だから」

「それ私のなんだけど」

「証拠は?」

「そういうとこ!」

 朝からこれ。

 昨日も思ったけど、距離が変。

 数日前に会った人同士の喋り方じゃない。

 仲いいんだ。

 ……って言ったら、多分二人とも嫌な顔しそう。

 彩愛がバッグを肩へかける。

 その時、チョーカーが少しずれた。

 指で直す。

 やっぱり外さない。

「彩愛」

 呼んでみた。

「何?」

 普通に振り向く。

 嫌そうじゃない。

「ハンカチ」

 テーブルの端を指す。

「あ」

 置きっぱなしだったらしい。

「ありがと」

「うん」

 じゃあ、これでいい。

 一橋さん、より近い。

 彩愛ちゃん、だと少し違う。

 彩愛。

 多分これ。

     *


 彩愛ちゃんが首元へ右手を上げた。

 親指の腹が黒い帯の下へ入る。

 人差し指が上から挟む。

 中指は第二関節だけ一緒に曲がった。

 薬指はほとんど動かない。

 小指だけ、掌から少し離れている。

 引き上げる時、手首はあまり曲がらなかった。

 肘が外へ開く。

 その分、右肩がほんの少し後ろへ引ける。

 首は反対にわずかに伸びた。

 顎の下の皮膚が薄く張って、喉の中央に落ちていた影が消える。

 右側の首筋だけ線が強くなる。

 胸鎖乳突筋。

 上は耳の下。

 下は鎖骨へ落ちる。

 指を離す。

 黒い帯が元の位置へ戻る。

 押されていた皮膚はすぐには戻らなかった。

 下側に細い赤みが残る。

 ほんの少し。

 多分、十秒もしたら分からなくなる。

 描くなら、チョーカーを黒く塗るだけじゃ足りない。

 首に乗っているんじゃなくて、巻かれている。

 その差は皮膚の沈み方に出る。

 黒のすぐ下に少しだけ明るいところを残して、その下へ薄く赤を入れる。

 多分その方が近い。

 バッグを肩へかける。

 右肩だけ少し上がった。

 でも重心はほとんど変わらない。

 最後の階段を下りた時もそうだった。

 右足が床につく。

 踵。

 外側。

 母趾球。

 体重が乗り切る前に左脚が前へ出る。

 膝の沈みは浅い。

 骨盤もほとんど逃げない。

 身体の上下動が少ない。

 髪の方が身体より大きく動いていた。

 黒い毛先だけ一度外へ振れて、彩愛ちゃんが止まってから頬の横へ戻った。

 速く動く人の身体だと思う。

 脚だけ描いても、多分違う。

 動いている脚より、動かない上半身をちゃんと描かないと彩愛ちゃんにはならない。

「それ私のなんだけど」

 彩愛ちゃんが言った。

 長谷川くんが笑う。

 先に右の口角。

 左はほんの少し遅い。

 頬の上側が持ち上がって、鼻翼の脇から口角へ落ちていた線が深くなる。

 下瞼が押される。

 目の縦幅が狭くなる。

 眉はほとんど動いていない。

 顎は開かない。

 少しだけ後ろへ引く。

 黙っている時より、顔の下半分が短く見えた。

 不思議。

 目の形そのものはそんなに変わってないのに、急に幼くなる。

 右の頬の方が少し高い。

 多分、笑い始めが右だから。

 描くなら目を垂らすんじゃない。

 頬。

 顎。

 鼻の横の線。

 そっちを動かした方が近い。

 長谷川くんは食器を拭く時も面白い。

 左手で皿を支えている。

 親指は表。

 人差し指と中指が裏。

 薬指は縁に少し触れて、小指は離れている。

 布巾を動かす右手は、指より手首が動く。

 皿を回す時だけ左の前腕に筋が浮く。

 手の甲では人差し指と中指へ伸びる腱が一度出て、力を抜くと消える。

 右肩はほとんど動かない。

 肘も大きくは開かない。

 無駄が少ない。

 でも動きが速いわけでもない。

 丁寧。

 彩愛ちゃんと喋っている時の顔と手が合ってない。

 描くなら、その方が面白いかもしれない。

 笑ってる顔だけ描くより、皿を持つ指を一緒に入れたい。

「何?」

 晴瑠奈ちゃんが言った。

 首が先に回った。

 頭が動いて、髪は少し遅れる。

 細い毛は先に動いて、編んである束だけ振れ幅が小さい。

 重さが違うから。

 顔がこっちを向く。

 でも身体はまだ完全には向いていない。

 左肩はソファの背に近いまま。

 右手にはスマホ。

 親指の腹だけ画面から離れている。

 人差し指は背面へ触れていて、中指と薬指で端を支えている。

 声を出す直前、下顎が少しだけ落ちた。

 唇の中央が先に離れる。

 口角は動かない。

 喉の前が一度上がる。

 顎の下の柔らかいところが張って、左の首筋に細い線が一本出た。

 声が終わる。

 線が消える。

 鼻から息が抜ける。

 肩は動かない。

 目だけがこっちを見てる。

 怒ってない。

 でも長く話す形でもない。

 今は一言で終わってほしいんだと思う。

 顔だけなら分かりにくい。

 描くなら、スマホから少し浮いた親指を残した方がいい。

 続きをするつもりの手。

 それがあれば、多分伝わる。

 ジュンちゃんが何か言った。

 私はそっちを見る。

     *

「ハルちゃんは?」

 言った瞬間、晴瑠奈が顔を上げた。

「……ハルちゃん?」

 やっぱりそこに引っかかった。

「嫌?」

「別に」

「じゃあハルちゃん」

「好きにしたら」

 嫌じゃないなら、これでいい。

 なおちゃんは、なおちゃん。

 最初からそれが一番しっくりくる。

 長谷川くんは長谷川くん。

 下の名前で呼ぶ感じじゃない。

 少なくとも今は。

「何見てんの?」

 長谷川くんがなおちゃんに言った。

「手」

「俺の?」

「うん」

「なんで?」

「さっき皿拭いてたから」

「……それ理由になってる?」

「私の中では」

「そうかよ」

 長谷川くんが諦めた。

 なおちゃんは時々、人を見る時間が長い。

 顔じゃなくて、手とか首とか。

 昨日もそうだった。

 私の髪も見てた。

 何を見てるのかは、まだよく分からない。

 彩愛が玄関へ向かう。

「行ってきます」

「いってらっしゃい」

 なおちゃん。

「気をつけてね」

 私。

「ん」

 ハルちゃん。

 最後に長谷川くんが、

「走んなよ」

「走らないし」

「本当か?」

「制服で走るわけないじゃん」

「一橋ならやりそう」

「やらないって!」

 また始まった。

 彩愛が玄関を開ける。

 冷たい空気が一度だけ入ってくる。

「じゃね」

「うん」

 ドアが閉まった。

 少し静かになる。

「……朝から元気だね」

 私が言う。

「朝から走ってるからな、あいつ」

 長谷川くんが普通に返した。

「毎日?」

「多分」

「へえ」

 走る人なんだ。

 いや、それは見れば分かる。

 脚もそうだし、立ち方もそう。

 でも、朝から走るくらい好きなのは知らなかった。

 昨日までの彩愛は、長谷川くんとクッションを取り合ってるか、何か食べようとしてるか、床に何か置いてるかだった。

 人って、見えてるところだけだと結構違う。

「私も行く」

 ハルちゃんが立ち上がった。

 スマホをバッグへ入れる。

「早いね」

「別に普通」

「一緒に――」

 言いかけて、やめた。

 長谷川くんがまだ部屋着だったから、じゃない。

 ハルちゃんが一人で行くつもりの顔をしていたから。

「気をつけてね、ハルちゃん」

 もう一度呼ぶ。

 今度は一瞬だけこっちを見た。

「……ジュンもね」

 訂正されない。

 よし。

 ハルちゃんが靴を履く。

 長谷川くんは何も言わない。

 追いかけもしない。

 「俺ももう行くから待て」とか、「同じ学校なんだから一緒に行けばいいじゃん」とか。

 そういうのもない。

「いってら」

 それだけ。

「ん」

 ハルちゃんもそれだけ。

 ドアが閉まる。

 なんとなく、楽だと思った。

 同じ家に住んでるから。

 同じ学校だから。

 入学式だから。

 そういう理由で、同じ行動をすることを決められない。

 一緒に行きたかったら一緒に行けばいい。

 行きたくなければ、一人で行けばいい。

 それだけ。

「東江、時間平気?」

 長谷川くん。

「まだ平気」

「そ」

 それだけだった。

 やっぱり楽。

 なおちゃんがマグカップを流しへ持っていく。

「なおちゃんは?」

「もう少ししたら行く」

「そっか」

 私はテーブルの上のスマホを見る。

 時間。

 まだ余裕。

 でも、そろそろ出てもいい。

「長谷川くん、着替えないの?」

「今からだって」

「さっきも言ってたよ」

「今からの範囲が広いんだよ」

「便利だね」

「だろ」

 何がだろ、なんだろう。

     *

 五分もしないうちに、長谷川くんが戻ってきた。

 制服。

「早」

「俺を何だと思ってんだ」

「着替えるの遅い人」

「今ので撤回しろ」

「考えとく」

 階段を下りてくる。

 そこで初めて、ちゃんと制服姿を見る。

 別に崩してない。

 シャツも普通。

 襟元も普通。

 何か目立つ小物をつけているわけでもない。

 でも、適当に選んだサイズじゃない。

 肩はちゃんと合ってる。

 上着の中で身体が余ってないし、きつくもない。

 細く見えるけど、肩は思ってたよりある。

 昨日Tシャツだった時もそうだった。

 細いというより、余計なところがない。

 パンツの丈も中途半端じゃない。

 靴も。

 普通だけど、普通なら何でもいいって選び方じゃない。

「長谷川くんって服好き?」

 聞いた。

「は?」

 足が止まる。

「何、その反応」

「いや。急だなと思って」

「好き?」

「まあ、好きだけど」

 やっぱり。

「帽子とかも?」

「好き」

「いっぱい持ってそう」

「ある」

「へえ」

「なんで分かった?」

「なんとなく」

 本当はなんとなくじゃない。

 服に興味がない人は、制服でももう少し違う。

 サイズを選ばない。

 靴も適当。

 何も足さないことと、何も考えてないことは別。

「東江も好きそうだな」

「好きだよ」

「だろうな」

「何、その言い方」

「見りゃ分かる」

「何見て分かったの?」

「昨日の服」

「どこ」

「全体」

「雑」

「いいだろ、分かってんだから」

 やっぱり雑。

 でも、たぶん見てはいる。

 この人の見方は、私とは違うけど。

「私、先行くね」

「おう」

「なおちゃんは?」

「あとで行く」

「じゃ、学校で」

「うん」

「いってら」

 長谷川くんが言う。

 誰も一緒に行こうとは言わない。

 私は自分で靴を履いた。

「行ってきます」

     *

 外へ出る。

 朝の空気がまだ少し冷たい。

 昨日まで仕事に行く時は、この時間に家を出ることもあった。

 でも今日は違う。

 制服。

 学校。

 それだけで、周りから向けられる視線の種類も少し変わる。

 角を曲がったところで、同じ制服の子が二人いた。

 一人がこっちを見る。

 一秒。

 外す。

 もう一回。

 今ので気づいた。

 隣の子に何か言う。

 今度は二人とも見る。

 こっちは教えられてから。

 まあ、そうなるよね。

 そのまま歩く。

 別に嫌じゃない。

 見られること自体は、もう慣れてる。

 撮影現場なら一日中見られる。

 スタッフにも。

 カメラにも。

 共演者にも。

 通りすがりの人にも。

 何年もやってれば、いちいち気にしてられない。

 でも見方はなんとなく分かる。

 知ってる顔を確認する視線。

 服を見る視線。

 名前を思い出そうとしてる視線。

 ただ目が合っただけ。

 このへんは全部違う。

 前から来た男子が、一度こっちを見て、そのまま通り過ぎた。

 これは多分知らない。

 後ろの女子は三回見た。

 多分知ってる。

 スマホを持ってる手が少し上がる。

 画面がこっちを向きそうになった。

 私は歩く位置を少し変えた。

 街路樹が間に入る。

 そのまま通り過ぎる。

 撮るなら言ってほしい。

 別に写真そのものが嫌なわけじゃない。

 仕事なら、一日何百枚でも撮られる。

 自分でそこに立ってるから。

 でも今は学校へ行ってるだけ。

 今の私は、その子のカメラに入ることを選んでない。

 だから嫌。

 それだけ。

 少し先で、

「あの」

 後ろから声がした。

 振り返る。

 さっきとは別の女の子。

 同じ制服。

 緊張してる。

「あの、東江ジュンさんですよね」

「うん」

「去年のドラマ、見てました」

「あ、ほんと?」

「はい。あの……妹役の」

「うん」

「あれ、すごく好きでした」

「ありがとう」

 これは嬉しい。

 ちゃんと。

 ドラマを見た。

 その役を覚えてる。

 好きだった。

 私が出したものを、その子が見て、好きだと思ってくれた。

 それは今でも嬉しい。

「同じ学校でびっくりして」

「私も今日初めて来たから、まだ何も分かってないけどね」

 少し笑う。

 女の子も笑った。

「じゃ、また」

「はい!」

 走って友達のところへ戻っていく。

 その背中を見送る。

 こういうのは好き。

 見られることが好きなのか、と聞かれたら、たぶん違う。

 見られない仕事を選んだことはないから、嫌いでもない。

 ただ。

 自分が見せたものを見てもらうのと。

 勝手に見られるのは。

 同じじゃない。

     *

 学校へ近づくにつれて、同じ制服が増えてきた。

 みんな同じなのに、結構違う。

 鞄。

 靴。

 髪。

 靴下。

 ボタン。

 袖。

 ほんの少しずつ。

 一番分かりやすいのは髪。

 入学式だからきっちりしてる子。

 普段からこうなんだろうなって子。

 多分今日だけ頑張った子。

 自分でやった感じの子。

 誰かにやってもらった感じの子。

 どれがいいとかじゃない。

 違うだけ。

 前を歩いてる子は、制服そのものより鞄が好きなんだと思う。

 小さなチャームが三つ。

 全部色が違うのに、金具だけ同じ。

 多分そこは揃えた。

 その隣の子は何もつけてない。

 でもローファーだけ新品じゃない。

 履き慣れたものを選んだのかもしれない。

 そういうのを見るのは好き。

 人が自分で選んだところは、その人が出る。

 校門が見えてきた。

 人が多い。

 その中に、見たことのある顔も増える。

 あ。

 少し前を歩いている女の子。

 名前は知ってる。

 一度だけ同じ現場になった。

 去年、飲料のCMに出てた。

 今日は髪を低い位置でまとめてる。

 仕事の時よりずっと薄い。

 顔じゃない。

 雰囲気が。

 肩が少し内側。

 視線も上げない。

 前から名前を呼ばれても、軽く会釈するだけ。

 今は多分、話しかけられたくない。

 こっちにはまだ気づいてない。

 じゃあ、いいか。

 追いつこうとはしなかった。

 別に仲が悪いわけじゃない。

 話したくないわけでもない。

 でも今、向こうが誰かと話すことを選んでないなら、それでいい。

 しばらくして、その子が横を見る。

 目が合った。

 一瞬だけ目が大きくなる。

 そのあと、小さく頭を下げた。

 私も同じくらい下げる。

 それだけ。

 ちょうどいい。

 さらに先では、知らない男子が何人かに囲まれていた。

 でも顔は知ってる。

 配信ドラマで見た。

 あの子は逆。

 笑ってる。

 ちゃんと相手の方を向いてる。

 名前を呼ばれるたびに返してる。

 今はそれでいいんだと思う。

 見られ方にも、人によって好き嫌いがある。

 同じ人でも日によって違う。

 仕事なら見てほしい。

 休みなら見ないでほしい。

 それくらい普通。

 なのにたまに、「芸能人なんだからいいでしょ」と言う人がいる。

 あれはよく分からない。

 仕事で着る衣装を、私服でも着ると思ってるのかな。

 似合うとか似合わないじゃなくて。

 今日はそれを選んでない。

 ただそれだけなのに。

     *

 校門を入る。

 広い。

 最初に思ったのはそれだった。

 校舎も。

 人も。

 視線も。

 多い。

 また何人かがこっちを見る。

 さっきより明らかに知ってる人が多い。

 まあ、芸能系に力を入れてる学校なんだから当たり前か。

 私を知ってる子がいるように、私も見覚えのある顔が何人もいる。

 雑誌。

 CM。

 舞台。

 ドラマ。

 ダンス。

 名前までは知らないけど、顔だけ見たことある子もいる。

 逆も多分ある。

 ここでは、それがそんなに珍しくないのかもしれない。

 少しだけ楽かも。

 有名な人が一人いる場所より、有名な人が何人もいる場所の方が、視線は散る。

 全部私に集まらない。

 それは助かる。

「クラス分け、あっちだって」

 誰かの声が聞こえた。

 人の流れについていく。

 校舎の前に、大きな掲示が出ていた。

 人だかり。

 みんな自分の名前を探してる。

 見つけて笑う子。

 隣の友達と同じだったらしく肩を叩く子。

 別だったのか、ちょっと嫌そうな顔をする子。

 名前を見る前から楽しそう。

 私は少し後ろで待つ。

 今入っても見えない。

 前の列が動く。

 もう一歩。

 誰かがこっちに気づいた。

 でも、すぐ掲示へ戻る。

 それでいい。

 ようやく前が空いた。

 一覧を見る。

 一組。

 二組。

 三組。

 順番に目を動かす。

 自分の名前だけ探す。

 知ってる名前がいくつか目に入った。

 でも今はいい。

 先に自分。

 九組。

 十組。

 その次。

 あった。

 東江ジュン。

 1年11組。

 十一組。

 その数字だけ覚えて、私は掲示から離れた。

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