第九話
教室は、思っていたよりうるさかった。
別に悪い意味じゃない。
入学式の前なんだから、こんなものだと思う。まだ誰が誰かも分からないのに、近くの席同士で名前を聞いたり、中学がどこだったか聞いたり、部活の話をしたりしている。
私の前の席の子も、さっきからよく喋る子だった。
「武田さん、その髪かわいいね」
「ありがと」
「編んでるの自分で?」
「うん。慣れたらそんな時間かかんないよ」
「え、すご。私絶対無理」
そう言って、女の子が笑った。
私も少し笑う。
話しやすい。
別に、知らない人と話すのが嫌いなわけじゃない。
「色も綺麗だよね。染めてる?」
「これは染めてる」
「やっぱそうなんだ。めっちゃ似合ってる」
「ありがと」
横の席の子も会話に入ってきた。
その子が机に肘をついて、こっちを見る。
「チョーカーもかわいい」
「あ、これ?」
「うん」
指で軽く触れる。
「普通に好きでつけてるだけ」
「いいな。うち、中学アクセ全部駄目だったからさ」
「私も駄目だったよ」
「じゃあ高校デビューじゃん」
「それは違う」
「えー?」
また笑う。
その時、後ろから男の声が入った。
「武田さんって、それ地毛じゃないんだ?」
椅子を少し引いた。
振り返る。
男が一人、後ろの机に手をついていた。
近い。
「違うけど」
「あ、そうなんだ。すげえ自然だから」
「そう」
さっきまで喋っていた子が、ほんの少しこっちを見た。
多分、声が変わったのが分かったんだと思う。
男はそれ以上何も言わず、「そっか」とだけ返して、自分の席に戻った。
机から手が離れる。
そこでようやく、少し楽になった。
「……ごめん。嫌だった?」
前の席の子が、小さい声で聞いてきた。
「何が?」
「今の」
「別に。あの人が悪いとかじゃないよ」
ただ男だっただけ。
それを言うのも面倒だから、言わない。
「そう?」
「うん」
机を元の位置まで戻した。
前の方では、また別の話題が始まっていた。
「ねえ、十一組すごくない?」
その言葉だけで、何の話か大体分かった。
「あー、芸能の?」
「そうそう。なんかモデルの子とか俳優の子めっちゃいるらしいよ」
「知ってる子いた?」
「いるいる。ほら、去年ドラマ出てた——」
名前がいくつか出る。
聞いたことがある名前もあった。
テレビを全然見ないわけじゃない。むしろ普通には見る。
顔まで分かる人もいる。
「東江ジュンもいるんでしょ?」
「あ、それ聞いた」
手元のスマホを触る指が止まった。
まあ、そうなるよね。
昨日の夜。
玄関に立っていた女の子。
長い明るい金髪。帰ってきたばかりなのに、立ち方が妙に綺麗だった。
顔を見た瞬間には分かった。
本物じゃん、とは思った。
「同じ学年なのすごくない?」
「十一組でしょ?」
「見に行きたい」
「やめなよ、普通に迷惑じゃない?」
「見るだけ見るだけ」
教室のあちこちで似たような話をしている。
多分、十一組は今日ずっとこんな感じなんだろう。
ジュン本人は慣れてそうだけど。
「八組もやばいらしいよ」
今度は少し離れたところから声がした。
八組。
耳に入る。
「陸上の一橋彩愛いるって」
顔を上げそうになって、やめた。
彩愛?
「誰?」
「え、知らない? 短距離の。全国めっちゃ上の子」
「あー、陸上やってる子が騒いでた」
「中学の時から速いやつでしょ?」
……あの彩愛?
朝から走って、帰ってきたらリビングに物を置きっぱなしにして、長谷川と目玉焼きで揉めてた、あの?
「二番手とかじゃなかったっけ」
「そう。でも一位の子が化け物なんでしょ」
「何それ」
彩愛の顔が浮かぶ。
今朝も、こっちが起きるよりずっと前に外へ出ていた。
戻ってきた時には、別に疲れた顔もしていなかった。
そういうことなんだ。
全国。
知らなかった。
いや、陸上を本気でやってるのは見れば分かる。
分かるけど。
そこまでとは思ってなかった。
「十組に赤間なおもいるよね」
今度は別方向。
また手が止まった。
なおまで?
「美術の?」
「そう。なんか賞取ってる子」
「中学生のやつでしょ? 名前見たことある」
「絵うまい人ってああいう学校行くんだ」
昨日、皿を持ちながら人の手ばっかり見てた子。
ピアノの話になると、急に質問が細かくなる子。
あれも外ではちゃんと名前が通ってるんだ。
何なの、あの家。
ジュンは分かる。
見れば分かるし、知ってた。
彩愛も、まあ陸上を見れば納得はできる。
なおも……そう言われたら、あの観察の仕方は普通じゃない。
それでも、変な感じだった。
家では、ただ同じキッチンを使って、同じリビングにいる人たちなのに。
学校に来たら、それぞれ別のところから名前が聞こえる。
「四組もいるじゃん」
今度は、男子の声だった。
さっきとは違う。
少し遠い。
「誰?」
「長谷川鳴美」
一瞬、本当に同姓同名かと思った。
「……マリノスの?」
「そう。ジュニアユース」
目線だけ、そっちへ向ける。
男子が三人くらいで話していた。
一人はスポーツバッグを足元に置いている。
「え、マジ?」
「クラス表にあった」
「でもあいつ、ユース上がるやつじゃなかった?」
「怪我したって聞いた」
「年代別入ってたよな?」
「入ってた」
年代別。
何の、とは思わなかった。
サッカーの話に決まってる。
だから余計に意味が分からなかった。
長谷川鳴美。
左膝。
去年の十月。
サッカーをやっていた。
手術は二月。
そこまでは昨日聞いた。
でも。
マリノス。
年代別代表。
代表?
あの長谷川が?
「なんで伊吹花なん?」
「それ俺も思った。しかも四組って普通科じゃん」
「スポーツ推薦じゃないってこと?」
「怪我したからじゃね?」
「いやでも、普通に受験したってこと?」
話は勝手に続いていく。
私はスマホを伏せた。
別に聞きたいわけじゃない。
聞こえるだけ。
マリノスがどれくらいすごいのか、詳しくは知らない。
でも名前くらいは知ってる。
年代別代表なんて、もっと分かる。
昨日まで私の中では、サッカーをやってた、膝を怪我した、妙に家事ができるクソガキだった。
いや、今もそれは変わらない。
変わらないはずなのに。
「あいつ、この学校でサッカーやるのかな」
「復帰したらじゃね?」
「部活入るなら普通に戦力どころじゃないだろ」
……あいつが?
頭の中で、今朝の顔が浮かぶ。
皿を拭きながら彩愛に何か言って、馬鹿みたいに笑ってた顔。
どう考えても代表と繋がらない。
「武田さん?」
「ん?」
前の子が振り返っていた。
「もう廊下並ぶって」
「あ、ごめん」
周りを見る。
いつの間にかみんな立ち始めていた。
椅子を机の中へ押し込む。
廊下へ出ると、隣の四組も同じように列を作っていた。
人が多い。
声も多い。
靴底が床を擦る音。先生が前から何か言っている声。後ろで笑う男子。鞄を壁際へ寄せる音。
少しだけ壁側に寄った。
五組の列が整う。
その向こう。
四組。
探すつもりはなかった。
でもすぐ見つかった。
長谷川は、男子と喋っていた。
相手も同じくらいの背。
何か言われて、長谷川が笑う。
いつもの顔だった。
家で皿を洗ってる時と同じ。
全然、代表っぽくない。
何が代表っぽいのかも知らないけど。
隣の男子が、長谷川の肩を軽く叩いた。
長谷川は普通に返して、また何か言う。
すでに仲良くなってる。
早。
その時、長谷川がこっちを見た。
目が合った。
ほんの一瞬。
私は先に前を向いた。
別に何もない。
ただ。
さっきまで教室で聞いていた名前と、家で見ていた長谷川が、まだうまく同じ人にならなかった。
*
武田がこっち見てた。
と思ったら、すぐ前向いた。
何だ。
「長谷川」
「ん?」
「お前今、五組の方見てたろ」
一個後ろに並んでる福山が、すぐ食いついてきた。
「見てた」
「誰?」
「同居人」
「は?」
さっき聞いたくせに。
「だから、同じ家のやつ」
「今の?」
「今の」
「ピンクの髪の?」
「そう」
福山が五組の方へ首を伸ばそうとする。
「見るなよ」
「いや見るだろ」
「本人にバレたら面倒だぞ」
「何で?」
「俺のこと嫌いだから」
「……あー」
さっき教室でも、その話はした。
俺が学校のシェアハウスに住んでること。
住んでるのが俺以外全員女子なこと。
そこまでは福山、かなり羨ましがってた。
男が俺一人だと言った時なんか、普通に「死ね」って言われた。
別に死ぬ気はない。
「でもさ」
「何」
「やっぱ羨ましいって」
「まだ言ってんのか」
「女子四人だろ?」
「そうだけど」
「いいじゃん」
「いいだろ」
「うっざ」
福山が俺の背中を軽く小突いた。
振り返らずに笑う。
「ざんねーん」
「腹立つわ、お前」
「知らん」
前の列が少し詰まった。
一歩だけ進む。
左膝。
問題なし。
立ってるだけならどうでもいい。
体育館まで階段もないし、このままでいい。
「でも、お前が思ってる感じではないぞ」
「何が」
「生活」
「そりゃ生活はするだろ」
「一人、リビングめちゃくちゃ散らかす」
福山が少し黙った。
「……まあ」
「片付けてもまた散らかす」
「あー」
声がちょっと落ちた。
「さっきの武田は、俺のこと普通に嫌い」
「それは聞いた」
「必要ない時は話しかけんなって言われてる」
「きつ」
「別に。話しかけなきゃいいだけだろ」
「いやまあ、そうだけど」
福山の声が微妙になる。
何がそんなに引っかかるのかはよく分からない。
言われた通りにすればいいだけだ。
「あと一人、たまに人のことめちゃくちゃ見てる」
「何それ」
「知らん。絵描くやつだからじゃね」
「怖くない?」
「別に悪いやつじゃない」
「その説明、全然安心できん」
「そうか?」
「そうだろ」
前で先生が「もう少し詰めて」と言った。
一歩。
福山も後ろからついてくる。
「もう一人は?」
「仕事であんまいない」
「仕事?」
「モデルとか俳優とか」
「は?」
「あれ、言ってなかったっけ」
「聞いてない」
「東江ジュン」
一秒くらい無言。
「……東江ジュン?」
「うん」
「十一組の?」
「多分」
「多分って何だよ」
「今日クラス知ったし」
「いや、そうじゃなくて」
福山が声を落とした。
「お前、東江ジュンと住んでんの?」
「そうだけど」
「マジで?」
「何回聞くんだよ」
「いや、それは聞くだろ!」
前のやつが振り返った。
福山が小さく「ごめん」と言う。
俺はちょっと笑った。
「お前さあ」
「何」
「それ最初に言えよ」
「聞かれてない」
「女子四人って聞いた時点で言えよ!」
「なんでだよ」
「なんでって……」
福山が言葉に詰まった。
その顔がおもしろい。
「いいだろ」
「うわ、やっぱムカつく」
「ざんねーん」
「お前ほんと性格悪いな」
「今知った?」
「入学初日に知りたくなかったわ」
また前が動く。
列が少しずつ体育館の方へ進み始める。
五組も同じ。
横を見る。
武田は女子二人と何か喋っていた。
さっき教室にいた時もそうだったけど、普通に喋るんだな。
相手の女子が何か言った。
武田が笑った。
へえ。
家じゃほとんど見ない顔。
でも別に不思議でもない。
俺がいる時だけああなるってことは、やっぱ男子が駄目なんだろう。
なら今まで通りでいい。
必要な時だけ話す。
近寄りすぎない。
それで困ってない。
「長谷川」
「何」
「今また見てた」
「見てた」
「だから誰なんだよ」
「さっき言っただろ。武田」
「いや、めっちゃ普通に笑ってるじゃん」
「そうだな」
「お前ほんとに嫌われてんの?」
「多分」
「多分?」
「必要ない時話しかけんなって言われてるんだぜ?」
「それは嫌われてるな」
「だろ?」
別に確認することでもない。
福山が少し考える。
「でもお前、それで普通に同じ家住めんの?」
「住んでるけど」
「気まずくない?」
「別に」
「……へえ」
「何だよ」
「いや」
福山が何か言いかけて、やめた。
よく分からない。
体育館の入口が近づく。
靴のまま入るタイプらしい。
床は滑りそうでもない。
入口に段差もほとんどない。
助かる。
今の膝で困るほどじゃないけど、わざわざ余計な段差があるよりはない方がいい。
列が止まった。
前方から先生が何か指示してる。
少し時間がかかりそうだ。
「てかさ」
福山がまた話し始める。
「シェアハウスって風呂どうしてんの?」
「順番」
「決まってる?」
「完全には。被ったら話す」
「洗面所は?」
「朝は適当にずらしてる」
「飯は?」
「一緒の時もある」
「誰作るの?」
「俺が作る時もある」
「お前作れんの?」
「レシピ見れば」
「女子四人に飯作ってんの?」
「その言い方やめろ」
「いや事実じゃん」
「全員に毎日作ってるわけじゃねえよ」
「でも作る時あるんだろ?」
「ある」
福山が黙った。
また羨ましがるかと思った。
「……それは普通にだるくない?」
「何が?」
「五人分だろ?」
「作るなら量増えるだけだし」
「いや洗い物も増えるじゃん」
「食ったやつにやらせる」
「あ、それはやらせるんだ」
「当たり前だろ。何で俺が全部やるんだよ」
「そこは普通なんだな」
「何だと思ってんだ」
「なんか今、一瞬お母さんみたいだった」
「殴るぞ」
「はいはい」
福山が笑う。
列がまた動いた。
体育館の中に入る。
空気が少し変わる。
広い。
声が天井に上がって、少し遅れて返ってくる。
クラスごとに椅子が並んでいた。
前後の間隔はそんなに狭くない。
座る時に膝をぶつけることもなさそうだ。
左足を少し前に出して座る。
問題なし。
福山が隣に座った。
「なあ」
「まだあるのか」
「ある」
「何」
「女子の部屋とか入れる?」
「入らん」
「一回も?」
「用ないし」
「でも呼ばれたら?」
「呼ばれたら聞く」
「何を」
「入っていいか」
「……そこ聞くんだ」
「聞くだろ」
「まあ、そうか」
福山が前を向いた。
少し間が空く。
「着替えとかもあるもんな」
「あるだろ」
「風呂上がりとか」
「あるだろ」
「洗濯とか」
「あるだろ」
「……あー」
さっきからこいつ、「あー」が増えてる。
「何だよ」
「いや」
「羨ましいんじゃなかったのか」
「羨ましいは羨ましい」
「どっちだよ」
「でも思ってたより面倒くさそう」
「だから言っただろ」
「いや、もっとこう……」
「何」
「青春みたいな」
「知らん」
「ラブコメみたいな」
「アホか」
「男一人女子四人で住んでるやつに言われたくねえよ」
「俺が決めたんじゃねえし」
「でも住んでんじゃん」
「他空いてなかったからな」
「それで入るのもすげえよ」
「向こうがいいって言ってんなら別によくね?」
福山がこっちを見る。
「女子側が?」
「全員同意してるって学校から聞いた」
「ああ」
「じゃあいいだろ」
「……まあ」
何か変な顔。
「何」
「いや、お前、そういう感じなんだなって」
「どういう感じ」
「分からん」
「じゃあ言うなよ」
「うるせ」
前の方でざわつきが大きくなる。
十一組が入ってきたらしい。
何人か、普通に顔を知ってるやつがいる。
テレビで見たことある。
福山もそっちを見た。
「あ、東江ジュン」
「いるな」
「ほんとに同じ家なんだよな?」
「まだ疑ってんのか」
「いや、だって」
「本人に聞けば」
「無理に決まってんだろ」
「じゃあ信じろよ」
「お前は普通に喋れるの?」
「同居人だからな」
「ずる」
「知らん」
十一組が座る。
東江は遠くからでも目立つ。
髪もそうだけど、何か座り方から違う。
仕事してるやつってああなるのか。
その少し前。
八組。
一橋もいる。
もう隣のやつと話してる。
朝から走って、学校来て、今から入学式。
元気だな。
十組の方は位置的に見えにくい。
赤間は多分あの辺。
五組は近い。
武田はさっきと同じ女子の近くに座っていた。
家では全員同じリビングにいた。
同じテーブル使って、同じ冷蔵庫開けて、朝になったらそれぞれ勝手に出ていった。
学校に来ると、思ったより遠い。
四組。
五組。
八組。
十組。
十一組。
そりゃそうか。
別に、ずっと一緒にいるわけじゃない。
「長谷川」
「ん?」
「お前、知り合い多くね?」
「家のやつ見てただけ」
「それが多いんだよ」
「五人しかいねえぞ」
「十分だろ」
「そうか?」
前で先生が立った。
福山も口を閉じる。
俺も前を向く。
体育館の空気が少しずつ静かになる。
左膝を軽く曲げ直す。
問題なし。
舞台の上に校旗がある。
横に花。
名前は知らない。
入学式らしい。
そのうち校長が出てきて、長い話をするんだろう。
隣で福山が姿勢を直した。
俺も背中を椅子から離す。
ここから高校。
別に何かが急に変わるわけじゃない。
膝はまだ治りきってない。
サッカーもまだできない。
家に帰れば、多分一橋が何か散らかしてる。
武田は必要ない時には話しかけない方がいい。
赤間はまた変なところを見てるかもしれない。
東江は仕事でいないかもしれない。
それでも。
学校には学校で、もう福山がいる。
家には家で、あいつらがいる。
前方で、入学式の開始を告げる声が響いた。
まあ。
悪くない。




