第十話
教室に戻った時には、入学式へ出る前よりずっとうるさくなっていた。
前の方で立って喋ってるやつがいる。
机を挟んで向かい合ってるやつもいる。
廊下側の扉は開きっぱなしで、隣の五組の声まで混ざってくる。
まだ先生はいない。
俺の席は後ろの方だった。
椅子を引いて、座る前に左脚を少し伸ばす。
曲げる。
問題なし。
「長谷川」
すぐ後ろから声がした。
「何」
「お前、校長の話ちゃんと聞いてた?」
福山だった。
「聞いてた」
「マジ?」
「お前寝てただろ」
「寝てねえよ」
「三回くらい首落ちてたぞ」
「目ぇ閉じて聞いてただけ」
「じゃあ何言ってた?」
「……高校生活を」
「広すぎんだろ」
「うるせえ!」
福山の声が飛ぶ。
前の方の笑い声と重なった。
俺も同じくらいの声で返してるから、多分似たようなもんだ。
「てか、お前姿勢良すぎ」
「何が」
「式。ずっと真っ直ぐ座ってたじゃん」
「普通だろ」
「途中から腰痛かったんだけど」
「終わりじゃん」
「十五だわ」
「短い人生だったな」
「勝手に殺すな!」
足が飛んでくる。
椅子を少し引く。
空振り。
「下手」
「お前避けんなよ!」
「当たる方が馬鹿だろ」
「クソ腹立つな、こいつ」
福山が笑ってる。
こいつとは朝、席が近かったからそのまま話した。
サッカー部に入るらしい。
中学でどこにいたとか、ポジションとか、そういう話はもうした。
向こうは俺を知っていた。
マリノスの長谷川?
そう。
年代別も入ってた?
うん。
その辺を確認した後は普通だった。
むしろ、普通になってからの方がうるさい。
「なあ」
「ん?」
福山の目が俺の肩越しに動いた。
「右前」
「何が」
「あの子」
前を見る。
「どれ」
「一番右。前から二番目」
言われた場所を見る。
長い黒髪があった。
朝の出席確認で名前は聞いている。
天尾沙樹羽。
制服はほとんどそのまま。
リボンも普通。
スカートも変に短くない。
髪にも目立つ飾りはない。
それなのに、そこだけ妙に目についた。
背筋が真っ直ぐなのもある。
顔を横に向けた時も、首から肩まで変に崩れない。
東江とはまた違う。
あいつは仕事で見られることに慣れてる感じがする。
天尾は――なんだろう。
普通にしてるだけで、形が整ってる。
「あー」
「めっちゃ可愛くね?」
「可愛いな」
「だろ?」
福山の声が戻る。
俺も普通に返した。
前の席の男子が振り返った。
その横の女子も見る。
さらに前でも一人。
なんだ。
と思ってから気づいた。
そりゃ聞こえるか。
俺の席から天尾の席まで、結構ある。
「お前、声でけえぞ」
「お前もだろ」
「俺そんなでかかった?」
「同じくらい」
「マジか」
「マジ」
福山が急に声を落とした。
前を見る。
俺も見る。
天尾がこっちを向いていた。
目が合う。
金色っぽい目だった。
さっきまでは遠くて分からなかった。
そのまま数秒。
「聞こえた?」
聞いてみる。
「うん」
天尾が答えた。
「かなり?」
「かなり」
近くで誰かが笑った。
福山が小さく、
「終わった」
と言った。
何が終わったんだ。
もう聞かれてるなら仕方ない。
「まあ、俺も可愛いと思った」
「お前言うの!?」
今度は福山の声が一番でかかった。
笑いが少し広がる。
天尾は福山を見る。
それから俺。
「そう」
「うん」
「ありがとう」
「どういたしまして」
天尾が前を向いた。
終わった。
「いやいやいや」
「何」
「お前なんで普通なの?」
「何が?」
「本人に言う?」
「聞こえてたじゃん」
「だからって」
「今さら聞こえてませんでしたみたいな顔する方が変だろ」
「そういう問題かな……」
「知らん」
福山がまだ納得してない。
前の席のやつがこっちを見て笑ってる。
「長谷川、お前すげえな」
「何が」
「初日から強えよ」
「意味分かんね」
俺が笑ったところで、前の扉が開いた。
「はい、席つけー」
教室の音が少し下がる。
ジャージ姿の男の先生が入ってきた。
若い。
教卓まで歩くのも軽い。
肩幅はそこそこある。
体育教師っぽい。
「改めて。今日から一年四組の担任になった横谷です。担当は体育。よろしく」
やっぱり。
「よろしくお願いします」
教室中から返事が出る。
まだ揃わない。
横谷先生が少し笑った。
「薄いなあ」
前の方から笑いが起きる。
「入学式で疲れたか? まだ午前中だぞ」
また少し。
「じゃあもう一回。よろしく」
「よろしくお願いしまーす」
今度はさっきより大きい。
俺も出した。
横谷先生が頷く。
「よし。まず配るもの配るぞ。前から後ろ」
プリントの束が回ってくる。
一枚取って後ろへ送る。
福山が受け取った。
今度は何も言わない。
先生が話してる。
「今日の予定な。午前中はこのまま教室でオリエンテーション。昼休み挟んで、午後は軽くクラスでレク。その後は解散。部活見学行くやつは行っていい」
プリントを見る。
校内図。
時間割。
提出物。
学校生活の決まり。
紙が多い。
「明日から授業始まるからな。移動教室あるやつは場所確認しとけよ。伊吹花、校舎広いから最初は普通に迷う」
校内図を見る。
今いる棟。
体育館。
グラウンド。
特別教室。
食堂。
購買。
保健室。
階段の位置。
端まで行くと、結構遠い。
体育館からグラウンド側へ抜けるなら、中央階段より端の坂の方が楽そうだ。
今の左脚なら、段差が少ない方がいい。
「あと、購買な」
顔を上げる。
「昼休みは結構混む。使うやつは覚悟しとけ」
購買。
「先生」
「ん? 長谷川」
「パン何種類くらいあります?」
一瞬、横谷先生が止まった。
「そこ?」
「気になったんで」
教室で笑いが起きる。
「十種類以上はあるんじゃないか? 俺も全部知らん」
「へえ」
「明日見に行け」
「今日じゃ駄目ですか」
「行ってもいいけど昼休み初日から混むぞ」
「じゃあ見てきます」
「何で決定したんだよ」
「気になるんで」
「好きにしろ」
また笑いが起きた。
先生が説明に戻る。
俺もプリントへ戻る。
スマホの扱い。
ロッカー。
欠席連絡。
遅刻。
保健室。
図書室。
校内撮影。
必要そうなところだけ見る。
「あと部活」
また顔を上げた。
「今日から見学はできる。正式入部は来週以降。運動部で体験できるところもあるけど、勝手に混ざるなよ。必ず顧問か先輩に確認しろ」
後ろから椅子の脚を軽く蹴られた。
福山だろう。
振り返らない。
もう一回。
無視。
先生が喋ってる。
「特に怪我してるやつは、見学だからって調子乗んなよ」
今度は蹴られなかった。
説明が続く。
しばらくして、横谷先生がプリントを教卓に置いた。
「はい。とりあえずこんなもん」
時計を見る。
「質問あるやつ?」
静かになった。
誰も手を上げない。
横谷先生が教室を見回す。
「ない?」
ないらしい。
「いや、初日だからってそんな固くならなくていいぞ。どうでもいいことでもいいから」
何人か笑う。
でも手は上がらない。
さっき購買の話は聞いた。
他。
校内図を見る。
「あ」
手を上げた。
「長谷川」
「食堂って弁当持ち込みありですか?」
「あり。席空いてればな」
「ありがとうございます」
「今度はちゃんとした質問だな」
「さっきもちゃんとしてましたよ」
「パンの種類が?」
「大事じゃないですか」
「お前にとってはな」
笑い。
さっきより少し大きい。
横谷先生も笑って、次へ進む。
「じゃあ説明ばっかでも疲れるだろうから、残りちょっとだけ顔と名前覚える時間にするぞ」
教室の空気が変わった。
背もたれから身体を起こすやつ。
周りを見るやつ。
ちょっと嫌そうな顔もある。
福山が後ろで、
「来た」
と小さく言った。
「何が」
「こういうやつ」
「あるだろ」
「苦手なんだよなあ」
「頑張れ」
「他人事」
「他人だし」
「さっき友達になっただろ!」
「いつ」
「なってねえの!?」
前のやつが肩を揺らしてる。
聞こえてる。
横谷先生が教卓から離れた。
「まず近い席のやつと二人組作って。別に男女どっちでもいい。名前と中学と、入りたい部活とか、好きなものとか。その辺適当に話せ」
一瞬。
教室が止まった。
横を見る。
後ろを見る。
前を見る。
みんな相手を探してる。
まだ誰も大きく動かない。
福山と目が合った。
「福山」
「何」
「余ったら先生な」
「なんでだよ!」
近くで笑いが起きる。
横谷先生も聞こえたらしい。
「俺は嫌だぞ!」
「ほら」
「お前のせいだろ!」
「先生、福山泣きますよ」
「泣かねえよ!」
「泣いたら保健室連れてけ」
「先生まで乗るな!」
その辺から机が動き始めた。
横を向くやつ。
後ろへ椅子をずらすやつ。
前の方でも声が増える。
俺はそのまま後ろを向いた。
「ほら福山」
「結局俺と組むんかい」
「近いし」
「じゃあ最初から普通に言えよ」
「つまんねえじゃん」
「お前なあ」
福山も笑ってる。
「何話す?」
「知らん」
「自己紹介しろよ」
「もうしたじゃん」
「朝にな」
「じゃあ終わり」
「終わるな」
「昨日何食った?」
「急だな」
「俺弁当用に鶏焼いた」
「それ昨日の晩飯?」
「余ったやつ」
「何その情報」
「お前は」
「焼肉」
「負けた」
「何に?」
「肉」
「意味分かんねえよ」
周りの声が増えていく。
さっきまで前だけ向いていた教室が、全部違う方向を向いてる。
横谷先生は前で何か紙を見ている。
時々顔を上げる。
特に何も言わない。
「サッカー部、今日見に行く?」
福山が聞いた。
「多分」
「入る気はあるんだろ?」
「膝戻ったらな」
「今どんくらい?」
「走れない」
「マジ?」
「歩くのは平気」
「ボールは?」
「まだ」
「そっか」
福山の目が一回だけ左膝へ落ちる。
「お前が先入っとけよ」
「何で」
「後から入った時、先輩風吹かせてきたら潰す」
「怖えよ!」
「楽しみにしとく」
「入部する前から治安悪すぎだろ」
福山が笑った。
その時、横谷先生が手を叩く。
「はい、一回前向けー」
声が止まっていく。
俺も前を向いた。
「せっかくだから何人か、今話した相手を紹介してもらう」
「えー」
どこかから声。
横谷先生が笑う。
「嫌そうだな」
「嫌でーす」
言った。
「長谷川は元気だな」
「元気です」
「それは見れば分かる」
また笑う。
「じゃあ、その元気な長谷川の相手から。福山」
「俺!?」
「いい反応するから」
「長谷川のせいじゃん!」
「知らん。立て」
福山が立った。
少し前の席からも視線が集まる。
「えー……長谷川鳴美。サッカーやってます」
うん。
それでいい。
「元マリノスジュニアユースで、年代別代表にも入ってたらしいです」
そこまで言うのか。
教室の空気が少し変わった。
前の方。
右。
左。
何人かこっちを見る。
「え、マジ?」
小さい声。
「長谷川ってあの長谷川?」
別のところ。
サッカーやってたやつか。
右端の前から二番目。
天尾も振り返っていた。
横谷先生も俺を見る。
「長谷川、本当?」
「はい」
「へえ。じゃあサッカー部入るのか?」
「まだです」
「怪我?」
「はい。左ACLです」
「ああ」
一発で通じた。
さすが体育教師。
「いつ手術した?」
「二月です」
「じゃあまだ全然だな」
「はい」
「今はリハビリ?」
「そうです」
「無理すんなよ」
「はい」
終わり。
横谷先生はそれ以上掘らなかった。
「福山、他は?」
「他?」
「好きなものとか聞いてないの?」
「昨日鶏焼いたらしいです」
「それ俺の好きなものじゃねえよ」
笑いが起きる。
「じゃあ福山、お前聞き方下手だな」
「俺が悪いんですか!?」
「相手のこと引き出せてない」
「こいつが勝手に鶏の話したんですよ!」
「責任転嫁すんなよ福山」
「長谷川、お前黙れ!」
横谷先生が笑いながら次を指す。
その後も何人か紹介された。
中学。
部活。
好きなもの。
兄弟。
犬。
ゲーム。
だんだん教室の声も普通になってきた。
「じゃあ天尾」
「はい」
右端の前から二番目。
天尾が立つ。
椅子が引かれても、上半身がほとんど揺れない。
「相手の紹介な」
「はい」
隣の女子の名前。
出身中学。
吹奏楽部だったこと。
好きな食べ物。
家から学校までの時間。
飼ってる犬の名前。
好きな科目。
誕生日。
まだ続く。
それ、全部さっき聞いたのか。
「以上です」
横谷先生がちょっと止まった。
「天尾、よく覚えてるな」
「そうですか?」
「いや、俺もう半分忘れたぞ」
教室から笑い声。
天尾が少し首を傾ける。
多分、本当に分かってない。
変なやつ。
座る。
その時、天尾が一度こっちを見た。
目が合う。
少しだけ笑った。
何だ。
こっちも笑って前を向く。
横谷先生が何人か追加で当てていく。
返事する声は、最初より大きくなっていた。
「じゃあ最後」
横谷先生が時計を見る。
「この後昼だからな。あと一人だけ」
「先生もう昼でいいじゃないですか」
男子の一人が言った。
「お前らさっきまで静かだったくせに、急に喋るようになったな」
「腹減りました」
「それは知らん」
「先生は腹減ってないんですか」
「減ってる」
「じゃあ終わりましょう」
「お前ら先生を丸め込もうとすんな」
笑い。
俺も笑う。
横谷先生、結構乗るな。
最後の一人が終わる。
「よし。午前はこれで終わり」
時計を見る。
ちょうどいい時間だった。
「昼休み。午後は軽くレクやるから、時間までに戻ってこい。十一組は今日午後の日程ないけど、四組はあるからな。勝手に帰るなよ」
十一組。
東江はもう終わりか。
仕事あるやつ多いって言ってたし、そういうもんなんだろう。
「じゃ、解散」
一気に椅子が鳴った。
教室がまたうるさくなる。
福山がすぐ後ろから身を乗り出してきた。
「長谷川、昼どうする?」
「弁当」
「え、持ってきてんの?」
「うん」
「誰が作った?」
机の横に置いていた鞄を開ける。
弁当箱を出す。
「俺」
福山が止まった。
「……は?」
「何」
「お前、自分で?」
「そうだけど」
「女子四人と住んでて?」
「それ関係ある?」
「いや……」
福山が弁当箱を見る。
俺を見る。
また弁当箱。
「お前、マジで何なん?」
「長谷川鳴美」
「名前聞いてねえよ」
笑う。
購買も見たい。
パン何種類あるか、先生も知らなかった。
弁当はある。
でも、それはそれ。
昼休みが始まった。




